嗚咽
半ばかけるようだった郁子の足は、急停止する。
店の前に黒いワンボックスカーが停まっていた。ボンネットに貼られた翼のはえたドクロのステッカー。
歯医者のドアを開けるより憂鬱な気分で、郁子は店のドアを開けた。
客の姿はなく、車の主の姿も見えない。
ほっとする暇もなく、カウンターの中でコーヒーを淹れていたハナエから怒声が飛んだ。
「遅いじゃない。まったく、どこで油売ってたのよ」
「すみません……」
首をすくめ小さくなりながら、郁子はトートバッグを差し出すと、すかさずハナエがひったくる。中の小銭を確認しながら、にらみつける。
「ぼさっとしてないで、さっさと荷物を片づけて。言われないとなにもできないの、あんたは。辛気臭い顔してんじゃないわよ、うっとうしい」
すみませんと、わびながら郁子はカウンターの裏から、パントリーに入った。備品や食材が保管された棚があり、作業用に小さなテーブルが置いてある。
その上に大きな段ボールが無造作に置かれていた。外に出るのではずした郁子のエプロンは下敷きになっている。
エプロンをあきらめ、郁子は先に箱のふたを開けた。
業務用のマヨネーズ・パスタ・ワインビネガー・ペットシュガー・フレッシュミルク・缶詰。数を確認し、棚になおしていく。
セロリ・キャベツ・生クリーム・卵・ベーコン。冷蔵庫に入れるものと選り分ける。
ようやく軽くなった段ボールの下からエプロンを救出し着用しているとトイレのドアが開く音がした。
パントリーとトイレのドアは向かい合っている。普段はアコーディオンカーテンで仕切ってあるが、今は開けてあった。
お客さんなら挨拶しないとと顔を向けた郁子は、そこに会いたくない顔を見つけた。
「郁子ひさしぶりぃ」
トイレから出てきた男が郁子の腰に腕を回し、いきなり抱きついてくる。うなじのあたりの顔を寄せると、音を立てて匂いを嗅ぐ。
「……やっ、やめて、ください」
郁子が身をよじって懸命に男の腕をふりほどくのを、にやにやと笑って見ているのは、ハナエの次男・浩二だ。この店の店員であるが、二日に一度しか姿を見せない。業務用スーパーでハナエから頼まれた買い出しを行い、届ける。彼の仕事はそれだけだ。
店に顔を出すたびに、郁子の身体に触れたり、撫でまわしたりして、いやがる郁子の反応をいつも楽しんでいた。
冷蔵庫にしまう物をかかえ、パントリーから逃げる郁子の尻を眺めながら、浩二は後をついていく。
ハナエは淹れたコーヒーを息子にさし出した。彼女は浩二のふるまいをいつも見て見ぬふりだった。むしろ面白がっている節さえある。
「はい、浩二。お昼はすませたの」
「まだ」
「じゃあ、なんか軽く作るね――邪魔よ。トイレ掃除がまだでしょ。さっさとやってちょうだい。本当に気が利かないんだから、ぐずっておまえのためにある言葉だわ」
食材をしまうため冷蔵庫の前にかかがんでいた郁子を追い払い、ハナエは上機嫌でベーコンを炒めはじめた。
泣きそうな顔でハナエに頭を下げ、カウンターを出る郁子に珍しく浩二が「がんばれよ」などと言う。
その理由はすぐに知れた。
トイレは、便座も床も水浸しにされていた。
異臭のひどさに、郁子は涙ぐんだ。