1.告白
長い時間いたせいか、昼間の浜でしっかり日焼けしてしまったようだ。
ちりちりとした肌の痛みがわたしの目を覚ました。
「あ、タエさんおはよう。よく眠れた?」
寝ぼけ眼の向こう、長いポニーテールを揺らしトシが笑顔で振り向いた。手には昨日あげたピンクのノートを持っている。
じっと見ていると「ん?」とトシが小さく首を傾げた。
「……やっぱり夢じゃなかったかあ」
「え?」
「ううん、なんでもない」
夢のほうがよかったのか、それとも夢でなくてよかったのか、それは自分でも分からない。
壁にかかる時計を見てぎょっとした。
「わっ。もう十一時? ごめん、寝過ぎた! お腹すいたよね。すぐ作る」
「平気平気。タエさんゆうべは遅かったんでしょ? それに僕、ゆうべはたくさん食べたから大丈夫だよ」
にこっと笑ったトシがまぶしい。
まぶしくて――辛い。
わたしはとっさに枕元に置いてあったスマホを手にしていた。
かけ慣れた相手に電話をする。
『はい、もしもし?』
のんびりとしたユイの声にかぶせるように、わたしは叫んだ。
「緊急事態! 緊急じたーい!」
*
ちょっと女同士で話したいことがあるから。
そう言ってわたしはトシの分の朝食兼昼食を作るや家を飛び出した。
自転車をかっとばし向かう先は近所のさえない喫茶店だ。
古めかしいドアを開けると、今日もいつものごとく客は皆無だった。
「おー、いらっしゃい」
カウンターからのんきな様子で声をかけてきたマスターに、「いつもの!」と言い、定位置である奥の窓際の席へと座る。
「はい、お待ちどう」
大して待たずにレモンスカッシュが出てきた。古き良き時代の喫茶店の王道スタイル、さくらんぼを載せたそれを、直接グラスに口をつけて一気に半分流し込む。いつもこうやって飲むから、マスターはわたしにストローを用意したりなんかしない。
ぷはっと息をついて手の甲で口を拭ったところで、ドアがからんからんと鳴った。入ってきたのはもちろんユイだ。
「おー、ユイちゃんこんにちは」
「こんにちはマスター。アイスティーください」
「あいよ。ミルク二つね」
「お願いします」
カウンターに戻っていくマスターに小さく会釈をしてユイは正面に座った。
「で、今度はどうしたの」
「……なんでマスターには挨拶するのにわたしにはないの」
「緊急事態の一言でわたしを呼び出すタエちゃんに言われたくないんだけど」
ごもっとも、と思ったところで、アイスティーが届けられた。ミルク二つを投入するのを内心うげーと思いながら見ていると、ユイが顔をしかめた。
「そんなに嫌なら見なければいいじゃない」
「別に嫌だなんて言ってないじゃん」
「タエちゃんってもう……」
ぶつぶつと言いながらストローでグラスの中身を攪拌する。透明感のあるシトロンのような茶色の液体は、途端に下手な絵の具を混ぜたような濁った水色に変化した。
丁寧に混ぜ、ちゅーっと一口吸い、「で?」とユイが言った。
ようやく話せるタイミングがきたと、わたしは机に前のめりになった。
「なんかさあ、やばいんだよね」
「やばい? なにが?」
「トシに決まってるじゃん」
なんでそんなことも分からないのだろう。
昨日のあの大事件を忘れたのか。
「トシくんが何かまずいことでもしたの? 外で刀を振り回したりとか?」
「振り回したけどそれは別になんともない」
話を進めようとしたが、ユイがぎょっとした顔になったので嫌な予感がした。
「……なにかまずかった?」
「まずいに決まってるでしょ! 銃刀法違反で捕まったらどうするの!」
「銃刀法違反?!」
「ばかっ。声が大きい!」
血相を変えたユイに、わたしは自分が非常にまずいことをしてしまったことにようやく気がついた。カウンターの方を見るとマスターの姿はそこにはなかった。客が来ないから、マスターはよくこんなふうに仕事をさぼる。不幸中の幸いだった。
「……外で稽古するのに刀を持って行ったんだ」
「なんでそうなるの」
「だってトシが帯刀していないと落ち着かないっていうし、わたしも刀が合った方が雰囲気出ていいかなって思って。あ、でも、今までそこに他の人が来たことなんて一度もないし、通り道は人が住んでいるのかどうかよくわかんないぼろ家ばかりだし、たぶん誰にも見られてないから」
「そう……それならよかった」
ほっと肩を落としたユイに、わたしは謝るしかない。
「ごめん」
「いいよもう。二人がなんともなくて本当によかった」
「うん。今日からさっそく気をつける」
「そうそう、タエちゃんはそうやって超ポジティブなところがいいんだよね」
ユイが笑った。
「じゃあ何が問題なわけ?」
「それそれ。それなんだけどさ」
ぐいっとレモンスカッシュをあおり、カン、と音も高らかにグラスを置く。
「たぶんね」
「たぶん?」
「たぶん……なんだけどね」
「早く言いなよ」
軽く睨まれ、わたしは覚悟を決めて告白した。
「たぶんわたし、トシのこと好きになった」
束の間、二人の間に沈黙が訪れた。
ユイは目を丸くしている。
その口が尖り、「そ、」と声が出た。
「そ?」
「……そっ」
「そ?」
「それ本当っ?」
言うや、ユイが満面の笑みになった。
きらきらと目を輝かせ、アイスティーのグラスを脇によけて前のめりになる。お互い体を近づけあっているから、あと拳二つ接近すればキスができそうなくらいだ。
「やったね、初恋じゃん!」
迫力に押され、やや背をそらせたが、その距離はユイのさらなる前進によって縮められた。
「……出会ってたった一日でって笑わないの?」
「なんで笑うのよ。タエちゃんは土方歳三に恋したかったんでしょ?」
「それは……そのとおりなんだけど」
正しいのだけどなんか違う。
トシは土方歳三だけど……想像していた土方歳三ではない。
答えあぐねていると、ユイが矢継ぎ早に質問してきた。
「何がきっかけだったの? どこが良かったの? あの顔? あのギャップ? それとも本物の土方歳三だから?」
わたしはしどろもどろに答えた。
「きっかけは特に……ない。いやあるのかな。いやない。いやある」
「だからどっちなのよ」
「あるような……ないような?」
首をかしげたのは本当に分からないからだ。
ユイが椅子の上で座り直し背筋をぴんと伸ばした。
「よし、詳しく説明してみなさい」
こういうときのユイは同い年の幼馴染ではなく、母親や姉のようになる。するとわたしは逆らえなくなる。というか話を聞いてほしい。聞いてほしいから呼び出したのだし。
「確かに顔は好みなんだよね」
「ふんふん」
「背はそんなに高くないけどいい体してるし」
「いや、あの時代、あれで十分背が高いほうらしいから」
「そうなの?」
「ま、いいや。で?」
「一緒にいると……なんか楽しいんだよね。トシに知らないことが多いのもあるけど、いちいち感激したり驚いたりするところも可愛いし」
「ほおお」
「演技もさ、うまいんだよね。姪っ子が鍛えていたっていうけど、その姪っ子も相当な女の子なんだろうな。大事なおじさんのためにって頑張ったんだろうね」
「いいねえいいねえ。演じることで目覚める恋、共通の行為を通して繋がる愛ってやつですか」
相の手がいちいちおばさんっぽい。
だけどユイに話すことで、昨日出会ったばかりのトシとの数々の想い出がアルバムをめくるように蘇ってきた。笑った顔、怒った顔、泣きそうな顔、喜んだ顔。どれも思い出すだけで胸がきゅんとなる。まるでレモンスカッシュの酸味みたいに。
カラン、とかろやかな音が鳴った。
グラスの中で半分溶けた氷が揺れ、ショッキングピンクに染まったさくらんぼがレモンスカッシュの中に沈んでいった。
「……同じだって言ってくれたの。わたしと自分は同じだって」
昨日そう言ったときのトシは本気でわたしのために語ってくれていた。
深い海のような対の瞳は、まっすぐにわたしの心に触れてきた。
「そっか、あの時だ。あの時わたしはトシのことを好きになったんだ……」
さくらんぼがレモンスカッシュに沈むように。
恋はあの時心の奥底に入り込んでしまった。
昨日トシに強く掴まれた二の腕の部分が熱い。
まるで今掴まれているかのように熱くてたまらない――。
「……トシくんはどうなの?」
顔をあげると、ユイは物静かな表情でわたしを見ていた。
だからわたしも正直に答えた。
「トシもきっと……たぶんわたしを好きだと思う」
うぬぼれているのかもしれない。
だけどきっとそうだ。
女に不慣れなだけではない言葉や態度を、わたしはトシから幾度も感じた。
「そう」
「でもさあ……この恋には未来がないよね」
言葉に出すと現実になりそうで苦しかった。だけど言わないで耐えているのも辛い。自分一人で抱えるにはこの恋は重すぎる。
「だって相手はあの土方歳三だよ? きっといつかトシはここからいなくなる。元いた時代に戻ってしまう。そうしないと歴史は変わってしまうし、理屈じゃなくて分かるんだ、『きっとそうなる』って」
こんな不思議なことが永遠につづくわけがない。
「それにトシは武士になりたいって願ってる。武士になって、本物の男になりたいんだってそう言ってた。だけどここにいるかぎりトシは武士になれない。それにあっちではトシのことを待っている人もたくさんいる。だからトシは……戻らなくちゃいけないんだよ」
机の上、ぎゅっと握りしめた拳の上に、ユイの手がそっと添えられた。
顔を上げたとたん、わたしの頬を涙が伝った。
「トシくんに訊いてみたら?」
「できるわけないっ」
かぶりを振ったわたしの手を、ユイが強く握りしめた。
「逃げちゃだめだよ。これはタエちゃんだけの恋じゃないよ。タエちゃんとトシくん、二人の恋なんだよ?」
「……二人の?」
「そうだよ。恋は一人でするものじゃない、二人でするものだよ」
「でもっ! でもトシはわたしと自分は同じだって言ったっ!」
ぼろぼろっと大量の涙が零れ落ちた。
「同じだからわたしには分かるの! わたしが演じる理由と同じなの! トシが武士になりたいと思う気持ちと同じなの! それがなくなったらもうだめなの!」
興奮で荒くなった息に、わたしは肩を震わせるしかなかった。
涙はあとからあとから溢れてくる。頬を、顎を伝ってぽたんぽたんと机の上に落ちていく。グラスから滴り落ちてできた結露の水たまりと、涙の水たまりと。同じ水でできているのに随分違う。一方は自然現象、そしてもう一方は凝縮された悲しみだ。
トシはここにはいられない。
トシが生きる意味はここにはないから。
わたしも同じだ。
わたしも演じることで生きている。
わたしの生きる意味はここにある。
だからたとえわたしがトシの元いた時代に行くことができるとしても――絶対に行かない。行けない。
この世界はわたしが生きるには苦しいことばかりだ。正直、この世界を好きなわけではない。いや、どちらかといえば嫌いだ。こんな世界なくなってしまえばいいのに、と思ったことは一度や二度ではない。
でももう心が演じることを望んでしまっている。
演じることと呼吸をすることに違いがなくなってしまっている。
だからわたしとトシは同じなのだ。
だから……わたしたちは未来永劫一緒にはいられない。
「この恋はさ、始めたらいけないんだよ」
恋が加速し手を付けられなくなる前に、この手で葬り去ってしまわなくてはならない。
「……そっか」
もう一度、掴む手に力を込めたユイの気持ちが伝わってきたから、わたしはそれ以上は何も言うことなく気が済むまで泣き続けた。ユイはそんなわたしを気が済むまで泣かせてくれた。