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1.最後の稽古がはじまる

 とろとろとした夢から覚醒し出すと、薄く開いた瞼の向こうにトシが横たわっていた。その笑顔がいつもよりもまぶしく感じたのは、きっとカーテンの隙間から差し込む日の光のせいだ。


「おはよう、タエさん」

「うん……おはよう」


 トシの裸の胸にそっと引き寄せられた。


「照れてるタエさんも可愛いね」


 甘い言葉も、触れたところからじんじんと響くようなトシの体温も、朝から刺激が強すぎる。

 でも。


「……トシの体、あったかくて気持ちいい。嬉しい」


 思わず頬をすり寄せると、胸元、トシの鼓動が早くなった。


「トシ?」

「ほんともう……。なんでタエさんはそんなに可愛いの」


 きゅっと抱きしめる腕に力を込められ、わたしはつい笑ってしまった。


「ゆうべ言ったよね。トシはもっとわたしのことを好きになるって。そのとおりじゃん」

「……そうだけど。でもほんとたまらないよ。タエさんのことが好きすぎてたまらない」


 はあっと頭上でトシが深いため息をついた。


「僕、ほんとうに幸せだ」

「うん。わたしもすごい幸せ」


 顔を上げると、トシもわたしのことを優しく見つめてきた。

 どちらからともなく顔を寄せ、わたしたちは唇を合わせた。


 と、ピピピ、とスマホが軽快な音を奏で始めた。


 誰だこのいい雰囲気を邪魔する奴は、と、不愉快な気分になりつつ体の向きだけを変えて取ると、画面にはユイの名前が表示されていた。メッセージだ。


『おはよう。舞台テスト明日だけど大丈夫そう?』


「おわっ」


 すっかり忘れていた。

 奇声をあげて起き上がったわたしの無防備な背中を、トシがするっとなでた。


「おわっ」


 また変な声をあげてしまった。


「やめてよトシ!」

「どうしたの?」


 からかうような視線が何を問うているのか、その意味することを理解した。


「いや、明日は舞台テストだったなって」

「もしかしてタエさん、忘れてたの?」

「……忘れてた。だって昨日いろいろあったんだもん。……ねえ?」


 同意を求めてじっとトシを見つめると、トシの顔がみるみる真っ赤になった。


「またそうやって僕のことを翻弄して。もしかして煽ってる?」

「は?」


 きょとんとしたわたしに、「タエさんがそんなことするわけないか」と残念そうにトシが起き上がった。脱ぎ捨てられた衣服を取っててきぱきと身に着けていく。


「ほらどうしたの。時間がもったいないから早く稽古しに行こうよ」

「う、うん」


 トシの笑顔に促され、わたしもそそくさと服を着た。


 ユイには『ばっちりだよ』と打ち返した。

 すると即座に返事がきた。


『いつでも応援してるからね。大好きなタエちゃんのファン一号より』



 *



 洗濯ものを干し、朝食を摂り。

 それから浜へ向かって。

 どれもがここ数日と同じ行動だ。

 だが今日はそんな何気ない一つ一つに幸せを感じられた。


 隣にトシがいて。

 目が合ってほほ笑まれて。

 ふと甘い雰囲気になって。

 手に触れて、指をなぞられて。

 頬を包み込まれて、唇を重ねて。


 いつまでも触れていたくなる。見つめ合っていたくなる。言葉がなくてもトシの想いが伝わってくる。


 わたしの想いも伝わっていく。以心伝心、そうできる人と共にいることがこんなに心地いいことだと、わたしは今まで知らなかった。


 ユイと一緒にいるときも似たような幸福感に包まれるが、トシの場合はまた違う。幸福なだけではなく、蕩けそうな蜜に浸っているかのような気持ちになる。なのに、そうやって満たされているというのに飢餓感はひどい。もっともっとと欲しくなる。二人の間に漂う空気はどこまでも穏やかで、なのにそれとは真逆の焦りも時折感じる。


 わたしの瞳にはきっとすべての感情が映し出されているはずだ。なぜならトシはその都度わたしが望むように行動してくれるから。


 海へとつづくあぜ道を歩きながら、わたしとトシは固く手を握りしめている。繋いだ手の間にしっとりとした汗を感じるが全然不快ではない。


 たどり着いた浜は今日も日差しが燦々と照りつけていた。漂流物が散らばる砂浜を、トシの手に導かれて木陰に入る。陽光が陰ったと思ったら、わたしの前にはトシがいて、今日何度目か分からない口づけを落とされた。


 ぽぽぽっと顔が赤くなってしまうのはこの愛の行為に不慣れだから仕方ない。


「……わたしばっかりどきどきしている気がする」

「ははは」


 目を細めて笑うトシの胸を拳で軽く叩いて抗議する。


「トシばっかりこういうの慣れててずるくない? わたしももっと経験積んでおけばよかったなあ」


 もう一度叩こうとした拳はトシによって掴まれた。


「だめだよ、そんなこと言ったら。過去は変えられないし僕の前でそんなことを言うのはゆるさない」


 苛立ちは明らかに嫉妬によるものだ。

 だから仕返しとばかりにわたしも笑ってみせた。


「タエさん! ちゃんと分かってるの?」

「はいはい、分かってるって。じゃあ稽古しようか」

「もう……タエさんにはかなわないよ」


 満面の笑みを浮かべるわたしに、トシが不承不承手を離した。


「今日はどの辺を演じたいの」

「通しでやりたい。最初から最後まで全部。時間のある限り」

「うん。分かった。けど一つお願いしていい?」

「なあに?」

「僕の役、久方大五郎じゃなくて土方歳三の名前でやってみたい。いいかな」


 突然の提案に意図を探るべく見つめると、トシは無邪気に笑ってみせた。


「この劇、僕とタエさんの境遇に似てるでしょ。だから一度僕の名前でやってみたかったんだ。お夏の名前もタエさんの名前にしてみていい?」

「で、でも」


 言葉がうまく出てこない。


「本番前にそんな変更したら……明日のテストで困る」

「一度だけでいいから。お願い」

「でも」

「きっとそうした方がタエさんもお夏の役をより理解できると思うんだ。だからやってみようよ」


 惑うわたしに対してトシは一歩も退かなかった。

 トシの真意を量らんと食い入るように見つめたが、トシの笑顔の裏には何の作意も読み取れなかった。


 トシの言うことには確かに一理ある。

 本番前に相手役の名前を本来の正しいものに置き換えるのも、わたしからしたら正直助かる。

 だけどお夏の名前までわたしの名前に変えて大丈夫だろうか。


「タエさん」


 名を呼ばれ、いつの間にかうつむいていた顔を上げると、トシが言った。


「大丈夫だよ。だからやってみよう」


 その言葉に操られるかのように、わたしとトシの最後の稽古が始まった。

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