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わたしを見て そばにいて触れて抱きしめて ~土方歳三と演じた四日間~  作者: アンリ
第三章 あなたへの想いを認めるまでの時間
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5.たとえ今だけでも

 包丁で切ってしまった、そう言い訳して緊急外来で三針縫ってもらった。


 トシは処置の間ずっと申し訳なさそうにしていたが、「この世界ではこのくらい普通だ」「そっちの世界と違って痛くないんだ」と嘘を突き通した。


 帰り道。

 ずっと泣きそうな顔をしていたトシがふいに頰を緩めたことに気づいて、ほっとしつつ問いかけた。


「どうしたの?」

「ああごめん、つい思いだしちゃって」


 ふふ、と笑うトシの目元は柔らかでまた一つ安堵した。

 だが。


「タエさんと水谷殿の言い合っているところは、なんだか僕と総司みたいだったなって思って。言いたいことを言い合える関係っていいよね」

「そうお?」


 さすがに嫌そうな顔をみせたわたしにトシが表情を崩した。


「タエさんは……本当にいつも正直で素敵な人だね」


 突然の発言にトシを見ると、トシは空の中ほどに浮かぶ月を見上げていた。肥えた月は淡く白い。懐かしい何かを月を通して見ているかのように、トシの目元はより一層柔らかになっていた。


「……正直なのはトシのほうじゃん」

「え?」

「トシの方がよっぽど素直じゃん。だから……だから辛くなるんだ」

「タエさん……?」

「トシはさあ、かぐや姫の話って知ってる?」

「竹取物語のこと、だよね」

「かぐや姫ってさあ……残酷な人だよね」


 昔話について突然語り出したわたしのことを、隣で歩くトシが見つめているのが分かる。だけどわたしはさっきまでのトシと同じように月の淡い光だけを見ていた。


「拾ってもらって大切に育てられて、数ある求婚者をひどい嘘で傷つけて。なのに最後はさ、ここにいた記憶を捨てて天にさっさと帰っちゃうんだよ。おじいさんとおばあさんに泣いて引き留められてもさ、かぐや姫は知らん顔で帰っちゃうんだ……。どれだけ二人がかぐや姫のことを大事に想っていたかも忘れてさ……ひどい奴だよね」


 月は手を伸ばせば届きそうなくらい大きい。

 だけどどれだけ手を伸ばしてもけっして触れることはできない。

 大きく見えてもここと天空との間には途方もない距離が広がっている。


「きっとさ……おじいさんとおばあさんは毎晩月を見ては泣いてたと思うよ」


 欠けては満ちる月。

 欠けないでと願っても月は必ず欠けてしまう。

 ひと月もすれば満ちると知ってはいても……日々小さくなっていく月を見るのは辛いに決まっている。

 あそこには大事に育てたかぐや姫が住んでいるのだから。

 もう自分のことを覚えていない薄情な束の間の娘であったとしても、幸せを願わずにはいられないに決まっている。


 わたしは昔からかぐや姫の話が好きではなかった。


「タエさん」

「なあに?」


 もう湿っぽい話は終わりだ。


 かぐや姫は月の住人で、罪を雪ぐために一時的にこの地で暮らしていただけのこと。であれば月へと戻らねばならない。戻りたいと言うのを引き留めることなんて誰にもできない。


 おじいさんもおばあさんも、五人の求婚者も、自分たちで勝手にかぐや姫を好きになってしまっただけのことだ。


 トシが何か言いかけたが、わたしは間髪いれずに明るい声をあげた。


「そうだ、昼間はごめんね。うまく演じることができなくてなんだかむしゃくしゃしちゃってさ、それでついトシにあたっちゃっただけなんだ。だから明日からまたお願いね?」


 しばらくトシは返事をしなかった。


 二人で夜の道を歩き続け、もうそろそろアパートといった頃になって、トシがようやく言葉を発した。


「ここにいるかぎり、僕はタエさんのためならなんでもするから」


 未経験の感情ではちきれんばかりの胸を抱えて、わたしは小さくうなずくのでやっとだった。





 顔を見られないように伏せ気味にして階段を上る。だがこのまま暗い部屋に入ることになぜか心が怯んだ。鞄から鍵を出し鍵穴に挿しこもうとしたが、指が震えてうまく入らない。


「あれ? どうしてだろう。はは……」


 ぶつけるように強引にねじ込み、ようやくドアが開いた。


 わたしが中に入り、少し遅れてトシが入り、ドアが閉まる音にまぎれて、トシがつぶやく声が聞こえた。


「ああ……だめだよタエさん」

「……え?」


 振り返るのと抱きしめられたのはほぼ同時だった。


「トシっ?」

「タエさんがそんなふうだから、だから僕はっ……!」

「トシ!」


 身じろぎしたものの、トシの力強い腕は微塵も拘束を緩めてくれなかった。

 それどころかより一層きつく抱きしめられた。


「急にこんなことしてどうしたの? らしくないじゃん」


 わざと軽い感じで笑ってみせる。

 これくらいなんてことない、そんなふうにうそぶいてみる。


 だがトシには通用しなかった。


「僕がこんなことをするのはおかしい? だけど僕だってただの男なんだ。タエさんはもう気づいているはずだよ。僕がタエさんのことを」

「それ以上は言わないで!」


 否定は脅迫概念に近い。

 否定しなければ大変なことが起こる、そんな気がして本能的に叫んでいた。

 だがトシのほうこそ理性を失ったかのようだった。


「たとえ言葉に出さなくたって、僕の心にはすでにタエさんへの想いが溢れている。僕はタエさんが好きだ。タエさんだってきっと……っ!」

「やめて!」

「……僕のこの鼓動が聞こえるだろう?」


 頭を強く胸に押し付けられた。

 だけどそんなことをされなくてもさっきから分かっていた。


 とっとっとっとっ。

 とっとっとっとっ。


 抱きしめられた時から、トシの心臓が異常に速く動いていることに気づいていた。


「聞こえているなら分かるはずだよ。僕がどれだけタエさんのことを好きなのか」


 腕の中が熱い。

 昼間ずっと空に君臨していた太陽よりもよっぽど熱くて――きつい。


 このままずっとこうしていたら、トシの熱にやられて気を失ってしまう。

 トシだけではなく、わたしの理性までもが溶け落ちてしまう。


 好き――その一言を言えたなら。

「タエさんはね……本当に素直な人だよ」


 好きだって言って抱きしめ返すことができたなら。

「だから僕にはタエさんの気持ちが手に取るように分かるんだ……」


 離れたくないって泣いてすがることができたなら。

「タエさん、あなたは僕のことが好きなんだよ」


 ああ、好きだと、そのたった一言が言えたなら――。

「たとえ刹那だとしても……この恋は偽りなんかじゃない」


 言いたくても言えない想いは、喉の奥で窮屈そうにつかえている。言葉の代わりのように涙がじんわりと湧いてきた。


「ト、シ」

「そう。そうやって僕の名前を呼んで?」


 トシがわたしの髪に顔をうずめた。


「ここにいる僕を否定しないで。僕は僕でしかない。タエさんだってタエさんなんだ。同じ心を持った僕とタエさんが出会って惹かれあったのは偶然なんかじゃない、運命だよ」

「運……命」

「僕たちは運命には逆らえない」


 でももしもトシの言うとおり、この出会いと恋が運命だというのならば。

 わたしたちが出会うことが定められていたというのならば。


「わたしたちが別れることも……運命なの?」


 耐え切れない涙が頬を伝っていった。


「トシもわたしも捨てたくないものを抱えていて、それでも恋してしまうってどういうことなの? 傷つくしかない恋になんの価値があるの? 始めることもできない恋にいったいなんの価値がっ!」


 すべてを言い終える前に、トシに唇を塞がれていた。


 両の頬を手のひらで包み込み、言葉も否定も吸い付くさんばかりに荒々しい口づけが続けられていく。


「僕たちの出会いが無意味なように言うなっ! 恋はもう始まっている、なんでそんなことが分からないの?」


 一瞬唇を離し、吐き捨てるようにそれだけを言うと口づけは再開された。


 わたしの初めてのキスは――この時代にいてはならない男によって奪われた。


 ショック? ううん違う。喜びだ。触れることの決してないと思っていた男に熱望され唇を奪ってもらえたことに、わたしの心は歓喜ではじけてしまいそうだった。


 嬉しくて、嬉しくて。


(もう――何も考えられない)


 力が抜けていく。

 膝が震え、がくんと腰が落ちた。


 だけどトシは口づけをやめなかった。頬を包む手も離れない。同じように腰を落とし、膝を床につけ、角度を変えては唇ごしに様々な感情をわたしに伝えてくる。たとえるなら真紅、緋色、純白。唇から流れ込むそれらの色はわたしの心を勝手に侵食していく。


 激しい想い。

 止められない想い。

 好きだ、ただそれだけを伝えたいという純粋な想い。


 そこに一滴、限りなく透明に近い青が落とされた。


 頬に感じた冷たい感触に薄く目を開けると、トシの熱情にかられた顔が間近にあった。瞳を閉じ、苦悩するかのように眉をよせているが――その目尻にきらりと光る滴が見えた。


 震えるわたしの手が動き、上がり、トシの背中を掴んだ。

 トシの目がやや開かれた。

 わたしの視線を受け、トシの動きが一瞬止まった。

 わたしはトシの背に回した手に力を込め、小さくうなずき、もう一度瞳を閉じた。


 照明もつけていない暗い部屋の中で、トシが示す熱情は眩すぎて直視できない。歴史を捻じ曲げるかもしれない恋は現実を見ることを拒絶する。


 だけど――やっぱり。


(ここにいるのはわたしたち二人だけなんだよ……)

(だったら……だったら今だけでもこの恋を守らせてよ……。今だけでもいいから……)


 硬く抱擁し合うわたしたちには、確かに覚悟があった。


 きっと周囲から見れば幼く稚拙な覚悟だと鼻で笑われるだろうが、それでもこの気持ちに名前を付けるとすれば、それは恋であり覚悟であった。

第三章終了です。

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