5.僕の人生は僕が決める
*
『本当の名前を教えてもらえますか』
『土方歳三』
『土方……? それ冗談ですか』
『どういう意味だ』
『どういうって……』
昼間、胡乱気に自分を見やった水谷のことをトシは今も覚えている。
その後水谷は台所で調理するタエを気にして口をつぐんだ。
水谷は去り際、玄関前でタエに向かってこう言った。
『俺の土方歳三には先輩のお夏が必要なんです』
その時ちらりとタエの背後にいる自分を見た水谷は、明らかにこう要求していた。自分で答えを探せ、と。
タエが部屋を飛び出した後、すかさず追い掛けようとしたトシの視界にタエの鞄が入った。そこからはみ出していた台本も。
悩むことなく台本に手を伸ばしていた。自分にとっては難解な文字の羅列、だが幾度も出てくる見慣れた漢字は容易に読解できた。
「タエさんは僕のことを知っているんだね……」
隣で眠るタエの頬を指先でそっとなでる。
「だからそんなに悩んでいるんだよね。でも僕の名前がこんな先の時代にまで残っているっていうことは、僕は絶対に帰らなくちゃいけないってことだよね……」
あと二時間ほどで朝日が昇る。そんな夜分遅い時間だというのに、トシはまったく眠くなかった。
昼間、浜で座り込み無心で海を眺めているタエのことを、トシは黙って見守り続けた。そして今も、自分のために悩み苦しむ愛しい人を飽きることなく見つめている。
カーテンの向こうには空の中ほどに浮かぶ白い月が見える。月明かりはタエのむき出しの肩や二の腕を艶めかせている。神々しいまでの美しさは、タエの有する本質的な美なのか、それとも恋に溺れる自分の色眼鏡によるものなのか。それはトシにも分からない。だが美しいこの人こそが自分の愛する唯一の人なのだと、その大事なことははっきりと分かっている。
いつまでもこうしてタエのことを眺めていたい。早く朝日が昇ればいい。きっと月光よりも陽光のほうがこの人を美しく輝かせることができる。儚さよりも力強さのほうがタエにはふさわしいから……。
ふと、窓際に微小な光の玉が生まれた。
玉はじわじわと膨らんでいった。それはやがて人の形をつくり、最後にはトシのよく知る人物の姿へとなった。それをトシは驚くこともなく観察していた。
『……歳三さん、ひどいじゃないですか。これまで誰にも心惹かれることなんてなかったのに、なぜそんなに簡単にこの人を好きになってしまったんですか……』
「ひどいのはなおだろう。僕のことを勝手にここに連れてきたくせに」
『だって歳三さんが京都に行ってしまうって言うから。わたしを置いて行ってしまうって言うからっ。だから歳三さんを預かってくれそうな人が必要で、歳三さんがそっちにいる間困らないようにって……!』
「なお。僕の人生は僕が決める。僕が何を選んで何を捨てるかは僕が決めることだ」
うすぼんやりと光る少女――なおがうつむいた。
『……どうしても歳三さんはわたしを好きになってはくれないんですね』
「なおのことはなおが生まれたときから好きだよ。だけど男女の、という意味では好きになることはない」
蜘蛛の糸よりも細く儚い望みをあっけなく断ち切られ、なおは何も言えなくなった。
沈黙の続く間、なおの体は時折小刻みに震え、そのたびに体にまとう光が粒子になって、きらきらと辺りに散った。
「ここと向こうの時の流れが同じなら、みんなが京都へ立つのは明日なんだろう?」
『……はい。明日の朝立つそうです。今日、近藤さんが、ここ数日歳三さんが見当たらないんだと佐藤の家まで探しに来ました』
「僕のことを戻してくれ」
きっぱりと言うトシの手は無意識なのだろう、一方は脇にある刀の柄に、もう一方はタエの肩に触れていた。
なおが薄く笑った気配がした。
『言われなくても。歳三さんが他の女性を愛するところなんて見たくないですから。それくらいなら京都に行って死んでしまったほうがよほどましです』
「はは。怖いな、なおは」
『恋をした女は怖いものだと知りませんでしたか?』
「僕をここに飛ばしたくらいだ、もうなおの恐ろしさは十二分によく分かったつもりだよ」
『……歳三さんの記憶は消させてもらいますから。わたしがこんなことをしたことも、歳三さんがそこに滞在していたことも全部』
「それは仕方ないね」
なおがそれを望む気持ちを変えることなどできはしないだろう。
歴史を正すためにもその方がいい。
何もかも忘れて京都に赴き、この時代にまで名を残すことのできる大偉業を成し遂げなくてはならない、そうトシは考えている。土方歳三という男がこの国にいたことを、後世に生きるタエが知ることができるように。
「元々僕は出立前に今までの自分のすべてを捨て去りたいって思ってたんだ」
『そう……ですか』
「うん。やっぱり僕はなおの言うような男にならなくちゃいけないんだろうね。なぜかそのことがここに来てよく分かった。僕の甘えも惑いも弱さも……何もかもを捨てないと、僕は京都で己がすべきことを実行できないんだと思う」
もしかしたら、なおが叔父の自分に恋慕の情を抱いたのも、不可思議な力を使えるのも、天が定めたことだったのかもしれない。ふとトシはそう思った。
それでもトシの中にくすぶるやるせない気持ちは、最後の願いを口に出させた。
「明日の早朝、出立の直前まではここにいさせてくれ。……頼む」
返事はなかった。
しばらくするとなおの輪郭はゆらぎ、端の方から溶けるように掻き消えていった。
第四章終了です。