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わたしを見て そばにいて触れて抱きしめて ~土方歳三と演じた四日間~  作者: アンリ
第三章 あなたへの想いを認めるまでの時間
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4.離れろ

 その時だった。


「タエさんから離れろっ……!」


 声の主は――トシだった。


「トシ、なんで? ……あ!」


 わたしの目はトシの腰の刀に吸い寄せられていった。


 トシは荒い息をなだめながら刀を持つ左手、親指で鯉口を切った。かちゃりという金属音ともに鍔が上昇し、続けて銀に光る刀身がぬうっと現れた。仄暗いこの場で場違いなほどに輝く刃――。


 心臓が痛いほどに跳ねた。


「だめえっ! それを抜いたらだめえっ!」


 言いながらトシに向かって駆け寄るのと、トシが一歩踏み出しつつ鞘から刀を引き抜くのは――ほぼ同時だった。


 伸ばした右手に焼け付くような痛みが走った。


「いたっ……!」

「っ。タエさん!」


 トシが瞬時に後退し刀をしまった。


「ごめん! タエさんごめん!」

「……いい。このくらい大したことないから」

「でも!」

「ほんと! ほんとうに大丈夫だから!」


 斬られたのは数センチ程度だったがじんじんと体内に響く痛みは未経験のもので、どうにかやせ我慢をしようとしても表情が強張ってしまった。


「何言ってるんですか。早く病院に行かなくちゃだめです!」


 気づけば水谷も腰を降ろし、うずくまるわたしの血に濡れた手をとった。


「さ、行きましょう」


 立ち上がりかけたわたしの手を、トシが水谷から強引に奪った。


「僕がタエさんを連れていく」

「…………あんた誰だ?」


 背の高い水谷が警戒心をあらわにしてトシを見下ろし睨んだ。


 警戒するのは当然だ。この日本で刀を振り回す男がいたらまず間違いなく危険人物だからだ。それでも日本刀保持者に対して真向から喧嘩を売る水谷は想像以上に腹が据わっている。演劇部でも部長の金子以外にわたしに対して意見を言える人間は一人もいないから、先日の水谷の反抗は癇に障ったのだが……実は元からこういう奴だったのだろう。


 だが、普段弱腰のくせにトシは意外にも退かなかった。


 それどころか、今すぐにでも再度刀を抜かんと、腰の刀に手をのせた。きっとここまで全力疾走してきたのだろう、まだ荒い息で肩を上下させながら、「僕は……」と言い、重心をやや落とす。


 トシの口が横に動いた。


「ひ」という音が漏れ聞こえたところで、わたしは我に返った。


「こ、この人ね! この人、大五郎っていうの。久方大五郎さん!」

「……久方大五郎?」

「タエさん?」


 男二人の顔に分かりやすく疑問符が浮かんだ。

 ただ、わたしのこの適当な発言によって、二人の間に漂っていた剣呑な雰囲気が薄れたのは確かだった。


 わたしは水谷の腕を掴み、トシの方を見た。


「わたしこの人と病院行ってくるから。あんたはアパートに戻ってて」


 トシが我に返った。


「だから僕が一緒に行くって!」

「だめだよ。『ここ』では『それ』は持って歩いたらいけないの。だからだめ」


 こことは現代、それとは刀のことだ。


 昼間、ユイに指摘されていたことなのに、トシに伝えるのを忘れていたのはわたしの失態だ。トシは刀を武士の証のように肌身離さない。その気持ちは痛いくらいに分かっている。なぜならトシは武士になりたいと熱望しているのだから。髷を失くしたトシにとってのこの世界における唯一の男の証、それが刀なのだから。


「お願い、先に帰ってて。トシが捕まったらわたし……」


 言葉の続きが出てこず、水谷をもう一度引っ張った。


「さ、行こ」

「待って!」

「だからだめだって」


 そう言って振り向くと、トシはわたしを強く見つめていた。


 目と目が合うと、わたしの中にある生まれたての感情が唐突に膨らんだ。初恋と名付けられたそれは、トシに見つめられて喜ぶ半面、すぐそこに控える消滅の時に怯えて小さく震えた。崖の上に立ち、奈落の底を直視するよう強要されている状況とひどく似ている。どれだけ今が幸せであろうとも、絶望と背中合わせの状態で蜜に酔えるわけがない。いくら甘くても舌には苦みしか感じられない。……なんて残酷な感情なのだろう。


 トシがその視線を水谷に動かした。


「失礼だがあなたの名前をお聞かせ願えるか」


 時代錯誤な固い口調に、水谷は常のごとく冷静に答えた。


「水谷真人」


 トシの表情が強張った。

 だがそれは一瞬だった。


「水谷殿。すまないがこれを預かってもらえないか」


 差し出されたのはトシの愛刀だった。


「トシっ」

「僕はタエさんの傍についていてあげたい。だからお頼みします、これを預かってもらえないか」


 水谷はしばらく思案していたが刀を受け取った。


「分かった。預かる」

「感謝する」


 二人の視線がかち合った。

 まるで視線だけで言葉以上の会話をしたかのようだった。


「さ、タエさん。治療に行こう」

「本当に……いいの?」

「いいんだ。僕はタエさんのことが大事だから」


 そう言ってトシは笑ってみせた。

 ぽんと背中を叩かれた感触がした。


「水谷?」

「いいから行ってきてください。これは俺が責任もって預かりますから」


 水谷は手に持つそれが真剣であることにきっと気づいている。わたしの手を斬って血を流したのだから、偽物ではないことくらいとっくに察しているはずだ。


 なのに水谷はふっと笑うや、置いていたリュックサックを背負ってこの場から去っていった。その笑顔と背中が少し寂しげな気がしてしばらく目で追っていたら、いつの間にか隣にトシが立っていた。


「あの……さっきは本当にごめん」


 顔を向けると、トシはわたしを横目で見ながら言いにくそうに口を開いた。


「タエさんのことを傷つけて本当にごめん」


 何も言わずにゆるく首を振った。


「痛いよね、本当にごめん」

「いいよ。トシは何にも悪くない」


 刀を持ち出してはいけないと教えておかなかったわたしが悪い。

 トシに感情をぶつけて勝手にいなくなったわたしが悪い。

 トシのことを好きになってしまったわたしが悪い。

 この恋の行く末を理解できてしまうわたしが……悪い。


 痛みの元凶のすべては自分だった。


「トシは気にしなくていいんだよ。これくらいならちゃちゃっと縫ってもらえばすぐ治るし、しばらくバイトにも行かないから困ることもないし」


 それは事実で、昨夜、牛丼屋に出勤した際、マネージャーに今夜から休みたいとお願いしてあった。トシを一人アパートにおいていくのは不安だし、元々、舞台直前になったら長期間バイトを休めるようにと、それ以外の時期には多めにシフトに入っているから快く了承してもらえている。


「僕、さっきは余計なことしちゃって、その……本当にごめんね。水谷殿って、タエさんが前に言ってた悪い男だよね。僕がここに来た時の様子も険悪な感じだったから、それでつい勘違いしちゃったんだ。タエさんが危ないって思ったら我を忘れてた」

「あいつが悪い男だっていうのは間違ってないよ。合ってる」


 さらりと言うと、トシはひどく驚いた顔になった。


「そうなの?」

「でもあいつは大切な相手役でもあるんだ。あの人がトシの演じていた役をする人なんだよ」

「へえ。……そっか」


 もう姿は見えないというのに、水谷の去って行った方向をトシはしばらく眺めていた。

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