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2.俺も待ってますから

 正午を過ぎたところで昼食と休憩を兼ねてアパートに戻ると、我が家のドアの前に、金に近い茶髪の頭が階下からでも見えた。それは水谷だった。ドアに背をもたれ、腕に黒くて細長い袋を抱えている。


 わたしたちが砂利道を歩く音に気づいて、水谷が顔をあげた。


「どうしたの? なんで水谷がここにいるの?」


 水谷は座ったまま階下にいるわたしたちを見下ろしてきた。


「預かり物を届けに来ました」


 軽く持ち上げられた細長い袋、そのシルエットから、それが昨夜預けたままだったトシの愛刀だと分かった。


「あー、ありがとね。今そっち行くから」


 早足で階段を上る。水谷はわたしが到着するのに合わせたかのようにゆったりとした動作で立ち上がった。


「ごめん、けっこう待ったでしょ」

「大した時間ではないですよ。それより先輩のそれ、どうしたんですか」

「へ?」


 水谷があまりにまっすぐわたしの目を覗き込むから、質問の意図はすぐに分かった。


「あ、これね。泣いたのは舞台の稽古してたからで、それだけだからね」


 普段がさつで男っぽいくせにプライベートでは女々しい奴だなどと思われたらたまらないから、強く言っておく。


「稽古ですか」

「そう。稽古……ってなんで笑うのそこで」

「え? 笑ってます?」


 水谷が手で口元を覆った。

 だが隠されていない目元は確かに柔らかい。


 ほんと水谷のくせに生意気な奴だ。と思いつつも、突飛な行動をしでかした昨日の自分をゆるしてもらったようで悪い気はしなかった。


「ところでここ、金子に訊いたの?」


 演劇部では部長兼同級生の金子くらいしかわたしの住所を知らない。

 別に秘密主義なわけではない。住んでいる場所を自ら暴露する必要性がこれまでなかったからだ。


「ええ。なんでそんなこと訊くんだって尋ねられちゃいました」

「まあそりゃあそうだよね。で、なんて答えたの? あ、麦茶くらい飲んでいきなよ」


 鍵を回し入れる横で水谷がそっとため息をついた。


「……お邪魔してほんとにいいんですか」


 ためらいがちな水谷の声はドアにかがむわたしの上を素通りして、遅れてやってきたトシの方に向かっていた。


「なんであっちに尋ねるわけ? 家主はわたしなんですけど」


 水谷がわたしに視線を移し、もう一度小さくため息をついた。


「いいからいいから。早く入りなって」


 先導するように中に入ったわたしには、ドアの向こう、水谷とトシが物思う様子でお互いを観察していたことには気づかなかった。



 *



 透明なグラスに麦茶を三杯、お盆に載せて持って行くと、部屋ではトシが水谷から刀を返してもらっているところだった。


「かたじけない。恩にきます」

「いいですって。俺も日本刀持つなんて初めての経験でちょっと興奮しました」

「へえ、水谷でも興奮することなんてあるんだ」


 話題に入りながら腰を降ろすと、水谷が困ったように下を向いた。


「先輩にとっての俺って一体どうなってるんですか」

「無感動。無表情。何考えているか分からない奴」


 思ったとおりに答えると、水谷の頭が余計に下がっていった。


「トシさん、でしたっけ。よく先輩と一緒にいられますね」

「それどういう意味」


 くってかかろうとしたところで、トシがさらりと言った。


「僕はタエさんと一緒にいるとすごく幸せだよ」

「え」


 見ると、トシは言葉通りの表情でこちらを見ていた。


 前にも同じことを思った、トシの瞳はどこまで明るくなれるんだろうって。透き通るような深い黒の虹彩は、純真なトシの心を素直に映す水面のようだ。


 その瞳が自分のほうを向いている、ただそれだけのことで、わたしの素直な胸は簡単に高鳴っていった。


「……やっぱり俺、お邪魔みたいですね」


 立ち上がりかけた水谷の腕をとっさに抑え込んだ。


「先輩?」

「いや、全然大丈夫」

「え、でも」

「お邪魔なんてこと絶対にないから」


 トシとの間に漂う甘い雰囲気は嫌いじゃない。いや、好きだ。正直いうと好きで好きでたまらない。このまま昨夜のように見つめ合い抱きしめ合い、熱くて激しい口づけを交わしたい。好きな人と交わす口づけがあれほどまでに甘美なものだということを、わたしは昨日初めて知った。


 だけどそうやってなし崩し的に恋に浸ってしまったら、きっとわたしたちは引き返せないところまでいってしまう。


 この恋は破滅することが定められている。

 この恋はわたしとトシが一番に願うものを損なう。

 だからやっぱり、理性が残っているわたしこそがこの恋を制御しなくてはならない。


 水谷の存在はそんなふうに考えるわたしにとってちょうどよかった。


「せっかくだからお昼ごはん一緒にしようよ。焼きそば作るからさ。豚肉たっぷり入れてあげる」


 それに実は訊きたいこともある。


「いいよね、それで」


 ぐっと顔を近づけて脅すと、水谷は無言で小さくうなずいた。

 いつもそう、水谷はわたしがこうしたいああしたいというと最後には必ず承諾する。

 だからこそ、先日の水谷による演技放棄は、天と地がひっくり返るような予想外の出来事だったわけだが……。


「そこで待ってな」


 言うや、キッチンに行き調理を開始した。


 今日は見切り品の焼きそばを使おうと前から計画していた。焼きそばはわたしの得意料理の一つで、キャベツともやしを大目にいれるのがポイントだ。今日はここに贅沢に豚バラ肉も大量に投入しよう。男二人と女一人、しかも大食漢のわたしがいるから、フライパンいっぱいに作ってちょうどいいだろう。


 部屋では二人がぽつぽつと何かを語っている。特にまずい会話はしていないようだが、気が気でないので手早く作業をしていく。キャベツは手でちぎるだけ、もやしはざるにあけてざっと洗っただけ、豚肉はあらかじめ切って冷凍してあったものを解凍するだけ。それらをちゃちゃっと炒め、麺を加え、最後に粉末ソースを全体にからめればできあがりだ。


 フライパンのまま二人が囲むちゃぶ台に持っていき、手近な雑誌を鍋敷代わりにして豪快に置く。もう片方の手で持っていた小皿と箸をそれぞれに渡した。


「さ、食べよっか」

「なんていうか……先輩らしい料理ですね」

「でしょ?」


 さっきから空腹に耐えかねていたので、我先にと箸を突っ込み自分の皿を大盛りにする。


「いっただっきまーす」


 あつあつ、と言いながらも口いっぱいに頬張る。こうやって食べないと焼きそばを食べた気がしない。炒めた直前の焼きそばは最高だ。野菜のしゃきしゃきとした歯ごたえと豚肉のジューシーさ、それにソースのスパイシーな香りがたまらない。


「くうう、おいしい」


 感激に身悶えするわたしに続いて、トシも同じ表情になった。


「うわあ、これほんとうにおいしいね」


 りすのように頬を膨らませ、むしゃむしゃと食べている。


「じゃ、じゃあ……俺も」


 水谷がおそるおそるといった感じで箸を伸ばす。それでも、口に入れれば「あ、ほんとおいしい」とつぶやいた。よしよし、とわたしは一人ほくそ笑む。


 しばらく無心で食べ続け、フライパンの中身が半分ほどになったところで、わたしは水谷に切り出した。


「あの、さ」

「はい?」

「その、なんつーか。あの」

「なんですか。はっきり言ってください」

「あの、だからさ。あの……みんなは、その……どうしてるかなって思って」


 軽く目を見開いた水谷は、口の中のものを喉を鳴らして飲み込んだ。


「演劇部のみんなのことですか?」

「う、うん。稽古、順調?」

「そうですねえ」


 水谷は箸を置き、麦茶を口に含んだ。


「鈴村さんはよく頑張ってますよ。初めてのヒロインなのに一生懸命演じてくれています。台詞もほぼ全部入ってますし」

「もう? それすごくない?」

「はい。ですが鈴村さん、元々舞台鑑賞が趣味だったようで、趣味が高じて登場人物すべての台詞を覚えないと気が済まないタイプなんだそうです。だから本当は今までみたいに端役をたくさん演じるほうが彼女の性分には合っているようですよ」

「へえ……そういう人もいるんだ」


 それは新鮮な驚きだった。

 役者であれば誰もが主役を演じたいものだと勝手に想像していた。


「だから早く先輩に戻ってきてほしい、そう言ってましたよ」

「そ、そう」

「部長も先輩がいないと怒鳴る相手がいないってぼやいてましたし、菊池先輩も先輩がいなくてなんだかさみしそうでした。スポットライトの当てがいがないって」

「あはは。菊池でもそういうこと言うんだね」


「あれ? 意外と普通ですね」

「なにが」

「いえ。先輩は菊池先輩のことを好きだと思ってたので。まあでも、トシさんっていう恋人がいるんだから当たり前か」

「いやいやいやいや」


 とうとうわたしも箸を置いた。


「トシとはそういうんじゃないから」

「でも……一緒に住んでいるんですよね」


 はっとしてトシの方を見ると、トシがややむっと唇を尖らせていた。

 こいつ勝手に喋ったな、と軽く睨む。


「いや、一緒に住んでいるったって、一昨日からだし。しばらく預かっているだけだし」


 全力で否定した理由は自分でもよく分からない。

 だが素直にうなずくことも恥じらってみせることもできなかった。


「じゃあ……トシさんと先輩ってどういう関係なんですか」

「え」


 水谷は言いにくそうに口ごもりながらも、最後にはわたしを強く見つめてきた。眼光に気おされトシの方を見ると、トシもまた同じようにわたしを見つめていた。まるで二本の刀を向けられているかのようだ。多勢に無勢、万事休す。そんな言葉が取り留めもなく頭に浮かぶ。


 たっぷりと時間をおいて、わたしは首をかしげつつ答えた。


「……同志?」

「同志……ですか」


 水谷が何とも言えない表情になった。トシもまた、喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないといった複雑な表情になっている。


「ちなみにそれと偽名を使った理由は何か関係あるんですか」

「偽名?」

「ほら。トシさんのこと、大五郎さんって言ったでしょ、昨夜」


 あっと口が開いたのは、典型的な『やってしまった』の表情だ。

 数拍おいて、水谷がくしゃっと笑った。


「はは。ほんと先輩らしいや」

「……生意気だぞ後輩のくせに」

「先輩のそういうところ、俺好きですよ」

「何言ってるんだ、後輩のくせに」


 つーんと横を向き、そのままよっこらせと立ち上がる。


「さっさと部活行きなよ。もう午後の稽古始まる時間じゃん」

「そうですね。では御馳走様でした」


 両手を合わせ、水谷は素直に席を立った。


「あの、トシさん。それじゃあ」


 それにトシは無言で小さく頭を下げた。


 同じように会釈した水谷を玄関まで送ると、靴を履き姿勢を起こした水谷がふっと真面目な顔つきになった。


「俺も先輩のこと待ってますから」

「……え?」

「俺の土方歳三には先輩のお夏が必要なんです。だからあさって、絶対に頑張ってください」


 それだけ言うと、水谷はわたしの返事を待つことなく去っていった。

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