約束
ランチ営業も終わり、郁子は閉まる直前の銀行にかけこみ、両替をすます。
暖かな行内から外に出ると、泣きだしそうな曇天に、頬が切れそうな風が吹きさらしていた。
小銭で持ち重りのするトートバッグを肩にかけた郁子は、足早に歩きかけて、動きを止めた。
薬局の店先でピンクのゾウの鼻を握ってゆらしている子がいる。
チョコレート色のジャンパースカートと柔らかなクリーム色のブラウス。耳の下で二つに結わえた髪。
もしかして、数日前アパートの階段で会った子だろうか。
女の子はおもむろに振り向き、郁子に気づくと喜色満面でかけよってきた。お腹に力いっぱい突撃され、少しよろけてなんとかもちこたえる。
「お姉ちゃん」
なにがそんなに楽しいのか、あいかわらずにこにこ笑っている。
「びっくりした……」
「あたし、すーちゃんだよ」
戸惑う郁子に、女の子は自慢げに名のる。
「すーちゃん?」
郁子が名を呼べば、嬉しそうにうなずいて手をつないできた。長い時間外にいたのか、ふっくりとまろいその手は、ずいぶん冷えている。
そういえばずいぶん寒い日なのに、カーディガンもコートも着ていない。
少しでも温めてあげたくて、郁子はきゅっと小さな指をてのひらにつつみ、そのまま手をつないで歩き出す。
郁子は子供と遊んだ経験がないし、どう扱っていいかわからない。ただ泣かれると面倒だという意識があるから、つい下出に出てしまう。無下にふり払うことができない。
「すーちゃんは、ひとりなの? お母さんは?」
「ママはおうち。パパはあそこ」
すーちゃんは目前の歩道橋を指さす。
階段の下、ほの暗くかげるところに男が一人いた。かっちりとスーツを着こみ、眼鏡をかけた真面目そうな印象だ。
実を言えば、郁子は男性が少し怖い。高校は女子学だったし、家には父親がいなかった。教師はすべからく近寄りがたく、同級生の男子は遠巻きにしていた。加えて今の環境がそれに拍車をかけていた。
おじける郁子にかまわず、すーちゃんはぐいぐいと手を引いて父親のところへと連れていく。
にこにこ笑う父親に、ぺこりと郁子は会釈した。
「こんにちは」
「……こんにちは」
こういう時どうあいさつし、どう会話をつなげていくかという世間知が郁子にはまだない。
どうしようかと困惑していると、父親はひょいっとすーちゃんを抱き上げた。
「すーちゃん、お姉ちゃんの仕事のじゃましちゃだめだよ」
「してないもん」
父親にたしなめられて、さも心外だと言わんばかりに、すーちゃんは頬をふくらませる。
「お姉ちゃんも怒っていいんだよ」
父親が口にする「お姉ちゃん」は、たとえば店の客が若い郁子を呼ぶときの代名詞より、ずっと親し気で気安い感じだった。
人見知りの郁子は、困惑を通り越して恐怖すら感じる。
「い、いえ、私は別に。あの、これで失礼します」
逃げ出そうとするところへ、すーちゃんが目をきらきらさせて問うてくる。
「お姉ちゃん、こんど遊びにいっていい?」
正直迷惑だったが、同じアパートらしい親子相手に、険悪になるのは避けたかった。郁子は渋渋うなずいた。
「うん、いいよ」
「ママも?」
「……うん」
「パパも?」
ちらりと父親の顔をうかがう。とめてくれないかと期待をこめて見やったが、にこにこ笑っているだけだった。
「うん、いいよ」
しかたなく郁子が言うと、すーちゃんは本当にうれしそうに笑った。
なぜ、こんなになつかれているのか。意味が分からない。
逃げるようにその場を離れる郁子に、すーちゃんと父親は「いってらっしゃい」と声をかけた。
にこにこ笑う二人にもう一度頭を下げ、郁子は足早に立ち去った。