母娘
とぼとぼと足を引きずるように、郁子は帰宅する。
お腹が空いていた。
初日に「仕事もろくにしないで一人前に休憩もらおうなんてあつかましい」と言われてから、郁子に昼休憩の時間は与えられていない。
銀行へ両替に出たときに、コンビニでクッキーバーを買って歩きながら食べることもあるが、今日は朝にロールパンと紅茶を口にしただけだった。
給料は八万。一日約十時間、ひと月に二八日ほど働いてそれだけ。時給に換算すれば四百円にも満たない。おかしいとは思いはするものの、郁子にはそれを訴える先も思いつかないし、そんな余力もない。内向的すぎる郁子には相談する友達もいない。
アパートの家賃五万、食費、生活費、水道光熱費。必要経費を払ってしまえば、毎月いくばくも残らない生活。
郁子がどれだけ辞めたいと訴えても、ハナエはそれを許さない。
祖母の葬儀代、引っ越しの費用、アパートの保証人。いろいろなことで縛りつけられ、ねちねちとその費用を返せとか、恩知らずとかののしられているうちに、郁子の気力はすっかり失せていた。
エントランスの郵便受けの前を通り、薄暗いモルタルの階段をのぼる。冷えた空気の中に、おだしの匂いが混ざっている。
郁子はきゅるきゅる鳴るお腹をなでながら、冷凍のご飯でおじやでも炊こうかと思う。揚げ玉を入れれば、ボリュームが出る。
「あら、おかえりなさい」
不意に朗らかな声がかけられた。一階と二階の踊り場。郁子より年上、三十代半ばくらいのふっくらした頬が優しげな女性がいた。
どこかで会った気もするが、アパートの住人だろうか。
「おかえりなさい」
彼女の足につかまる幼稚園くらいの女の子が、甲高い声で繰り返した。この子もにこにこ笑っている。
おかえりと言われたのだから、返す言葉は一つしかない。
「……た、ただいま?」
郁子は口ごもりながら、小さな声で言った。ずいぶん長いこと言ったおぼえがなくて、なにか気恥ずかしかった。
女の子はとことこと歩みよると、はいっと赤いものをくれた。
「ことりさん、あげる」
「あ、ありがとう」
戸惑いながら受け取ったそれは、折り紙だった。
ことりだ。頭が白くて胴が赤い、インコのような形をしている。
郁子にプレゼントを渡した女の子は、母親に手を引かれ階下へと降りていく。途中ふりかえり、バイバイと手をふる。母親もにこにこ笑って郁子に頭をさげる。
ぎこちなく女の子に手をふり返し、二人と別れた郁子は部屋へと帰った。
バッグから取り出した鍵で、ドアを開けた。ドアノブが冷たい。
手探りで台所の明かりをともす。
畳一帖より狭い玄関に、カラーボックスが靴箱代わりにおいてある。いつもその上に置く鍵の隣に、郁子は赤いことりをそっと飾った。
暗い部屋が、ほんのり色づいて明るくなった気がした。