表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/18

母娘

 とぼとぼと足を引きずるように、郁子は帰宅する。

 お腹が空いていた。

 初日に「仕事もろくにしないで一人前に休憩もらおうなんてあつかましい」と言われてから、郁子に昼休憩の時間は与えられていない。

 銀行へ両替に出たときに、コンビニでクッキーバーを買って歩きながら食べることもあるが、今日は朝にロールパンと紅茶を口にしただけだった。

 給料は八万。一日約十時間、ひと月に二八日ほど働いてそれだけ。時給に換算すれば四百円にも満たない。おかしいとは思いはするものの、郁子にはそれを訴える先も思いつかないし、そんな余力もない。内向的すぎる郁子には相談する友達もいない。

 アパートの家賃五万、食費、生活費、水道光熱費。必要経費を払ってしまえば、毎月いくばくも残らない生活。

 郁子がどれだけ辞めたいと訴えても、ハナエはそれを許さない。

 祖母の葬儀代、引っ越しの費用、アパートの保証人。いろいろなことで縛りつけられ、ねちねちとその費用を返せとか、恩知らずとかののしられているうちに、郁子の気力はすっかり失せていた。

 エントランスの郵便受けの前を通り、薄暗いモルタルの階段をのぼる。冷えた空気の中に、おだしの匂いが混ざっている。

 郁子はきゅるきゅる鳴るお腹をなでながら、冷凍のご飯でおじやでも炊こうかと思う。揚げ玉を入れれば、ボリュームが出る。

「あら、おかえりなさい」

 不意に朗らかな声がかけられた。一階と二階の踊り場。郁子より年上、三十代半ばくらいのふっくらした頬が優しげな女性がいた。

 どこかで会った気もするが、アパートの住人だろうか。

「おかえりなさい」

 彼女の足につかまる幼稚園くらいの女の子が、甲高い声で繰り返した。この子もにこにこ笑っている。

 おかえりと言われたのだから、返す言葉は一つしかない。

「……た、ただいま?」

 郁子は口ごもりながら、小さな声で言った。ずいぶん長いこと言ったおぼえがなくて、なにか気恥ずかしかった。

 女の子はとことこと歩みよると、はいっと赤いものをくれた。

「ことりさん、あげる」

「あ、ありがとう」

 戸惑いながら受け取ったそれは、折り紙だった。

 ことりだ。頭が白くて胴が赤い、インコのような形をしている。

 郁子にプレゼントを渡した女の子は、母親に手を引かれ階下へと降りていく。途中ふりかえり、バイバイと手をふる。母親もにこにこ笑って郁子に頭をさげる。

 ぎこちなく女の子に手をふり返し、二人と別れた郁子は部屋へと帰った。

 バッグから取り出した鍵で、ドアを開けた。ドアノブが冷たい。

 手探りで台所の明かりをともす。

 畳一帖より狭い玄関に、カラーボックスが靴箱代わりにおいてある。いつもその上に置く鍵の隣に、郁子は赤いことりをそっと飾った。

 暗い部屋が、ほんのり色づいて明るくなった気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ