第四話 『始まり』
「何よ、信じてないでしょう」少女は怪訝な目で見つめる僕をわざとらしく睨んだ。当然だ、いきなりそんなことを言われてはいそうですかなんて言えるわけがない。そういうのは中学二年生のときに卒業した。いきなり包帯と眼帯をして学校に行き「もう一人の俺が...目覚めるッ!」とかやっていた死ぬほど恥ずかしい過去を思い出すからやめてほしい。あと勝手に故郷を魔界にするな、どんだけ治安悪いんだその地域
「信じるもなにも、僕は悪魔を見たことも無ければ魔界に行った事もない。僕が過去に見たことがあるのは悪魔を名乗る痛い子供と人間社会って言う名の地獄だけだ」
僕は自分の目で見たものしか信じないんだ。そう告げて、もういいからおうちへ帰りなと突き放しそのままその場を立ち去ろうとすると、頭のてっぺんからつま先までを一瞬にして悪寒が駆け抜けた。嫌な予感がしてもう一度彼女に目を向けると、その眼は最初に見た時と同じように怪しく光り、そして不気味な笑みを浮かべこう言った
「その目で確かめれば...信じるのね?」と
彼女は何かに合図するように自分の右手をそっと前に押し出した。ただ、それだけの動作なのに
「ッ!!」
その瞬間、暴風が僕の全身を叩き付けた。今すぐにでも飛ばされてしまいそうなほど強い勢いが押し寄せ、僕の体を運ぼうとする
それなのに
彼女は平然とそこに立っている。黒の白のコスプレにしか見えないゴスロリ調の洋服と肩にかかるほどの艶やかな黒髪だけが風になびき激しく揺れている
そしてなにより驚くことは
その風は僕と彼女の周りにだけ激しく吹きつけているということだ。これだけ強い風なのに、いたるところに張り巡らされた電線や目的地までの距離を指し示す道路標識なんかは微塵も揺れてなどいない
....ん?
そこで僕は更に大きな違和感を感じた。彼女と話をしていたのはまだあまり長くはない時間ではあるが、その間車は通ったか?人は?聴覚障害者の人たちのために信号は色が変わると音が鳴るはずだ。鳴ったか?
強い風の中必死に目を開けて信号機を確認すると...青。僕が渡ったその時のままだ
更には先ほどまで僕と彼女の間だけを器用に避けていた雨粒が、今度は空中で固定されていた。どおりで雨の音が聞こえないと思った
まるで時間が止まってしまったかのようだ...これは彼女が全てやったことなのだろうか?
「これでわかったかしら」彼女は手を降ろし、その直後にあれだけ吹き荒んでいた暴風はぴたりと止んでしまった
「...これは君が?」
体に残る風の感覚に戸惑いつつも、彼女に尋ねる。何かカラクリでもあるのだろうか、もしくは本当に彼女の言うとおり悪魔だとかふざけた存在なのか
「ええ、貴方と私の周りの空間だけ少し固定させてもらったわ」
平然と言い放ってしまう彼女のその態度に、もうこちらとしてははぁ、と納得するしかなくなってしまった。正直に言って悪魔だとか魔界だとかは信じる気になれないが、疑ったところでキリがない。確かめようがないのだから。僕は自分の目で見たものはそれなりに信じることにしているし、少なくとも彼女が何かしら特殊な力を持った存在だということはわかった。普通の人間は目が光ったりしないし、嵐を起こすこともできない。何かカラクリがあったとしても、ここまで手の込んだことをするだろうか?僕とキスをするためだけに?...そこまでの価値が人間だとは思っていないし、なにより回りくどすぎる
「わかった。僕の負けだよ。君が悪魔だという前提で話を聞こう。君の目的は?契約って何さ」
納得したら納得したで疑問は次々浮かんでくる。悪魔だと納得したところで、謎はますます深まるばかりだ
「知りたいかしら?教えてあげなくもなくってよ?」
物凄く得意そうな顔でこちらを見つめてくる。その態度になんだか負けた気がして、少し彼女の話を信じたことを後悔したけれど、「わかったから教えて」と先を促すと彼女はふふんと鼻を鳴らしてさらに自慢げに話し始めた
「私はとある目的のためにこの世界にやってきたっていったでしょう?その目的は教えられないけれど、そのために人間の魂が必要なの。契約っていうのはさっきのキスのこと...上手だったでしょう?」
...やかましいわ
正直悪魔とか魔界だとかその辺についてもっと詳しく説明してもらいたかったのだけれど、色々聞きすぎてもおそらく頭が許容量を超えてしまうことだろう。特に知りたいことはわかったし、これでいいか、と納得しかけたが、一つの疑問が頭をよぎる
「僕、魂とられてないけど」
そうだ。実際に今僕はこうして生きている。何を持ってして生きていると表現するかはわからないしそれより先は哲学的な話になってしまうから言及しないけれど、とりあえず肉体的にそれなりに健康で呼吸をし思考できている。よくファンタジーなんかで魂を抜かれると体だけが抜け殻のようにそこに残ったりするので、てっきりそういうものだと思ったのだが。もしやもう魂を抜かれてしまってここはその抜かれた魂が行き着く場所なのだろうか。ここにいる僕は実は魂だけの存在なのだろうか
「それはそうよ。魂を頂くのは貴方が死んだ後。死後も貴方の魂は魔界に囚われ、永遠に転生することができなくなるというわけ」
「死後かぁ...あまり想像もできないな」
「怒ったり、悲しんだりしないの?勝手にこんな契約を結ばれて、普通はそういう反応を見せると思うのだけれど」
「いや、別に」
そう言われても、自分が死んだ後のことなんて想像もできなければ興味もない。自分の生にすら執着できていないような人間が、どうして死後のことについて考えられようか
彼女は艶やかになびく自身の黒髪を右の人差し指にくるくると巻きつけながら、怪訝な目でふぅんと呟いた。こういう人間にはあまり出会ったことがないのかもしれない。無気力世代の人間なんてだいたいこんなもんだぞ、多分
「冷めたフリをしているのね」
「そうかも。得意なんだ、そういうの」
高校生の時にクラスメイトからつまらなそうな、それでいてどこか非難するような言葉をかけられたことを思い出した。落ち着いてるね、とか冷めてるね、とか。実際にはそういうのではなくて、単に考えるのが面倒だから思考や行動を放棄しているだけだ。別に興味が無いわけではないし、それをかっこいいと思ってしているわけではない。元から人間は苦手だし、他のクラスメイトの騒がしい空気についていけなかったからそういう冷たい目を向けられるのもわかるけれど。人間は自分と違うものに対してはあまりいい感情を抱かない生き物だ。同じもの同士で固まり集団でそれを刺激し、仲間内で盛り上がる。そんなものだ
「ただ、魂って代償を払ったのに僕に見返りがないことには納得いかない」
「あら、そんなものでしょう?悪魔の契約なんだから」
そう返されるとうーんと妙に納得してしまう自分がいた。確かに相手は悪魔(自称)なのだから多少理不尽であったほうが説得力はある。まぁ、魂くらいただで渡してもいいかという気持ちにすらなってくる。別にそこまで価値のあるものでもないし
「それもそっか」と返すと、予想外にあっさりとした返答に驚いたのか、「え、それでいいの?」と何故か彼女がこちらを心配するような態度を見せた
「...しょうがないわね」
そう呟くと、彼女はまた半歩近づき、そこで一瞬ためらうように止まった後、背伸びをしてもう一度僕の唇を塞いだ。そして何故か視線をそらし、気まずそうにまた半歩下がっていった。これには一体何の意味があるのと問うと、彼女は少し恥ずかしそうに顔を赤らめながら呟いた
「ちょっと可哀想だから、私の眷属にしてあげたのよ...これで貴方は悪魔と同じくらいの強靭な体になったわ」
何故顔を赤らめながら話す。と、言うかそんな表情も出来るんだ、と驚きつつ素直に可愛いなと少し見惚れてしまった。ほんの少し変な会話とキスをしただけだけれど、これでお別れになるのというのはそれはそれで寂しいものがある。最初は変なだけの女の娘かと思ったけれど、色々どうでもよくなって情がうつったのか、今では普通にただただ可愛いな、と感じるだけになってしまった。我ながら現金だ
ここでお別れするのも少し惜しいけれど、とりあえずびしょ濡れの洗濯物が心配なので帰ることにした。悪魔に見送りは必要ないだろう。あとは目的でも何でも果たしてちゃっちゃと魔界に帰ってほしい
うつむきながら立ち止まったままの少女の頭に手を載せ、用も済んだだろうしそれじゃあ元気でとその横を通りすぎる。色々よくわからないことに巻き込まれてしまったけれど、これはこれでいい経験になった。人間生きていればこういうこともあるんだなぁ、としみじみ思っていたら、雲の隙間から少しだけ夕陽が差し込むのが見えた。だいぶ陽も長くなってきたな、こういう日もまぁ悪くない
そんなことを考えているうちにあれから10分ほどで二階建てのそこまで綺麗じゃない我がアパートが見えた。水溜りを避けながら階段を上がる。205と書かれたドアの前に立ち、僕はジーンズのポケットから取り出した家の鍵を差し込んだ
ドアノブをまわし、靴が無造作に散らばる狭い玄関に足を踏み入れた
「...ただいま」
「おかえりなさい」
ふいにすぐ後ろから聞こえた鈴の音のようなとても綺麗な声...おい待て
「...どうしてついて来てる」
「当然じゃない、契約を結んだんだから!」
にっこりと天使のような笑みを浮かべ――悪魔だけど――彼女はそう言い放った
こうして、人生をまちがえた僕と悪魔の彼女の奇妙な共同生活が始まったのだった