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1.お夏になりたい

 朝、目を覚ませば、窓の外では早起きな太陽がこれでもかというくらいに輝いていた。今もまだ八時だというのに外出する気も失せるほどに気温は上昇している。いったいこの夏はどこまで酷暑となるのだろう。


 ごはんとみそ汁、目玉焼きとウインナーという朝食を終え、わたしとトシはデザート代わりのバナナを食べている。トシは至福の表情でバナナのとろけるような甘さを堪能している。ゆっくりと口に運び、じっくりと咀嚼している。時折目を閉じ感極まった表情になるのが面白い。


 わたしの方はといえば、物心ついたときから毎朝一本を腹に収めていることもあり、機械的にもしゃもしゃと食べているだけだ。窓のそばに座り灼熱の下界を眺めていると、それだけで一日の気力を使い果たした気分になってきた。今日はいつも以上に潮の香りがきつく感じる。こういう時、今が夏なんだと実感する。


 窓辺にはハンガーにかけられたわたしとトシの服が仲良く並んで風に吹かれている。持ち主の心境とは対照的に、衣服は素直に寄り添い合っている。清涼感のある柔軟剤の香りを、時折気まぐれのように辺りに漂わせながら。


 昨夜の出来事は夢か幻のようだ。


 暗い部屋の中、二人、ずっと抱きしめ合い口づけを交わしていた。少しでも離れてしまうとこの恋が終わりそうに思えて。少しでも唇を長く触れ合わせればこの想いのすべてを相手に理解してもらえるのではないかと期待して。


 わたしがどれだけトシのことを好きか、きっとトシは知らない。

 昨夜のことでわたしの恋心は途方もなく肥大化してしまった。

 こんなに好きになってしまったことに正直恐れがある。

 自分で自分を制御できない、ただ恐ろしいだけの恋だ。


 昨夜どちらから唇を離したのか、腕を解いたのかも覚えていない。気づいたら放心状態で座っていて……気づいたらベッドで寝ていた。


 トシは畳の上で寝息もたてずに深く眠っていた。

 明け方目を覚ましてその寝顔を見た瞬間、わたしはなぜか泣きそうになった。


 洗濯物から視線を逸らすと、向かいの陽光の強さに目が痛んだ。


「……今日も暑いね」

「そうだねえ」


 のんきな返事が背後からした。


 目覚めたトシからは昨夜の情熱は影も形も失われていた。だけど忘れたふりをしているわけではなく、切れ長の瞳にはありありと恋慕の色が映っていた。それを見ないふりをしているのはわたしの方で、普段どおりに軽快に振る舞い、朝食を作って豪快に食べてみせたところだった。


「これからどんどん暑くなるんだろうなあ」

「夏って普通そうだよね」

「……外行くの面倒だなあ」


 はあっとため息をついて窓辺に顎をのせると、トシがそばに寄ってきてわたしの手元を覗き込んだ。


「まだ半分も残ってるね」

「『半分も』じゃない、『半分しか』だよ」

「僕が食べてあげようか」

「だーかーら。話聞けっつーの」


 ぽかっと軽く頭をこづき、大口で残るバナナを食べ尽くした。


 すべてを咀嚼し胃袋に収めると、途端にわたしのやる気が満ちていった。体って単純だ。毎朝バナナを食べたら活動を開始する、そう決めているせいで、ちょっとくらい心や体が重くても、暑くても、心がギアをかけて前に進もうとするのだから。


「よし。それじゃさっそく稽古に行きますか!」

「はーい」


 トシの笑顔に癒されつつも……わたしは哀愁を感じざるを得なかった。


 一度諦めると決意した恋は、心の片隅にしっかりと根を張っている。

 消えたくない、死にたくないと、生まれたての恋は必死に抵抗を続けている。


(ごめんね……でもだめなんだよ……)


 血を流し苦しみに悶えながら消えるよりは、今ここでわたしの手で葬り去る方がよほどいいと、わたしはまだそんなことを思っていた。



 *



 浜には今日も誰もいなかった。

 ねっとりとした潮風は重く、いつも以上に海の輝きが強く感じられる。サングラスでも持ってくればよかった。


 だがこんなふうに浜で朝から過ごす日々も、あと二日だと思えば我慢できる。

 舞台テストはあさってに迫っている。

 今日と明日練習して、あさって無事テストに合格すれば、ここへ来る頻度は以前のとおり週に一回程度となるだろう。


 今日は劇の中盤から最後までをじっくり取り組むことにした。


 実る可能性が皆無とはいえ、土方歳三への恋心を知ることができたわたしには、愛と悲しみに満ちた劇の後半、お夏の心境が手に取るように理解できた。


 土方歳三からの熱烈なアピールを受けいれ両想いになる二人。

 初めての恋に胸を高鳴らせるお夏。

 時を超えて結ばれた純愛だからこそ、二人の関係は永遠に続くと信じていた。

 だがそれも、時代という荒波によって少しずつ傷つけられていく――。


「久方さんはわたしと一緒にいたくないの?」

「俺だってお前と共にいたいよ」

「だったら今すぐ獅子組を捨ててよ。わたしと二人でどこかで暮らそうよ」

「お前……何を言ってるんだ」


 冷めた目で見られ、わたしの心はえぐられた。

 演じる側だって馬鹿なことを言っているのは百も承知だ。


 新選組には厳格な規則があり、組を脱退したものは問答無用で切腹させられたそうだ。

 そしてこの規則を制定したのは久方大五郎もとい土方歳三本人だったらしい。


 それでも実際にトシにそんな目で見られると、たとえ演技であろうとも辛かった。


「久方さんはわたしの気持ちなんて全然分かっていないわ!」

「……お夏?」

「わたしだって本当はこんなこと言いたくなんてない。久方さんがどれだけ獅子組のことを大事に想っているか知ってるもの。好きな人が大切にしていることを否定なんてしたくない。でもそう言いたくなるわたしの気持ちに少しは寄り添ってくれてもいいじゃない!」

「俺は副長なんだ。女のために士道を曲げるなんてゆるされることじゃない」

「誰がゆるさないの? それって自分じゃないの?」


 血走った目でははっと笑ってみせる。


「あなたが決めたことのくせに。わたしと一緒にいたいと本気で思ってるんならなんでも……!」


 なんでも。


 ……なんでも?


 急に長い時間声を詰まらせたわたしをトシが心配そうに見つめてきた。


「なんでもなんて……できるわけないのにね。お夏って馬鹿だよね」


 うつむきぽつりとつぶやいたそれはトシには聞こえなかったようだ。


「タエさん?」

「ごめん、いったん休憩。自分の中のお夏と語らないとダメみたいだ」

「え?」

「ちょっと休憩させて。ほんとごめん」


 振り切るように木陰を出ると、遮るもののなにもない砂浜は異様なほどに眩しかった。広がる海面には無数の鏡があるかのようで、そのすべてが陽光を反射しわたしを狙い撃ちにしてきた。だが負けることなく波が来る手前のところまで進み、その場で腰を降ろした。トシは不可解そうにしていたものの追いかけてはこなかった。


 無限に広がる海を見つめ、波が寄せてかえす音を聴いていたら、整理できない心の軋みが段々と解れていった。


(……やっぱりお夏は馬鹿なんだなあ)


 演じれば演じるほど迷宮に潜り込んでしまっていたわたしの思考は、その一点に気づいたことで随分楽になった。


(言ってもどうしようもないことを言ってさ……本当に馬鹿だよ)

(言わないでいたほうが恋が続いたに決まってるのにさ……)


 役を演じるためにはその役を理解していないといけない。それは随分前から知っていた演技の摂理だ。だが長い間がむしゃらに演じ続けていて、その根本をわたしは見落としていたようだ。


 お夏はわたしと同じR大学の女子学生という設定になっている。だからわたしはその設定一つで役をイメージすることができていた。だからあとは、見せ場毎に声の出し方、体の動かし方、顔の向け方、そういったことを舞台映えするように構築さえすればよかった。まあ実際にはそれで金子や水谷にだめだしをくらったわけなのだが。実際、性格も言動もわたしとお夏とでは全然違う。


 だがトシと演技していると、まるでわたしがお夏自身になったかのように錯覚してしまう。いや、そうなりたい、役に浸りたいと熱望してしまう。そうしてお夏になりきりトシと演技をしていると、胸がつまるほどの幸福感で満たされていく。永遠の別離が目前に迫っている恋人同士を演じているというのに、だ。


「……あ、そうか」


 また一つ分かった。


 お夏は確かに馬鹿だ。だけどお夏のその一見愚かに思えるふるまいをわたしは少なからずうらやましく思っていたのだ。


 わたしも言いたいことをもっと言いたい。

 全力でトシにぶつかりたい。

 この恋についてトシと語り合いたい。

 それができるお夏は、わたしの理想なのかもしれない。


「そっか……そうだ」


 だったら演技中、わたしは思いきり馬鹿になってやろう。

 言いたいことを言って、トシを責めて、涙を流して、抱き合って。

 その代わり、演技が終わったら賢い自分に戻ろう。


 決断し立ち上がると、無数の光線がわたしを照らした。

 スポットライトはここにもある。もっとも大きな照明である太陽は今日も暴力的なまでの輝きと熱を上空から放射している。


 わたしはトシの元に戻るや演技を再開した。

 それからは飽きることなく演じ続けた。

 潮風のたゆたう中、土方歳三に本気で恋をし、本気でぶつかり、本気で別れと失恋を悲しんだ。


(ああ……わたし今ちゃんと演じることができてる――)


 土方歳三とはぐれ、気づいたら現代に戻っていたお夏が茫然と立ち尽くすクライマックスの画面で、わたしは天然のスポットライトを全身で浴びながら涙を流した。


 部室では一滴も出なかった涙は、念じずとも永遠とも思える時間流れ続けた。

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