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3.恋に運命という冠をつけるなら

 しばらくドアの前で立ち尽くしていた。


 なぜ水谷があんなことを言ったのか、まったく理解できなかった。


 わたしを窮地に追い込んだのは水谷自身だ。これまでどおり水谷がわたしの演技に合わせてくれていたら、きっとこんな事態にはなっていなかった。


 なのに水谷はわたしを待っていると言った。

 わたしのお夏が自分の土方歳三には必要だ……と。


「……そんなに鈴村さんの演技下手ってわけでもないよね」


 独り言をつぶやきながら振り返ると、すぐ目の前にトシがいた。

 まったく気配を感じていなかったら心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。


「うわっ」


 トシは苦しげにわたしを見つめていた。


「なに? どうしたの?」


 それでも何も話そうとしないトシに、幾分不安になった頃。


「……タエさんが憎い」


 トシがなんとも物騒なことを言った。


「タエさんのその自由さが憎い。無防備さが憎い」

「トシ……?」

「可愛いすぎて憎い。好きすぎて憎い。僕のことをこんなふうに振り回すタエさんのことが憎い」

「振り回すって、そんな」

「振り回してるだろ!」


 振り絞るような声音はわたしの言葉を奪った。


「僕たち、昨日お互いの気持ちを確かめ合ったんじゃないの? それなのになんで今朝になったらなかったように振る舞うわけ?」

「そ、それは」


 言いよどむわたしに、トシはさらに言い募ってきた。


「それになんで僕の前で水谷殿とあんなふうに親し気にするの?」

「水谷は後輩だもん、当たり前だよ」


 ようやく答えられる質問に遭遇してすかさず回答すると、トシがぐっと近づいてきた。


「年齢も地位も関係ないよ。水谷殿は男で……そしてタエさんは女だ」


 表情の硬さはトシが自らの発言を信じているからで、それがわたしの癇に障った。


「男とか女とか、わけ分かんない。そんなこと言ってたら役者なんてやってられないっつーの」


 トシを押しのけ部屋に入ったところで、背後からトシに抱きしめられた。


「ちょっと! 離しな!」

「じゃあ僕が一人で勝手に傷ついているってこと? 僕が勝手にタエさんのことを好きになって傷ついているってことなの?」

「そんなこと言ってない!」


 全力で腕を振り払い、真正面からトシをきっと見上げた。


「トシのほうこそ何か勘違いしてるんじゃないの? わたしが傷ついていないって? どうしてそんなふうに思えるの? 今日、わたしの演技をそばで見ていたくせになんで分からないの?」

「分かってるさ、分かってるに決まってるだろ!」


 大声はさらなる大声によって打ち消された。


「僕が気に入らないのは、タエさんのその態度だよ」

「気に入らないならさっさと嫌いになればいいじゃん」

「そんなことできるわけないじゃないか!」


 トシの一喝はわたしの言葉を再度奪った。

 狭いアパートの中に場違いに思える静寂が漂った。


 ぷん、と鼻が焼きそばの香りを探知した。ちゃぶ台の上にはまだ少し焼きそばが残っている。フライパンの中、油でてろてろと光る麺も、くたっとした野菜も、硬化したバラ肉も、何もかもが落ちぶれた人間の末路のようだ。


 まるでこの恋の行きつく先を暗示しているかのようだった。


「……だって辛いんだもん」


 トシに背を向けたまま、わたしは拳を固く握りしめうつむいた。


「何を見ても何をしてても、悲しくて苦しくて辛くなるんだもん」


 悲劇のヒロインとはよく言ったものだ。

 でもそんな自分にたまらなく嫌悪感を抱く。


 わたしは自分を好きになりたくて演劇を始めた。それからもう十年近くがたとうとしている。なのにたかが恋一つでわたしは自分を見失いそうになっている。


 こんなふうに、これからの人生、何か障害があるたびに躓き苦悩しなくてはならないのかと思うと恐怖すら覚える。


 たとえば今食べた焼そば。

 たとえば麦茶、たとえば納豆キムチ。


 なのに大好きなそれらは今後わたしを躊躇なくいたぶるのだろう。

 大好きなこの人との別れを思い出させるという、その一点のみで。


 そうやって数少ない好きなものを失っていって、わたしはそれでもこの世界で生きていけるのだろうか。


 演劇もそうだ。

 トシと共有する想い出の大半は演劇によって構築されている。

 だったら――トシがいなくなったらわたしは演じることができなくなるのだろうか。


 真正の恐怖で体がぶるっと震えた。


「辛いなら……」


 ふわり、とトシの両腕が背後からわたしを包み直した。それはさっきまでのような乱暴な抱擁ではなく、まるでわたしを心ごと包んでくれるような優しさと労わりに満ちていた。


「辛いなら、何でそれを僕と分かち合ってくれないの。確かにタエさんと僕は生きる時が違うよ。でも今、僕はここにいる。僕とタエさん、二人でここにいるんだ」

「だからってっ……!」

「ああ、ごめん。本当はタエさんのことを責めたいわけじゃないんだ。タエさんは僕に言えないことをたくさん抱えているってことは分かってるから。だから言えないことは言わなくていいんだよ。でも……」


 ほんのわずか、トシの腕に力が込められた。

 顔を肩の上に乗せ、トシが耳元でささやくように言った。


「すべてを言う必要なんてないよ。だけど僕にはすべてを見せて。心を開いて。そうすればきっと僕たちは幸せになれる」


 触れたトシの腕はわたしのものよりも太くて硬い。背中に当たる胸板含めて、この筋肉質な体はトシが武士になりたくて鍛え上げた成果なのだろう。


 でももしトシの言うことが本当ならば。

 今ここにいるのは二人で、二人だけで。

 何も言う必要はなくて。

 ただわたしが心を開いてすべてを見せて、トシに受け入れてもらえれば。


「そうすればわたしたち……もう苦しまなくて済むの?」


 トシが耳元で小さくうなずいた。


「だって僕たち、今ここにいるんだよ。今ここにいるのに想いを伝え合えないなんて、そんなの辛いに決まってるじゃないか。好きな人に好きと言って、その心に触れて」


 そっとトシがわたしの体を自分の方に向かせた。

 見上げるトシの瞳は柔らかく細められていた。


「心に触れるためにその体に触れたいと願って」


 頬をなでるトシの手が肩に置かれた。


「その体に触れることで心に触れられるんじゃないかと勘違いして」


 一瞬、トシの唇がわたしの唇に触れた。


「でもこうしてみて、僕はやっぱり勘違いじゃないと思う。昨夜もそうだった。僕はタエさんに触れることでタエさんの心の声を聴くことができた。僕のことが好きだと、そう叫ぶタエさんの心の声がしっかりと聴こえたんだ」


 もう一度、さっきよりもやや長く唇が触れ合った。

 はあっと、トシが微熱の混ざるため息をついた。


「好きな人の心がほしい、そう思うのは当たり前のことだよ。タエさんと僕、二つの心が共鳴することに喜びを感じるのも当たり前だよ」


 油断すると泣いてしまいそうで、わたしは眉間に力を込めた。


 トシと出会ってからのわたしは馬鹿みたいに毎日涙を流している。普段まったく泣かないのに、涙腺が壊れてしまったかのようだ。


 歪んだ顔にトシが苦笑いをし、わたしの眉間にそっと唇を寄せた。


「だからそうやって我慢しないの。ほんとタエさんは可愛い人だね」

「……トシは怖くないの?」

「なにが?」

「わたしたちが離れること。二度と会えなくなること」

「僕が元いた時代に戻ったらってこと?」

「そう……トシは自分のいた所に戻れた方が嬉しいんだろうけど」


 ぎくしゃくとうなずくわたしの頭を、トシがくしゃっとなでた。


「なんだ。そんなことを心配していたのか」

「そんなこと?」


 つい剣呑な態度になったわたしを、トシはまじまじと見つめた。


「僕、言ったよね。タエさんのことが好きだって」

「……言ったけど」

「じゃあこれは覚えている? 僕とタエさんの出会いは運命なんだって言ったこと」


 たまらず目を見開いたわたしに、トシはこれ以上はないほどに柔らかな笑みを浮かべた。


「運命ってそんな簡単な言葉じゃないよ。恋に運命って冠を付けるなら、それは一生で一度だけのものってことだよ」

「一生に、一度……?」

「そう。僕の人生でたった一つの恋、それがタエさんと僕との恋だよ。たとえ何があろうと、一緒にいられる時間が短くても、もう二度と会えない日が来ようとも、それでも僕はタエさん以外に恋することなんてない。それほどの恋なんだ」

「それじゃ新」


 新選組、と言いかけ、とっさに口をつぐんだ。


「試衛館の人たちはどうするの?」

「……タエさん」


 トシが辛そうに言った。


「僕は絶対に元いた時代に戻るよ。たとえタエさんと離ればなれになるとしても、僕はあっちに戻らなくてはいけない。僕が京都に行かなくては、僕だけじゃない、僕以外のみんなの願いを裏切ることになるからね」

「みんなで武士になるって……ことだよね」

「うん。もう誰一人欠けても成り立たない状況になっているから」

「……じゃあトシが前に言っていたことって何なの?」


 初めて会った日に二人で浜辺で語り合ったことは、今もはっきりと覚えている。

 なぜならその瞬間、わたしはトシを好きになったからだ。


「人は自分のために生きなくちゃいけないんじゃないの? なのになんでトシはわたしを置いていけるの? なんでこの恋を守ろうとはしないの?」


 それはずっと疑問に思っていたことだった。


 トシが言うことすべてが正しいとしたら、トシは自分のためにこそこの恋を守るべきなのではないだろうか。


「運命の恋だとしても、それでもやっぱりトシは捨てることができるの……?」


 これほどわたしを振り回すくせに、恋は結局二番手にしかなり得ないのだとしたら、やっぱりこの恋に価値なんて――ない。


「……ごめん、わたしちょっと一人になりたい」

「タエさん待って」

「離して!」


 伸ばされた手を払い、わたしはトシを残してアパートから飛び出した。

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