7.信じて
夕暮れ近くまで熱のこもった稽古を続けた後、アパートにいったん戻り荷物になる鞄を置いて、ちょっとのことだからと無理やり刀を置かせて、財布と家の鍵だけをポケットに突っこむと、わたしはトシを引き連れて街中へと買い出しに出かけた。
現代らしい町並みにはしゃぐトシを押さえるのは疲弊した体には堪えた。車に自転車、ビルに歩道橋。居並ぶ建物の数々。すれ違う人の多さ、彼ら彼女らの奇抜な服装。どれもこれもがトシを興奮させ、逆にわたしの残り少ないライフを削っていった。それでもトシはわたしとの約束を守り、必要以上に質問してくることはなかった。
ようやく目的地であるスーパーにたどり着き自動ドアが開いた瞬間、心地よい冷風が全身をなでた。一日の終盤、火照った体がやわやわと癒されていく。
「うあー、気持ちいいー」
冷気を満喫するわたしとは異なり、トシはぶるぶるっと体を震わせた。
「何ここ、すっごく寒い!」
見れば二の腕にぶわっと鳥肌がたっている。
「トシは寒いのが苦手なの?」
「苦手ってわけじゃないよ。実は『あっち』はこっちと真逆で冬だったしね」
「へえ、そうだったんだ」
「だけどこうも極端なのはちょっとね。僕、蝦夷地なんて絶対に住めないと思う」
蝦夷といえば、土方歳三が亡くなった場所だ。
わたしは急いでトシの腕をとった。
「ほら、さっさと買い物済ませるよ」
「買い物? あ、ほんとだ。ここって市なんだね」
「市……なのかな。ここではお金を払いさえすれば欲しいものが買えるんだよ」
「タエさんはなにが欲しいの?」
「米10キロ。それに納豆とキムチ。あ、米はトシが持つんだよ。そのために連れてきたんだから」
*
夕食は強引に納豆キムチご飯を食べさせた。
わたしの夏の定番メニューを最初は胡乱な目つきで見やっていたトシだったが、わたしが勢いよく食するのを見て思いきって口をつけた。次の瞬間、トシはかっと目を見開いた。一拍おいてわたしと同じくらいのスピードでがつがつと口に運んでいった。どうやらお気に召したらしい。
(これくらいいいよね)
トシはこれまでキムチを食べたことがないはずで、おそらく元の時代に戻れば二度と口にすることはない。だけどこんなにおいしいものを食べずに死んでしまうのはかわいそうだ。トシはご飯を三杯ぺろりと食べた。明日はもっと一度にたくさん炊こう。今日のうちに米を一袋買っておいて正解だった。
食後、トシにシャワーの使い方を教えた。驚かせすぎるとよくないし幾分か日焼けした肌には刺激が強いかもしれないから、湯温は若干ぬるめに設定して、水量を調整する蛇口の使い方だけを教えた。トシはここでも順応し、なんなくシャワーの使い方を覚えた。
「あれ? タエさん、何してるの」
「何って見れば分かるじゃん。髪切ってるんだっつーの」
ちゃぶ台の上に置いた鏡から目線をはずして顔をあげると、シャワーを終えて戻って来たトシはパジャマ用に渡したTシャツと短パンに着替え随分ラフになっていた。
「市に出かけた時も気になってたんだけど、こっちの女子は髪を短くしてもいいんだね。それに自分で切るんだ」
「人によるんじゃない? わたしはこれが楽でお金がかからないからしているだけで。トシのいたところみたいに髪が女の命なんてことはないし。まあ価値観は人それぞれだけどさ、わたしは髪よりも命の方が大事だね」
実際、月に数回気になったら毛先を整えるだけのボブカットはすごく楽だ。舞台でも男らしい役や女らしい役、どちらを演じるのにも困らない万能の髪型だったりもする。最後の仕上げをせんとはさみを持ち直しちょきちょき切っていると、ややあってトシがため息交じりに言った。
「……へえー。そっか。そういう考え方もあるんだ」
「いやいや。だから人それぞれだって」
さてはちょんまげを失くしたことをまだ気に病んでるのかと、心配になって見上げると、意外とそんなふうには見えなかった。言葉どおり、純粋に感心しているだけだった。
トシの腰まである長い髪は雑多にほどかれている。せっかくだからと髪も洗うように強く勧めておいたのだが、言う通りにするあたりほんと素直な奴だ。リンスインシャンプーのカモミールの香りがつんと鼻についた。
と、トシの髪の毛先からぽたぽたと水滴が落ち、じくじくと畳を濡らしているのに気づいた。
「うわっ、全然髪拭けてないじゃん!」
「そう?」
「ああもう! こっち来な!」
鋏を置き、トシの手を引いて強引にベッドの下に座らせる。
それからわたしはベッドの上に座り、目の高さにあるトシの髪をタオルでがしがしと拭いていった。
「タエさん、もうちょっと優しくしてっ」
「何言ってるの。これくらいで根をあげてるようじゃ本物の男になんてなれないっつーの」
「でも痛いっ」
「我慢しなって。あんたのこれが長いのが悪いんでしょ?」
手の中にある豊かな黒髪をぐいっと引っ張ってやると、トシは涙目になった。
「いたたたたた。僕のせいじゃないのに」
トシが言いたいのは、髪形は勝手に変わってしまったもので、不本意な状況だということだ。
「でもわたしこの髪形好きだよ?」
「えっ」
わたしに背を向けるトシの両の耳が真っ赤になった。
つられてわたしまで赤くなってしまった。
それでも顔をややそむけながら手だけは動かす。
わしゃわしゃと拭きながら、大切な事実をこの機会に話していった。
「実はさ。ここではね、ちょんまげをしていたら変な人に見えるんだ」
「変っ?」
振り返ろうとした頭を指先に力を込めて固定する。
「そう、あんた変人になっちゃうの」
「変人……」
耳たぶはすっかり元の色に戻ってしまった。
それを残念に思いながらもう一つ正直に言う。
「だからさ、トシがこの髪形でよかった。ちょんまげだったら外に出してあげられなかったし、そしたら一緒に稽古できなかったもん。今日はありがとね」
「……うん。タエさんがうれしいなら僕もうれしい」
またほんのりと色づいた耳たぶは、わたしの心もぽっと温かくした。
十分にタオルで吸水し、次にドライヤーで乾かす。
「あついあついあつい!」
「熱いに決まってるでしょ。そういうものなんだから我慢しろ!」
「ううう……」
泣きべそをかくトシを叱咤しながら長い時間をかけて髪を乾かした。ターボにしてもなかなか乾かないとはおそるべき量だ。ざっくりと切ってやりたい衝動にかられつつもしっかりと乾かすと、カモミールの香りは丸くまろやかになった。
スイッチを切り、「じゃ、わたしもシャワー浴びてくるね」とトシに告げた。
「これ食べてていいよ」
冷凍庫からチューペットを取り出して放ると、トシはあわてながらも上手にキャッチした。
「冷たい! なにこれ!」
「その先端のところ歯で食いちぎって、ちゅーちゅー吸うとおいしいんだよ。果実水みたいなものだから」
ユイがここにいれば、せめてはさみか包丁で切ってやりなよと言うんだろう。だけどわたしは昔から歯でひきちぎるこの瞬間にチューペットを食べる醍醐味を感じるのだ。
口にくわえて悪戦苦闘するトシを放置したまま、わたしは浴室へと入った。
ドアを閉め鍵をかける。それから着替えを便座の蓋の上に載せ、身に着けているものを脱いでいく。普段であれば室内で豪快に全裸になれるのだが、異性がいるとなるとそうはいかない。ユニットバスは狭くてかなわない。
トシは指示したとおりにシャワーカーテンを浴槽内の内側でひいていたようだ。よしよし、と思いながら浴槽内に足を踏み入れシャワーカーテンを閉める。蛇口をきゅっとひねると、ぬるめのお湯が頭上から降りかかってきた。
「……うわー。甘くて冷たい、おいしーい」
部屋の方、感嘆する声を耳にしながら、わたしは上機嫌でシャワーを浴びた。トシはビールよりもチューペットの方が好きだろうと思っていたが予想が当たったことがすごくうれしくて楽しい。
ささっと全身を洗って戻ると、トシはピンクのノートに首ったけになっていた。わたしが現れたことにも気づいていない。これで本当に凄腕の剣客なのだろうかと思いつつ、肩の方からノートを覗き込んだ。
「あ、ここね。明日やるとこ予習してるんだ。偉い偉い」
「タ、タエさん……!」
振り向いたトシの顔は真っ赤だ。ちょっと近づいただけでこいつはすぐに赤面する。どれだけ初心なのだろう。小学生だってこんなふうにはならないんじゃないだろうか。口にはチューペットをくわえたままだし滑稽といったらない。
トシの頭をぽんと軽く叩いて立ち上がる。
「トシはさあ、本物の男になりたいんじゃないの?」
「そ、そうだけど?」
「じゃあもう少し女慣れしないとね」
「ええっ。それとこれとは関係ないよ! 僕が言ってるのはもっと精神的なことで」
「はいはい、分かってるって」
みなまで言わせない。
そんなの昼間の会話で十分理解している。
「でもトシのいた時代って、いい男のすることといえば女遊びだよね」
文庫本、わたしのバイブルにもそう書いてあった。
土方歳三だけではなく、近藤勇もその他隊員も、京都では相当もてて、とっかえひっかえ女と遊んでいたそうだ。だけどそれが当時の男の姿なんだと思う。地位や名声のある男のところには女が群がる。池田屋事件の後にもたんまり報酬をもらったらしいし、お金もたくさん持っていたのだろう。
「僕はそういうのには興味ない」
やけにきっぱりと答えるトシに興味がわいた。
「でもさ、トシって奉公先で女の人に手をだしたことがあるんだよね」
「ど……どうしてそれを?」
さあっと血の気がひいたトシは見ていておもしろい。
きっとわたしのことをエスパーか何かだと勘違いしている。
「いや、なおちゃんが言ってた」
この嘘はトシに見破られるようなものではない。
「……なおの奴」
「で、どうなのよ」
「だからそれはっ」
両の手をわきわきしながら慌てていたトシだったが、やがて観念したかのようにうなだれた。
「……ごめん。若気の至りってやつです」
「別にわたしに謝らなくてもいいんだけど」
「いや! タエさんには誤解されたくないから!」
ぱっと顔を上げたトシの顔はより一層紅潮していた。
「……タエさんには僕のこと誤解されたくない」
絞り出すように発せられた声に、わたしの胸がわけもなくざわめいた。
トシの目に一つの意志が浮かんだ。
「タエさん……僕は……」
「ああそうだ」
まだ濡れた頭をかきむしって、わたしはトシにくるりと背を向けた。
「わたし、これからバイトなんだ」
「ばいと?」
カタカナ語を口にする時のトシの言い方は可愛い。だけど可愛いと思っても今朝のように口元は綻ばなかった。ただ余計に胸が苦しくなっただけだった。
「お金を稼ぐために仕事をしてるってことよ」
「そんなっ。女子が真夜中に一人で外を出歩いて、しかも働くなんて!」
「あはは、おおげさだなあ。こっちではこれが普通なの。昼は稽古で忙しいから夜に働くしかないってのもあるけど、夜のほうがたくさん稼げていいんだよ。そっちの時代みたいに危なくもないし」
「でもっ」
「まあまあいいから。じゃ、わたしもう行くね。先に寝てていいから」
玄関前に置いてあった鞄を掴み、わたしは逃げるように部屋を出た。
まだ濡れている髪の毛先が頬をかすめるたびに、トシと同じカモミールの香りがした。いつものシャンプーの香り、それがなぜか恥ずかしさと嬉しさでわたしの胸をいっぱいにした。
*
明け方、バイト先の牛丼屋から戻ると、トシは机につっぷして寝ていた。
横を向いた顔は健やかで無垢だった。
頬の下にはピンクのノートが拡げられている。
「俺を……信じろ」
寝言はお夏と土方歳三が初めて出会った時の台詞だ。
「俺を……信じろ……」
傍に座り、わたしは眠るトシにつぶやいた。
「信じてほしいなら……トシもわたしのこと信じて……?」
トシに話せないことを抱えたままの自分が卑怯だからこそ、わたしは不可能なその願いを口にしていた。だけどそう願うことすら卑怯だと、自分自身でも分かっていた。
第二章終了です。
次章からは企画名「恋に身を焦がす夏」のとおりのシーンが話が進むほどに増えていきますのでよろしくお願いします。