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2.それでこそタエさんだ


 *



「お前はいったい何者だ! その恰好は只者じゃないな? 名を名乗れ!」


 そう一喝したトシに追われ、捕らわれ、その胸の中で気を失うわたし。

 名を名乗れと言われて言えなかった気持ちは、今のわたしにすごくリンクしている。



 *



 そして屯所の中、拷問部屋にて。


「俺は土方歳三だ。お前の名は?」

「……え?」

「信じ合う者同士、名前も知らないではおかしいだろう?」


 ほほ笑むトシ。

 それにわたしも自然に微笑み返していた。

 トシが眩しそうにその目を細めた。



 *



 なんてことない日常で、すれ違いざまにわたしの手を取りそこに唇を寄せるトシ。


「そうやってわたしのことをからかうのはやめてください……!」


 振り払おうとしたができない。

 逆にトシに引き寄せられてしまう。

 握られた手が熱い。


 吐息がかかるほどの至近距離で真剣な面持ちで見つめられ、とたんに心臓が早鐘を打ち出す。赤くなった顔を自覚すると恥ずかしくていたたまれない。顔をそむけるとトシのもう一方の手が頬に添えられ正面を向かせられた。


「俺は一度もお前をからかったことなどない。本気だ」

「土方……さん」

「俺はお前が好きだ。言葉にしないと伝わらないのか。俺の想いはお前に届いていないのか」


 身じろぎしてもトシはわたしを離してはくれない。


「俺はお前に嘘を言わない。俺はお前に心底惚れている。俺を受け入れろ。いいな」


 素のトシであれば絶対に言わなそうな台詞だ。

 だが瞳に宿る色はトシの心を正しく表している。

 トシの顔がゆっくりと近づいてくる。


「タエ……俺を受け入れろ」


 わたしも心に正直になり、そっと瞳を閉じる。

 稽古の間、水谷ともトシともふりだけで済ませていた口づけを、わたしはわたしが望むままに受け入れていた。



 *



「タエは本当は俺のことが怖いんだろう?」


 近藤勇率いる面々との諍いの末、もう一人の局長である芹沢さんが討ち取られた。

 粛清に加わった隊士の一人が土方歳三だ。


 現場に遭遇してしまったわたしは、初めて見た殺人の行為と死体に顔を真っ青にしている。だが震えながらも、わたしは正直な想いを口にしていた。


「怖くなんかないっ……」

「なぜだ」


 そう投げやりに答えるトシの頬には目に見えない返り血が付着している。


「だって……だって土方さんだから」

「俺だから?」

「土方さんが何をしてもわたしは土方さんのことを信じている。俺のことを信じろって言ったのは土方さんでしょ……?」


 がちがちと歯を震わせながらも目だけはしっかりとトシに向いている。


「お前は……ほんとうに馬鹿な奴だな」


 疲れの見える顔に、確かに安らぎが見えたのは見間違いなんかじゃない。

 それがトシの定められた未来のように思えて、わたしの胸は悲しみで引きちぎれそうになった。



 *



 眠るわたしの横、様々なことに疲弊し懐疑心に支配されたトシがわたしの部屋を漁る。わたしが現代から持ってきていた鞄を押し入れの奥から見つけるや、トシは鬼気迫る表情で中身を取り出していく。


「これはなんだ? これも……これも……。どれも見たことがない。なんなんだ一体」


 本当は深く寝入っていることになっているが、わたしは寝たふりをしながらトシの台詞を注意深く聞いている。


 ややあって静止したトシは、まるで見知らぬ人を見るかのように、先ほどまで愛を語り合っていたわたしを見てつぶやく。


「……お前は本当は何者なんだ?」



 *



「お願い、行かないでっ……」


 トシの黒いシャツの襟元を、まるで浅葱色の羽織かのように錯覚しながら引き寄せる。


「お願い、わたしを置いていかないで。土方さんがいなくなったら……わたしどうすればいいの……?」


 稽古中、ここの台詞はずっと声高に叫んでいた。だけどもうそんなふうには言えない。どうしたらいいのか、本当に知りたくて。だけどきっとトシはその答えを知っていなくて。だから最後の方はかすれるように小さくなった。


 どうしてそんなに弱いわたしになってしまったのか、きっとこの役自身は分かっていない。だけど演じるわたし自身は分かっている。


 認めたくはないけれど、もうこの恋は終わりかけている。


 だけどやっぱりトシのことが好きなのだ。


 生まれた時代が違う二人。わたしは現代に生きるただの女子大生だし、トシは幕末に活躍する新選組の副長だ。それでもトシはわたしに恋してくれた。わたしもトシに恋をした。


 そんな最高の出来事を否定したくなんてない。


 わたしの泣きそうな様子にもトシは動揺しない。だけどトシの瞳の揺れる様を見れば分かる。トシ演じる土方歳三はまだわたしのことを好きで、だけど謎に包まれたわたしへの不信を隠せなくなっている。自分の立場や新選組を護るためにも、正体の不明な女に惑わされているわけにはいかないのだと、そう決意を新たにしている。


 それでもわたしの手に触れたトシにはほんのわずかのためらいがあった。


「……すまない。だが俺がいなくなれば獅子組は」


 それ以上を聞きたくなくて、わたしはとっさに叫んでしまう。


「だめ! このまま獅子組にいたら土方さんは死んでしまうんだよ?」


 彼がはっとした顔になる。


「タエ、お前はなぜそのようなことを知っている。……ひょっとして長州か薩摩の間者なのか」


 語尾に昨日までは見られなかった苦悩の様子が感じられた。

 今日のトシはいつにも増して迫力の演技を見せている。

 わたしもそうだ。わたしもトシの本当の名を呼び自分の名を呼ばれることで、完璧にこの劇の世界に没入している。


「違うっ」

「じゃあ……お前はいったい何者なんだ」


 答えられずわたしはうつむく。

 言いたくないことは言わなくていい、昨夜トシはわたしにそう言ったけれど、あらためて自分の非を突きつけられたようで胸が痛くて仕方がない。


「……そうか」


 長い間を置いてそうつぶやいたトシの声には、ただの失望でもあきらめでもない、複雑な想いが感じられた。



 *




 すべてを演じ終え。

 放心状態でいるとトシが声をかけてきた。


「……どう?」


 わたしは一度きつく目をつぶり、ぱっと開いた。

 暗い世界は全方位からの輝きに白く染まっていく。

 その世界の中央でトシがわたしにほほ笑んでいる。

 今日もトシの瞳は美しく、わたしは身も心も吸い込まれてしまいそうになる。

 その二対の瞳はやっぱりわたしにとっての最高のスポットライトだった。


「今と同じようにもう一回最初からやりたい」


 言い切ると、トシがその目を柔らかく細めた。


「それでこそタエさんだ」

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