5.武士になりたい
なぜあそこでトシから目をそらすことができなくなるのか、何度演じてみても解せない。本当はここでわたしも同じように笑ってみせることになっている。そんなふうに言ってくれてありがとう、と感謝の気持ちを込めて。
その笑顔に土方歳三が惚れてしまう、そういう設定になっている。なぜならこれ以降、土方歳三はお夏に強引に迫っていくからだ。それにお夏がきゃあきゃあ言いながら徐々に惹かれていくシーンが三つほど続く。
そんな観客への笑いとサービスの提供のための軽快なストーリーの後、劇は天から一気に地へと落とされるような悲恋へ、怒涛の結末へとまっしぐらに進んでいく。脚本を書いた金子いわく、前半の華やかさが後半の絶望を引き立てるのだそうだ。
部室では、ここでわたしは大輪の薔薇のような笑顔をつくることができていた。
なのに今は、馬鹿みたいに茫然とトシを見上げることしかできないでいる。
「……笑うってそんなに難しいことだったかなあ」
頭上に広がる針のような深緑の葉の隙間から、白い陽光がちらちらと差し込んでくる。眩しさに目を細めた。背中に敷き詰められた砂はひんやりと冷たい。生ぬるい海風がのろのろと肌の上を通り過ぎていく。
数日前まで、この時間帯、わたしは必ず部室にいた。四方を完全に閉めきった密室に部員全員が集合し固唾をのんで見守る中、かつらと着物を身に着けてお夏を演じていた。菊池の照らすスポットライトのすべてがわたしに向けられるたびに、光悦に身も心も震わせていた。
「……なんでわたしここにいるんだろう」
急に我が身を襲った孤独感を払いのけるために勢いをつけて起き上がると、トシは少し離れたところでまた海を眺めていた。
「トシは海が好きなの?」
声を掛けたことでトシの意識が現実に戻ってきた。
そんな感じがした。
「う、うん」
ぎこちない笑みを浮かべながら戻ってきたトシは、わたしの隣にすとんと座った。
「やっぱり演じるって大変だね。ちょっと演じただけですごく疲れたよ」
ちょっとと言うが、実際は相当な時間をかけている。しかもテイク十五、そのすべてをトシは手を抜くことなく演じきってくれた。なおかつそれだけ豹変してみせれば労力も半端ないだろう。トシの額は汗びっしょりで、Tシャツも濡れて肌に張り付いてしまっている。引き締まった体を誇張するかのようなそれは、菊池には感じたことのない独特の卑猥さすらあった。
「ごめんね。暑いのに辛くない?」
「ぜーんぜん大丈夫。これくらいどうってことないよ」
「そんなことないでしょ。不慣れなことをさせてるのはわたしだもん。少し休憩しよ?」
かばんから水筒を出し麦茶を注いで渡してやると、トシはうれしそうに目を細め一気に飲み干した。
「あー、おいしい。ここってこんなに冷たいお茶を飲めるんだからすごいよね」
そう言われると、普段何気なく飲んでいる麦茶一つがとても価値あるもののように思えた。トシはわたしとは全然違う。同じ人間なのに、過去と未来で生きている時間が異なるだけでこうも違ってしまうのだろうか。
わたしはいったいいつからこんな人間になったのだろう。
トシから空のコップを受け取る。
「トシって小さな幸せを見つけるのが得意なんだね」
「そんなことないって。僕じゃなくても、たとえば総司がここにいたら絶対に同じことを言ってたよ」
総司といえば、沖田総司だ。
新選組で誰が有名って、トップである局長を務めた近藤勇、副長であり実質の統括者であった土方歳三、そして一番組組長の沖田総司だろう。彼はすごく強かったらしいが、結核を患ってしまい新選組からは離脱せざるをえなかった。最期は若くして病死したらしい。
トシや新選組の末路を知っていることは、わたしはまだトシには黙っている。
トシには『過去を変えてはいけないから訊くな』と脅してあるけど、それだけではない。なんだかずるく思えて言えていないだけだ。
トシはきっと、歴史上に自分たちが名を残しているなどと想像もしていないのだろう。
今のわたしは過去を知らないふりをして相槌を打つくらいしかできない。
「総司くんってすごい強いんだよね」
「うん。あいつは人一倍頑張る奴だから、こんな暑い日にこのお茶を飲ませてあげたらきっと喜ぶよ。恩義のある近藤さんに報いたいって、あいつ、ほんといっつも一生懸命なんだ」
「……そう」
未来を知っているせいでトシに同調してやれない。
こんなので役者だといえるのか。
こういうときこそにっこり笑って「そうだね」って言うべきなのに。
さっきからわたしは笑うことが極端に下手になってしまっている。
「タエさんにもいつかみんなを会わせてあげたいなあ」
でもどうしても笑えなかった。
なにも不幸な末路が待っているのは沖田総司だけではない。京都での華々しい活躍は一瞬のことで、新選組は薩長軍に大敗を喫した後、京都から関東へ、関東からさらにじわじわと北上しつつ後退していくはめになる。その間に、くしの歯が欠けるように主要な人物が次々と失われていった。沖田総司もその一人だ。
そして土方歳三も、たどり着いた北海道で銃弾に打たれて死ぬことになる。
今隣で海を眺めるこの人が、実はあと五、六年ほどで北海道で亡くなってしまうのだと思うと、胸にせりあげてくるものがあった。
「……ずっとここにいたらいいじゃん」
「え? なに?」
「トシさえよければずっとここにいても……いいよ」
言い切って麦茶をぐいっとあおる。
それから無理やり笑顔を作ってトシの方を見た。
「ほら、こっちには冷たい麦茶もあるし、ウインナーだってバナナだってあるんだよ。それになおちゃんにも頼まれてるからさ」
トシが急に真顔になった。
「だめだよ」
諭すような声音がわたしの神経を逆なでした。
「なんで?」
トシはなだめるようにわたしを見つめた。
「僕は決めてるんだ。近藤さんと一緒に京都に行くって。まだ子供みたいな総司の面倒をみれるのは僕だけだし、他にも試衛館の面々だけじゃなくて、原田、永倉、藤堂のことも纏めなくちゃいけない。俺にしかできないんだ」
俺、と言った時のトシからは子供っぽさは抜け落ちていた。
不思議だ、自称を僕にするか俺にするかだけなのに、まるでそれが切替えスイッチかのようにトシを少年から大人にしてしまう。
「トシ……」
「僕ね、京都に行く前にこれまでの自分を捨てようと思ってたんだ」
「これまでの自分……?」
「うんそう。全部……全部捨てて、そうして本物の男になりたいんだ。武士になるってきっとそういうことだから。なおに言われる前からずっとそう思ってたんだよ。だからここに来られて本当によかった。ここに僕の全てを置いていきたい」
「武士……」
武士とは階級の一つ、教科書の士農工商のイメージが強いせいでそう思い込んでいたが、トシの言う武士はそういう属っぽいものとは違うようだった。
ざざん、とひと際大きく波が打ち寄せる音が届いた。海と砂浜の境界線上に白い泡がふくふくとたゆたっている。
少しの静寂の間、トシは手の内にある刀の鞘を小さく抜いては入れるを繰り返していた。きっと癖なのだろう。かちゃかちゃとおもちゃみたいな音がその都度鳴った。この場にあるはずのない物から発せられるその音はなぜかこの場の雰囲気に調和していた。
「トシは武士になりたいの?」
かちゃん。
刀を鞘に入れ脇に置くと、トシはわたしのほうに体を向けた。
「そうだよ。僕は武士になりたいんだ。武士だけが信念に従って生きることがゆるされていて、そんな生き方をしてみたいと僕はずっと思っていたんだ。千載一遇の機会がね、やってきたんだ。京都に行けば、農家の息子の僕でも剣と志さえあれば武士になれるんだって」
「誠の……武士」
新選組の代名詞と言われる誠の旗のことが唐突に思い出された。文庫本の帯にもこう書いてあったではないか。
『誠の旗の下に集った志士たちの生き様を知れ』
トシがわたしにうなずいてみせた。
「そうだね。そう、僕は真の武士になりたいんだ。尊い志を掲げて生きられる、そんな武士にね」
真の武士になることとは誠を貫くこと――。
トシの決意の固さは明らかで、だからもうそれ以上は言うことができなかった。
じじじ、と蝉がせわしなく鳴き出した。きっと頭上を覆う大木のどこかに蝉が止まったのだろう。確か土から這い出してからの寿命は七日間だったっけか、と頭の片隅でぼんやりと思った。
波の音に負けじと、小さな体で大音量を発する一匹の蝉。
もしかしたら、そんなふうに鳴かずにひっそりと木陰で過ごしていれば、十日間でも、一か月でも長生きできるのではないだろうか。体の大きさに対して明らかに釣り合っていない騒々しさだ。
トシだって……新選組のみんなだってそうではないのか。
京都に行かなければきっと長生きできるんじゃないだろうか……。