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4.わたしのためだけに輝く瞳

 濃い橙色に変化した太陽の下半が水平線に沈んでいく。

 その様をわたしは松の木の下、砂浜に直に座りぼんやりと眺めていた。


 昼ごはんを摂った直後にここに来たから、かれこれ五、六時間はここにいる。その間水分は一切摂っていない。日陰とはいえ暑さで頭は朦朧としている。熱中症にかかる寸前なのかもしれない。昨日に引き続きなんという過酷な一日だろう。


 でも煮えたぎっていた頭にはこのくらいでちょうどいいのかもしれない。


 太陽が少しずつ降下し、だんだんと変色し、ようやく海の向こうに姿を隠し出し――わたしの心もまたようやく安定してきた。


「……もういっか」


 冷静になると自分の発言の愚かさに笑えた。

 これではまるで、『仕事とわたしとどっちが大事』と詰め寄るようなものだ。

 でもそれは違う。

 どちらが大事か、という問題ではないのだ。

 だってどちらもその人には必要なのだから。


 どちらが欠けても駄目なこと、どちらが優でどちらが劣か決められないことがきっとある。それがトシにとっての武士道とこの恋、わたしにとっては演じることとこの恋なのだ。


 恋ってすごい。恋は自分の中にある途方もない力と感情を生み出す。だけど恋が存在するせいでわたしを構築するもの、たとえば常識や価値観といったものがもろく崩れていく。


 恋はきっとわたしやトシが大切にしているものも壊すことができる。

 だが恋を守ることを選択してもう一方が失われるなんて状況になってはならない。


 ならば――。


「……トシ?」


 砂の鳴る音に振り向くと、そこには途方にくれた表情で立ち尽くすトシがいた。


「もしかして、ずいぶん前からそこにいた?」


 ゆるゆるとうなずいたトシが可愛くて、ついぷっと吹き出してしまった。


「……なんで笑うの」

「ううん。なんでもない。さ、帰ろ」


 勢いをつけて立ち上がったところで、強い立ちくらみを感じて体が傾いだ。

 まずい、そう思ったが、予想していた衝撃はなかった。

 おそるおそる目を開けると、トシの逞しい両腕に受け止められていた。


「大丈夫っ?」

「うん。ねえ、家までおぶって」


 甘えた声を出してみる。

 トシは虚をつかれた顔になったものの、すぐにほほ笑んだ。


「もちろん」


 いったん離れ、しゃがんだトシの広い背中に勢いよく抱きついた。


「タエさん、首絞められると苦しい」

「いいじゃん別に」


 ぎゅうっと抱きしめると、トシの体温が体中に伝わっていった。上半身から下半身へ、手の先へ、足の先へ。そして最後に胸の奥……冷えきっていた心へ。体は熱いのに心はこの上なく気持ちいい。


「ああ……」


 ため息と共にふっと顔がほころんだ。


「ほんとだ、トシの言うとおりだ……」


 Tシャツの首元にのぞくトシの素肌に頬を寄せると、しっとりとした感触だけではなく、直接触れないと感じ取れない熱の波動が伝わってきた。触れないかぎり決して知ることのできない温かさ……。


「こうしているとわたしの気持ち、トシに伝わる?」


 やや無言でいたトシは、わたしの尻を両手に載せてゆっくりと立ち上がった。


「うん。伝わってくるよ」


 トシの髪からはわたしと同じシャンプーの香りがした。でもそれだけじゃない、無性に心惹かれる不思議な香りを嗅ぎとれた。わたしの顔のすぐそばで揺れる長いポニーテールがなぜか愛おしくてたまらない。


「理由なんか……いらないんだね……」


 トシは何も言わず歩き出した。ざっざっと漂流物の散らばる砂の上を危なげなく進んでいく。その様はトシの生き方そのもののようだった。流木もゴミもトシの足をとめない。きっとトシにとって、進むことは当然のことで、そこに何があろうとも進むことをやめないのだろう。そして恋はーー。


「恋するのに理由なんてないんだね……。だから恋をとめることはできないんだね……」


 トシの肩に横向きに頭をのせると、視線の向こうには夕焼けに染まる海が見えた。上空のほうはもう薄暗い。星はまだよく見えない。雲に隠れているのか月も見えない。あれほどわたしを照らし続けた天然のスポットライトは……もうどこにもない。


「恋することって生きることと同じなんだね。どちらもやめることができなくて、大事で。ほんと恋ってやっかいだよね……」


 坂を上り藪に囲まれた平坦なあぜ道に入ると、海鳴りの音は遠ざかり、代わってトシのひっかけているサンダルの音と虫の鳴き声だけが聞こえた。ひんやりとした風が通り抜け、むき出しの肌の上を滑っていった。穏やかな空気がここにはあった。だけど触れているトシの体は変わることなく熱かった。しかしそれはわたしも同じだ。長い時間外にいて、恋の熱を抱え、悩み、熱くならないほうがおかしい。苦しくならないほうがおかしい。


 その熱を吐き出すすべを、わたしたち二人は知っている。


「でも大事だからこそ、大切にできるときは大切にしたい、そういうことなんでしょ?」


 目の前にあるトシの後頭部がわずかに上下に動き、トシのポニーテールが振り子のようにゆらゆらと揺れた。


「ねえ、お互いに見せられるところを見せようよ。全部。心も……体も」


 トシがわたしの体を抱え直した。

 それが返事の代わりだと分かった。

 宝物を扱うかのような丁寧な動き、それにより密着した二人の体がトシの答えを物語っている。


 でももっときちんと知りたい。

 トシがどれほどわたしを大切に思っているのか。

 どれほど好きなのか。

 それをきちんと実感したい。

 たとえ今後何があろうとも耐え忍ぶことができるような、そんな強い想いを実感したい。


 きらっと視界の片隅で一点の輝きを捉えた。


「……あ、一番星だ」


 まだ仄明るい空に煌めくたった一つの星は、わたしを照らす唯一のスポットライトになった。



 *



 アパートに戻り、トシの背中から降ろされるや、麦茶を立て続けに三杯飲んだ。トシも同じように一気に飲み干した。お互い水分に飢えていた。まだ照明もつけていない無言の台所に、二人の喉を鳴らす音だけが響いた。


 グラスを置き腕で口を乱雑に拭うと、トシと視線がかち合った。

 二人とも水に飢えていたし、涼しい場所にも飢えていた。

 だが二人はまったく別のことにも飢えていた。


 トシの目に見たことのない色が生まれ、その色がゆらゆらと揺らいでいる。

 濡れた口元が小さく開いている。


 わたしはとっさにトシに駆け寄り、その首元に飛びつき、唇を押し当てていた。

 トシもわたしを強くかき抱き、後頭部を支えて口づけを深めていった。


 それは昨夜の行為とは別次元のものだった。


 好きだという気持ちをただ伝え合うためのものではない。好きで好きで、だからこそ相手の全てを暴きたい、手に入れたいという劣情だ。だけどそうやって強く求められることでわたしの心は歓喜した。


「もっと、もっとわたしを求めて……!」


 息を継ぐ合間に望みは言葉となって吐き出されていった。


「わたしのことを求めて。トシがここにいるってことを感じさせて!」

「タエさん……!」


 トシがせっぱつまったような口づけを繰り返す。


「僕にもタエさんを感じさせて。タエさんがここにいるってことを感じさせて」

「わたしはここにいる。ここにいるから」

「ああ、僕だけの恋人、僕だけのタエさん……!」


 乱暴にも思える荒々しい所作で、トシは幾度も唇を押し当ててくる。

 両の頬を包む手のひらの厚さがトシが自分とは異なる性なのだと実感させる。

 期待と恐れで全身が爆発してしまいそうだ。


「もっとトシのことを感じさせて。今はトシだけを感じさせて……!」


 息を切らしながら訴えると、無限とも思える口づけをやめトシが顔を離した。

 その目はさらに揺らぎ潤んでいる。

 計り知れないほどの強い欲望を向けられ、心がぶるりと震えた。


「本当に……なんて素敵な人だろう、あなたって人は……」


 はあっと深いため息をつくや、トシはわたしを横抱きにして部屋へと運んだ。年季の入った床板や畳は、二人分の重量が通り過ぎるたびにぎしぎしと鳴った。


 トシはわたしを畳の上に横たえた。


 照明をつけていない部屋は、カーテンを全開にした窓からのわずかな自然光だけでなんとかお互いを見れる有様だった。それでも再び顔を近づけてくるトシの瞳は痛いほど強く輝いていた。さっき空で見つけた一番星なんて比較にならないくらいに強く。


 これまで舞台上で浴び続けてきたスポットライトの無数の光が、一つ、二つと、急速に遠くへと吸い込まれていった。


 代わりに真っ暗な舞台に現れたのはトシだった。


 天井を背にわたしに覆いかぶさるようにトシが身を寄せてきた。

 そうするとトシの瞳はまるでスポットライトのように見えた。


(トシのこの瞳さえ覚えていられれば)

(そうしたらわたしはこの先――ずっと生きていける)


 震える手を伸ばし、トシの頬に触れた。


「トシのことが好き……好きだよ……」


 手のひらに感じる温もりは、この人が今ここにいるという証だ。

 わたしは悲しい恋をしているわけではない。

 だって好きな人はこうして目の前にいる。

 触れることができている。

 それにこうして、わたしへの愛しさを全身で表してくれている。

 だから悲しくなんてない。


「タエさん、泣かないで……」


 トシが頬に触れているわたしの手をとって唇で触れた。


「違うよ……。これは悲しくて泣いてるんじゃないんだよ」

「分かってる。分かってるよ。だけど泣かないで。僕はタエさんの涙に弱いんだ」

「じゃあもうこれ以上好きにさせないでよ」


 少し笑ってみせると、トシはなぜか「ごめん」と言った。


「どうしたの?」

「僕は……今からタエさんを抱く」


 そうなるだろうことは分かっていた。

 この雰囲気、これまでの言動からそれは分かりきったことだった。

 だがそれを敢えて言葉に出したことで、トシの覚悟が痛いほどに伝わってきた。


「タエさんを抱くことで僕はもっとタエさんのことを好きになる。絶対に、これ以上はないというほどに好きになる。タエさんもそうだと思う。タエさんはきっともっと僕のことを好きになるよ。そうなってほしいと思って僕はタエさんを抱くから。僕の気持ち、願いはきっとタエさんに届く。でも……お願いだ」


 わたしを見つめるトシの切れ長の瞳はやっぱりスポットライトのようだった。

 わたしのためだけに輝く二対の瞳。

 わたしだけを映してくれる瞳。


「もう泣かないで。好きなら、幸せなら、もう泣かないで。いい?」


 約束はできない。だがわたしはこくりとうなずき、両手を伸ばしてトシを抱きしめた。





 トシの言ったことは正しかった。


 すべて正しかった。



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