3.真夜中の公園
歩いて十分ほどの公園に、水谷は迷うことなく入っていった。
ジャングルジムと滑り台が配されているだけの公園は、きっと日中であれば未就学児とその親がたむろしているのだろう。だが今は誰もいない。二つばかり、老朽化した街灯が公園内を仄かに照らしているだけだ。そのうちの一つは、じじ、と明るくなっては消えを不等間隔で繰り返している。
一方をそれなりの広さを有する工場に、もう一方を三階建ての雑居ビルに囲まれ、さらに対面は河川へとつづく土手となっているから、水谷の言うとおり少しくらい大きな声を出しても問題なさそうな場所だった。
ようやく水谷の足が止まり、手を握る力が弱まった。
とっさに振り払うと、わたしは水谷から距離を取って正面から向かい合った。
好戦的なわたしに構わず、水谷は背負っていたリュックサックをベンチに置いた。そしてじらすかのようにゆっくりとわたしに視線を上げた。
「じゃあ……土方とお夏の別れのシーンやれますか」
それは水谷がわたしにダメ出しをした問題のシーンだった。
「もちろん」
即答し、水谷との距離を適切なところまで縮めた。
やるからには完璧なお夏を演じたい。
そのためにはこの場の主導権はわたしが握らなくてはならない。
先手必勝だ――。
一拍おいて、わたしは両手を胸の前で組むや水谷を見上げた。
「お願い、行かないで!」
水谷が何か言いたげな顔になった。
だが構うことなく水谷の胸倉を掴む。シャツのパリッとした感触は浅葱色の羽織とは全然違う。
だがそれがどうした。
わたしは役者だ。
わたしはわたしのために演じるんだ。
その強い気持ちさえあれば、ここがどんな場所でも、お互いが誰であろうとも、わたしはきちんとお夏を演じることができる。
きっと――だ。
「お願い、わたしを置いていかないで」
泣きそうな表情を作りながら水谷を強く見つめる。
「あなたがいなくなったらわたし、どうすれば」
どうすれば。
(………どうすれ、ば?)
なぜか次の台詞が出てこなかった。
開いたままの口からは、はっはっと荒い呼吸が漏れ出るだけだ。
台詞は覚えているのに。
台詞とともにどうふるまえばいいかもすべて理解しているというのに。
なのに――。
わなわなと震える唇からは台詞は全く出てこなかった。
「……先輩?」
水谷の声にはっと現実に引き戻された。
シャツを握る手から力が抜けていくのを感じ、わたしはなけなしの力で握り直した。
「ごめん。もう一回お願い」
「先輩」
「ほんとごめん。ちゃんとやるからもう一回お願い」
「…………先輩!」
水谷の声は舞台上でもめったに聞かない大音量だった。
うつむいているわたしには水谷の顔は見えない。
だけどそれは水谷も同じだ。わたしが今こんな情けない顔をしているなんて、水谷だって知るわけがない。唇を噛み締め、油断すればこぼれそうになる涙をこらえるべく、頬の筋肉が変な方向に動いている。
悔しかった。
演じることのできない自分が悔しかった。
そしてたった一日でわたしは気づいてしまった。
わたしはこのシーンを今まで『演じる』ことができていなかったことに。
これまでのわたしの演技はお夏の心情をまったく体現していなかったことに。
「……わたしには演劇しかないんだよ」
本当はこんなこと後輩相手に言いたくない。
「演じることができなくなったら……わたしはもう生きている意味がなくなっちゃうんだよ……」
しかも水谷はわたしを窮地に陥れた張本人なのだ。
「先輩、なんでそんな悲しいことを言うんですか……」
頭上から聞こえる水谷の声は意外にも冷たくなかった。
「演じることだけが先輩の価値なんかじゃありません」
水谷の言葉はわたしの心を落ち着かせるどころか逆の効果を引き起こした。
顔を上げ、息が詰まるほどきつく水谷の胸倉を引き寄せる。
至近距離で射殺さんばかりに睨み付ける。
「あんたにわたしの何が分かるんだ! あんたみたいな遊びで演劇やってる奴にわたしの何が分かるっていうんだ!」
「じゃあ先輩に俺の何が分かるって言うんですか!」
強く言い返された言葉も、真剣な水谷の表情も、わたしを煽るだけだった。
「うるさいうるさいっ! うるさいっ……!」
「いい加減にしてください! そうやっていっつも自分自分って、そんなんだから駄目なんですよ!」
「駄目じゃない、駄目なんかじゃない!」
だってトシはそれでいいって言った。
自分のために生きていいって言った。
「水谷のくせに否定するな! わたしたちを否定するな!」
「先輩!」
伸ばされた水谷の手がわたしの両肩を掴んだ。
掴み、見下ろしてくる水谷の目に、なぜか悲しみの色が見えた。
その色と同じ声質で水谷が苦しげに言葉を吐き出した。
「先輩……。人は人と関わらなくちゃ生きていけないんですよ。なんで分かってくれないんですか……」
シャツを握るわたしの手がきゅっと動いた。きっと表情にも驚愕したことが伝わっているはずだ。実際、水谷の肩から少し力が抜け、下がった。
「演劇っていうのは一人ですることじゃないんですよ。演じる側と観客と、少なくとも二人いないと成り立たないんですよ……」
「そんなこと……分かってる」
「だったら! だったらどうして!」




