6.深淵を語る
「タエさんは?」
「え?」
空の透き通る青、海の群青に近い青、二色の溶け合う水平線をぼんやりと眺めていた意識はトシの呼びかけによって引き戻された。顔を向けるとトシはほほ笑んでいた。
「タエさんはどうして役者をやっているの?」
どうして役者をやっているのか。
その質問はこうして演じるようになって初めてのものだった。
中学から高校、大学と、演劇部に所属してはいるが、どこかの劇団に属してもいないし、オーディションを受けたこともない。だから誰もがこう思っているはずだ。本庄タエは演じることが好きなだけの目立ちたがり屋の女だ、と。
じっとトシを見返すと、トシの瞳はどこまでも深い真夜中の海のようだった。そういうときの海には時折畏怖を感じる。海の中から得体の知れない何者かが現れて、この身を捕獲されてしまうのではないか……と。
だけど唐突に夜の海を見たくなる時がある。そういう時、衝動に任せてここに来てしまう。着いた無人の砂浜で、波がひいては寄せる音を一人聴いていると、不思議と気持ちがすうっと軽くなる。底なしかと錯覚するような巨大な海が、全身を包み込み癒してくれるのだ。
トシの瞳も同じだった。さっき演じている時も思った。睨まれれば相当に怖い。だけどこうして見つめ合うと、不思議と心の凪が消えていく……。
「わたし、自分のことが嫌いだったんだ」
語り始めから声が震えてしまった。
口を閉ざし、うつむき、ややあってちらりと横目で見ると、トシは変わらずほほ笑んでいた。
話を聞いてくれる人がいる、そう実感すると、わたしの中に話を続ける勇気が芽生えた。
「トシのいた時代とは価値観が違うかもしれないけど」そう前置きして続けた。
「わたし、世間でいうところの美人なの」
「僕から見てもタエさんは美人だよ」
「ありがとう」
小さく笑った。
まだ笑顔がうまく作れない。
「でね、けっこうスタイルもいいの。あ、スタイルっていうのは体つきのこと。背がすらりと高くて胸がそれなりに大きくて腰がくびれていてお尻がきゅっとなっているのが、ここでは素敵だって言われるの」
「なるほど」
「だから……小さい頃からよくいじめられてたんだ」
それは小学四年生から始まった。
その頃になると女の子の体つきは大人になろうとして大なり小なり変化していく。だけどわたしはその成長期に一足飛びに大人になってしまった。中間地点を一気に駆け抜け、ゴールに飛び込んでしまったかのように。そう自分でも思えるくらい、ぐっと身長が伸び急激に胸が膨らんだ。平らだったお尻は丸く肉感的なものになり、顔つきもランドセルを背負っていなければ中学生、酷い時は高校生に間違われた。
この年頃は異なる性別の者同士で距離を置きやすいものだが、わたしはこの外見で男子にちやほや……いや、からかわれ、逆に女子に反感をかった。クラスの異なる幼馴染のユイとだけは登下校や休日に会話をしたが、それ以外、孤立無縁となってしまった。
原因は自分でも分かっていた。
だけど小学生の自分に根本的な外見を変えることなんてできるわけもない。
粗野にふるまってみる。肌の手入れを雑にしてみる。髪を短くしてみる。そういったことのすべては焼け石に水だった。
「わたし、毎日ずっと下を向いて歩いてたんだ。できるだけ小さく見せようとして、目立たないように。それでも知らない男子から好きだって言われちゃうし、胸やお尻を勝手に触ってくるような腹の立つ奴もいたりして。それを見た女子からはまた嫌味言われたり軽蔑されて……」
それは中学へ進学しても続いた。
わたしよりも二歩も三歩も遅れてゆっくりと成長していく同級生に嫉妬しながら……本当はそんな自分が一番嫌だった。
「自分のことが本当に嫌いだった。どうしてわたしはこんなふうに生まれたんだろうって、ずっと……ずっと苦しかった。自分を大事にすることはできないし……でも自分をこれ以上痛めつけるのも辛かった」
そんなわたしに転機が訪れた。
「中一……十三歳の時にね、はじめて演劇を観たの」
毎年秋に催される学園祭。文化部のステージは体育館で行われていた。ユイの所属する合唱部の次が演劇部の番だったのだ。
「観るつもりはなかったんだけど、他に行くところもないしそのまま座ってたんだ。だけど……これがすごかったんだなあ」
タイトルは「おつう」。
要は鶴の恩返しだ。
童話にもなっているそれが舞台版ではどういうふうになるのか全然予想していなかった。正直、子供のお遊戯レベルだと思っていた。同じ中学に通う年の頃も違わない人たち、外見だけでいえば自分よりも幼い人たちが演じるのだから、大したことはないと高をくくっていた。
だけど――。
「わたしね、初めて舞台を観て泣いたの。一時間の舞台に完全に没入していて、幕が下りてアンコールの声がかかって、それでようやく我に返ったの。するとね、それまでおつうだった女子やその夫役だった男子が、とたんにただの中学生の顔に戻って現れたの。さっきまで大人にしか見えなかった二人は、やっぱり普通の中学生だった」
その時思ったのだ。
わたしもあの舞台に立ちたい、と。
わたしも自分以外の何かになってみたい、と。
即日、わたしは演劇部に入部した。おつうの感動を正直に伝えたら、部のみんなは驚きながらも歓迎してくれた。それから演劇はわたしの生活の基盤となった。
「演じることを目的に集まっていると、わたしはみんなの仲間として受け入れてもらえるんだって知った。仲間として認めてもらえるってすごく心地いいことなんだって実感した。それにやっぱり……演じることがすごく楽しかった」
演じている間は誰もわたしの外見に注目しない。いや、それどころか、役と外見が合っていれば褒めてもらえた。男子も女子も、心からわたしの外見を称賛してくれた。
それはわたし自身を認めてもらえたという自信にもつながった。
究極の快感はスポットライトを浴びたときに感じる。
たくさんのライトを浴びているときにわたしは満たされる。わたしはわたしのままでいていいんだって思える。ここにいていいんだ、生きていていいんだって……そう思える。
「他人を演じることで自分が生きていることを実感できる、そう言ったらおかしい?」
ここまで自分の深淵を他人に話したことはなかった。
外見を気にしているなんて言ったら家族を悲しませることは分かりきったことだし、ユイにはそういう悩む自分を見せたくなかったのだ。言っても解決しないし、そういう解決できないことでユイを悩ませたくなかったから。ユイは無限の砂漠で放浪するわたしのたった一つのオアシスだったから、わたしの醜い悩みで少しでも濁らせるようなことをしたくはなかった。
「おかしくなんてないよ」
トシの声には誠実さが感じられた。
話を始めた頃は優しげな表情で聞いてくれていたはずだったのに、気づけばトシはひどく真剣な面持ちとなっていた。
「実はね。僕はタエさんの演じる姿にずっと感銘を受けていたんだ」
「それ大げさすぎない?」
笑いをとろうとわざとくだけた調子で答えたが、トシの表情は変わらなかった。
「僕は正直、演じるってことを知らない。タエさん以外の役者さんに会ったこともないしね。だけど、タエさんが演じることに自分を賭けているんだってことは伝わってきたよ。だから僕もタエさんに真剣に向き合わなくちゃいけないって気合いが入った」
そこで少し言葉を区切り、トシが続けた。
「タエさんは僕たちに似ているよ。試衛館のみんなに」
「試衛館の……みんな?」
「うん。僕たちは剣を、タエさんは演じることを。やっていることは違うけど僕たちは同じだ。僕たちは剣を持つことで生きる道をひらこうとしている。タエさんは演じることで自分を生かそうとしている。演じているときのタエさんは、試衛館の誰にもひけをとらない気迫で満ちていた。女の人でこんなふうに何かに打ち込んでいる人を……僕は初めて見たよ」
感極まったようにトシが深く息を吐いた。
「それは言い過ぎだよ。だってわたし、演技にだめだしくらって謹慎してるんだよ? 演技がなっていない、そんなんじゃ主役はやらせられないって、そう言われて」
「違うよタエさん!」
トシの大きな声が浜に響いた。
びくりと震えたわたしの両の二の腕をトシが掴んだ。
掴み、顔を近づけてくる。
「それも僕たちと同じだよ」
その迫力に……わたしは言葉を失った。
「僕たちは確かに剣の道を究めようとしている。だけどね、剣の道を究めるために僕たちは腕を磨いているわけじゃないんだ。その剣技をもって国のために尽くすこと、そして武士となること。そのために剣をふるっているんだ」
こんなふうに熱く語るトシは初めてだった。
柔和で弱気で腰の低い男だと思っていたが、実はこれほどまでに熱い気持ちを持っていたのだ。
トシは眉根を寄せ、わたしのために……わたしだけのために思いをぶつけてくる。
「タエさんだって、演じることがうまくなりたくて始めたわけじゃないんでしょ? 演じることで自分を救いたい、そう思って始めたんでしょ?」
それはさっき自分の口からトシに説明したことだ。
だけどこうしてあらためて言われることで、その意味を強く実感した。
そう――わたしは何もうまく演じたいわけではなかったのだ。
上手に演じれば褒めてもらえる。
居場所ができる。
この外見で生きていてもいいんだってことを確かめられる。
だから演じていたのだ。
涙が溢れそうだった。
「……わたし、ずいぶん勝手だね」
「いいんだよ。タエさんはそれでいいんだ」
涙でぼやけた目に映るトシは、わたしと同じように目をうるませていた。
やがてトシの目が柔らかく細められた。
「きっとね、人は自分のために生きなくちゃいけないんだ」