甘くて優しいカフェオレを
集中力が途切れたことで、混迷の中にいた意識が現実に戻っていく。
するとあれほどくっきりと見えていたモニタの画面が、とたんにぼんやりと曖昧なものになっていった。目の焦点がずれたことで、エクセル上の小さな数字の羅列を脳が意味不明の物体と認識した。誰もいないフロアは、煌々とライトが照らされているが気味が悪いくらいに静かで、意識しだすと一層不気味さが増幅した。無機質な空間に居並ぶ電源の入っていないモニタ群もまた、自分以外の生き物がここにはいないのだと自覚させた。……痛いくらいに。
突然。
目の前のモニタの輝きが殺人的に鋭利に感じられ、わたしはとっさに眉間を押さえていた。そのまま目を閉じること、数秒。親指と人差し指でもんでいくと、その部分から顔全体へと血流が活性化されていった。
やがて目を開けると、世界は少し正常に戻っていた。数字も数字だと認識できるまでに回復している。だけど頭はついていかなかった。たとえ数字だということは分かっても、それらの繋がりや意味付けがどこにあるのかは分からなくなってしまった。一度目を閉じ意識をそらしてしまったせいで、体が正しく自己主張を始めたようだ。つまりはこう。もう仕事をするな、休憩をしろ。そうわたしの体は言っているのだ。
モニタの画面をオフにし重い体を起こすと、体のどこかでぽきりと渇いた小さな音が鳴った。こんなのはご愛嬌、一時間近く同じ姿勢でデスクにかじりついていたせいで、体が固まってしまったのだから仕方ない。それともこういう現象は年のせいなのだろうか。
年、年。
そう何度も心の中でとなえてはいるが、わたしはそこまで年をとってはいない。
そこまで、と自己弁護をしてみるあたりが若くないがゆえの欺瞞なのかもしれないが……。
脳内であれこれと考えながら自動販売機へと向かうのは、もう無意識の行動だ。休憩すら機械的にこなすようになってしまっている。しかしこれだけハイペースで仕事をしても、まだあと二時間分の作業が残っている。だがわたしのすべてはもう限界に近い。目だけではない。頭も体も……心も。
フロアを出て少し廊下を歩くと、奥を曲がったところに自動販売機がある。ブウン、とかすかに機械音がする以外はここも静かなものだ。誰一人いない。廊下沿いの他部署のフロアも軒並み静かだ。それでもドアの上半に備わる透明のガラスごし、どこも仄かに明るいから、まだ何人かは働いているのだろう。
フロアとは逆側の窓、向こうには見慣れた夜景が広がっている。空は黒に近い濃紺。星はほとんど見えない。地上の眩しさの方こそ、よっぽど天体観測にふさわしい。大小、強弱。七色に光るライト。どれもため息がでるほど美しい。わたしは昔から夜景を眺めるのが好きだった。
だけどこれらのライトは美しさを競うために輝いているわけではない。必要だから灯されているわけで、そこには一人一人の生活がリンクしているはずなのだ。それを想像するたびにわたしの胸は小さく震える。締め切った窓は向こう側の音を拾えなくしているが、不夜城は今日も活気づいている。
『あの光る夜は、夜に働く人間がいるからこそ輝いているんだよ』
そう誰かが言っていたことを、この景色を見るたびにわたしは思い出す。
それは夜だけではない。昼にもいえる。昼の労働も夜の生活を成り立たせるために必要不可欠なもので、昼も夜もあるからこそ、一日というものが成り立っているのだ。人は夜も生きなくてはならない。そのためには夜を作り守る人間が必要だということだ。
だからわたしは今日も働く。夜遅くまで働くくらい、この日本では誰だってしていることだ。だけどそれだけではない。この社会を、夜景を、顔も知らない誰かの生活を守りたいから、だからわたしは働いている。誰にも言ったことはないけれど、それは本心からのわたしの働く動機だった。
休憩時間に飲むコーヒーはブラックと決めている。小学生のころは砂糖とミルクたっぷりのコーヒーをたまに飲んでいただけだった。それがいつしか、砂糖の量が減り、ミルクだけになり、やがてミルクの量も減っていき、いつしかブラックを頻繁に飲むようになっていた。
砂糖やミルクはカロリーが気になる。それに飲み干した後の口内のねばつきが気になる。だけど一番の問題はリラックスしてしまうことだ。まだすべての仕事は片付いていない。眠気覚ましと脳内の覚醒のために、今日もわたしはブラックコーヒーを購入するつもりでいた。
角を曲がったところで息をのんだ。
自動販売機には珍しく先客がいた。
横顔は見知らぬ男。同年代のようにも見えるが、若くも見える。最近はやりの、ふちの太い眼鏡をかけ、固めていない髪はさらりと眉を隠している。まだ四月だというのにジャケットを着ておらず、しかもシャツを肘までまくっている。寒くないのだろうか、と勝手な心配をしてみる。そこから伸びた腕には健やかな肌のはりと生気が感じられ、だけど浮き出た骨の剛な感じは確かに成人した男性特有のものだった。そこでちょっとどきりとしてしまうわたしは単純なものだ。たかが腕の特徴一つが心の琴線にひっかかるなんて、どれだけ疲れているのだろう。顔ではなく、腕。なんとも不純な大人らしいときめきの仕方だ。
彼は少し迷っているようだった。だがわたしが接近し、とうとう背後に並んだことで、あきらかに動揺した。こちらをちらと見た瞳の上、まつげが不自然に早く不規則に揺れた。
急げと圧力をかけたわけではなかったのだが、彼の長い指が推したボタンの先を意味もなく視線で追ってみせるわたしはひどい奴なのかもしれない。ミルクたっぷりのカフェオレ、分かりやすい乳白色の缶の下、ボタンが赤く光った。
ピピ、ガタン。
この時間帯に、しかも男でカフェオレか。その割には太っていないな、などと思いつつ、視線はつられて下の方へと動く。けたたましい音とともに、排出口の奥から乳白色の缶が姿を現した。
ピピ、ガタ、ガタン。
同じ音が聞こえ、反射的に視線はさきほどのボタンのほうへと動いた。
彼の指がまた同じボタンを押し、離れたところだった。
「……ああ、やっちゃった」
ため息とともに広い背中が動き、白いシャツが目の前で揺れた。背をかがめ、排出口に手を突っ込み、彼は同じ缶を二つ取り出して立ち上がった。振り向いた彼は、やや見下ろしたところにわたしの顔を認め、少し目を見開いた。思ったよりも近くにわたしがいて、それに驚いているようだった。
だけどそれは一瞬のことで、彼は「はい」と言いながらわたしに一本を手渡してきた。
「同じの二つ買っちゃったから、もらってくれませんか?」
「……え?」
見知らぬ人から差し出された、砂糖とミルクたっぷりのカフェオレ。
彼の手の中、乳白色の缶を見て、もう一度彼と視線を合わせると、彼は目元を少し赤らめ、恥ずかしそうに顔をそむけた。
「もらって……くれませんか?」
そう言いながら、視線だけをちらりとこちらにやる彼に、わたしの胸がきゅんと鳴った。
その音は自分だけにしか聴こえない音。鈴のように高らかで軽やかで、だけど一度聴いたら耳から離れない、忘れられない音――。
自覚したら一気に頬がほてった。
恥ずかしい。
けど、でも――。
こんなこと、もう二度とない。
絶対に。
差し出されているそれがブラックでなくてもいい。
なんでもいい。
「ありがとう、ございます」
視線をそらさず受け取ると、スチールの缶は思った以上に熱くて、触れた瞬間、わたしの指は条件反射で離れようとした。だが次の瞬間にはためらうことなく掴んでいた。手の平が灼けつくように火照ったが離さなかった。
彼の肩が安堵したように下がり、その気配一つでこの場の空気が柔らかくなった。その時、缶を握るわたしの指先がちょんと彼の手のひらに触れ、とたんにしびれるような衝撃が心臓まで届いた。
実物の缶の熱さよりも、心の感じた熱の方がきついなんて。
つい目と口が開いてしまい、それにつられて彼もまた表情を変えた。
彼が何かを言う前に顔を伏せ、手持ちの財布を開けてみせる。そのまま小銭を探し出したわたしに「いいですよ」と彼が言う。顔を上げると、彼は今度こそわたしのような表情をしていた。
「いいですよ、これは俺のおごりですから」
「でも」
「本当に、もらってくれるだけでいいんです」
ひと言ひと言区切るように言いながら、彼は思いの外真剣な眼差しでわたしを見つめた。ためらいはあったものの頷いてみせると、彼はようやく柔らな表情を取り戻した。その変化する様子は、さながら曇天に一条の光がさすような、ふいの感動を引き起こした。
彼は小さく頭を下げて、そのまま黙って去っていった。その背中に向かって「ごちそうさま」となんとか声をかけると、くるりと振り返った彼はこれまた優しい表情で、呼応するかのように胸がいっそう高鳴った。もう無視することなどできないほどに激しく。
それから無人の廊下、いつものごとく夜景を見ながら熱い缶を握りプルトップを開けると――湯気とともにふわりと甘い香りが漂った。いつも飲むブラックコーヒーならここできりりと冴えた香りがするのに、これは同じコーヒー飲料とは思えないほど柔らかな香りがする。
口に含むと思った通りの味がした。砂糖の甘さ、ミルクのまろやかさ。ほんの少し、おざなりなくらいに感じられるコーヒーの苦み。子供みたいな味だ。子供みたいな――。
「でも……おいしい」
その言葉は自然と出てきた。
誰もいないのをいいことに喉を鳴らしてごくごくと飲んでいく。
おいしいおいしいとつぶやきながら。
全部飲み干せば、心はすっかり穏やかになっていた。まったくもって予想どおりだ。砂糖とミルクたっぷりのコーヒーはリラックスしてしまうから仕事向きではない。頭も体も、それに心もほぐれてしまった。今日はもう戦闘モードは取り戻せないだろう。
でも今日みたいな日だってきっとあっていいはずだ。見下ろす先には今も煌々とした光の洪水があふれている。輝きの一つ一つになぜか身近な温かさを感じた。
心地よい睡眠をとったあとのように、新鮮な気持ちでデスクへと戻る。さっきまで、あれほど苦心していたデータの整理方法に一筋の光明が見えだしたのは、きっと偶然でも奇跡でもない。
タイピングする指の動きは自分でも不思議なくらい軽やかだ。その横には空になったスチール缶が一つ。捨てずにとっておいたそれをちらりと見て、わたしの顔は自然と綻んだ。ちりん、とどこかで鈴の音が鳴ったような気がした。
*
「……という感じで、たぶん一目ぼれだったんだと思う」
罰ゲームさながらに当時の心境を白状すると、彼は目を細め、少しいじわるそうな表情になった。
「へえ、そうか。一目ぼれだったんだ。俺に一目ぼれしてたんだ。へええ」
「もう、いじわる言わないでよ」
話しながらも恥ずかしくて、ずっと抱きしめていたクッション。それを思いきり投げつけてやると、彼は「悪い悪い」と言いながら軽々と受け止めた。
家でもシャツを着る彼。コットン製のそれを今日も肘までまくり上げているのは、どうやらそうしないと落ち着かないかららしい。見える部分の肌はすいつくようなさわり心地で、今でも触れるたびにうっとりしてしまうのは秘密だ。ついつい吸い付きたくなるなんてことも……さすがに言えない。
「で、そっちはどうなのよ」
「どうって?」
「だから、そっちはどうなのよ。だいたい、そっちから告白してきたんでしょ? そっちはいつわたしのことを好きになったのよ」
すると彼がむっと唇をとがらせた。
「その言い方、なんかやだ」
「なにが」
「そっちじゃない。ちゃんと俺の名前言って」
じっとこちらを見つめる瞳が困るくらいに真剣だから、うっと唸ってしまった。
「ねえ。言って?」
彼の大きな手が伸びてきてわたしの頬を包んだ。
「……言って?」
体の奥まで響くような低い声は、もう反則だ。こうなったら、いかにわたしが悪かろうが恥ずかしがろうが降参するほかない。
「……ヒロ」
「なに?」
「なに、じゃない! 名前ちゃんと言った!」
「はいはい、よくできました」
頬に触れていた手を首の後ろに回すや、わたしを引き寄せ軽くキスをする。小さな音が鳴り、それにわたしの心臓も正直に跳ねた。鈴のような音。小さくて軽やかなのに無視できない音。ああ、今でもわたしはこの人に恋している。一目ぼれをしたカップルは長続きするというが、それはきっと本当のことだ。だってわたし、いつまでたってもこの恋に慣れない。ちょっとしたことですぐに恋したばかりのようなどきどきを感じてしまう。
問い詰めるというより甘えたくて話を続ける。
「ちゃんと言ってよ。ねえ、ヒロはいつわたしのことを好きになったの?」
「さあ? いつだろうね」
「もう!」
拳をつくったわたしを彼はすかさず抱きしめた。彼の広い胸の中に入ってしまうと、わたしは完璧に閉じ込められてしまう。何もできなくなってしまう。そうされてうれしいと思ってしまう。だからもう本当に抵抗する手段はなくなってしまった。
「……そうやってごまかしてばっかりでひどい」
「そうか?」
「わたしばっかり……恥ずかしい」
「恥ずかしそうにしていると、かわいい」
「そういうことじゃない!」
腕の中で暴れてみたが、彼は笑いながら大したことのないように背中をぽんぽんと叩く。その動作がまたごまかすためのものに思えてしばらくむっつりとしていたが、耳をあてている彼の胸、体温が少しあがり、鼓動が少し早くなってきたことに気づいた。
「……ヒロ?」
「実は、さ」
小さくつばを飲み込む音が聞こえたが、彼の胸の音がそれをかき消した。
「実は俺、あの日よりも前からお前のこと知ってたんだ。こっちに異動してきてすぐ、仕事に慣れなくちゃって、一人で意地になって最後までフロアに居残って仕事していた」
彼の顔を見ようとしたが、抱きしめる腕の力がこもってそれはできなかった。耳元では相変わらず心臓の音が駆けるように鳴っていて、腕の中は少し熱いくらいだった。
「ある日、廊下でお前を見かけたんだ。プシュっていい音がして見たら、缶コーヒーを一口飲んだお前が夜景見ながら眉をしかめててさ」
そう言った彼の体がふるっと震えた。
「そのあとも、一口飲むたびに眉をしかめるお前がさ、おもしろくて」
ふるふると小刻みに震える体は、彼の愉快さを正直に伝えてくる。
「……おもしろいってひどくない?」
「ああ、ごめんごめん」
彼はわたしを抱きしめ直し、「でもその時お前のこと好きになったんだ」と言った。
「……それ本当?」
「うん、本当」
「眉しかめていたのに?」
「眉しかめていたのに」
「ぜったいに不細工だった」
「うん、不細工だった。けどその時好きになったんだ」
ひどいことを言われたはずなのに、なぜか泣きそうなほどうれしくなっている自分がいた。
「一目で分かったよ。お前が一生懸命な奴だってこと。辛いのに逃げずに、苦いの我慢してコーヒー飲んで。そうやって仕事してる奴なんだなってことが分かった。そういうお前だってことが一目で分かったから、だから俺はお前のことを好きになったんだ」
「ヒロ……」
「だけどさ。ずっとずっと頑張ってばかりじゃ大変だろうなって心配で。だってお前、毎晩おんなじように缶コーヒー飲んじゃあ眉しかめてるんだもん。俺も下手に頑張っちゃうタイプだから分かるんだ。昼間にすれ違った時も、眉間のしわが気になってついじっと見ちゃったりして。それであの日、お前が後ろに並んだから、わざとカフェオレを二本買ってお前に渡した」
「そうだったんだ……」
全然知らなかった。
あの頃のわたしは孤独で依怙地な人間だった。たった一人で、一人だけで頑張って働いて、そうやって生きているとばかり思っていた。だからこんなわたしのことを気にかけてくれていた人がいたなんて……全然知らなかった。
「あとさ。俺、お前に言いたいことがある」
急に声を固くした彼は一つ息をついた。
「もうそうやって一人で頑張らなくていい」
「……え?」
「あ、いや。そりゃあお前の仕事はお前のものだし、お前の人生もお前のものだよ」
あわてて言葉を継いだ彼は、緩やかにわたしのことを抱きしめ直し、「だけど」と続けた。
「だけどさ、心は俺にも分かち合える。何かあったらいつでも俺に言ってくれよ。そんで辛いときはこうして俺に甘えればいい。ずっとそうすればいい」
「そ……それって」
「うん。つまり、そういうこと?」
急にそっぽをむいてしまった彼の気配に顔をあげると、頭上の彼は横目でちらりとわたしを見下ろし、照れくさそうに言った。
「だからさ。俺とずっと一緒にいよう?」
たまらず飛びつくように抱きつくと、彼はまたわたしの背中を優しく叩いてくれた。それ以上優しくされると本格的に泣いてしまいそうだったけど、わたしは力の限りに彼にしがみつき、胸の中、いつまでもうなずき続けた。
「お前には俺が必要だよ。俺みたいな甘やかしてくれる奴がね……」
胸の奥に彼の言葉がじんわりと染みていく。
甘くて優しいカフェオレのように。
でも彼はカフェオレじゃない。苦いところなんて一つもない。
彼は甘くて優しい――最高の恋人だ。