仕事
駅前通りを少し過ぎたあたりに、レトロな外観の喫茶店「夏薔薇の詩」がある。
三年前に店主が亡くなり、現在はその妻が経営している。店は不定休、朝八時半から夜七時まで。店内はカウンターに五席、テーブルが三席。小ぢんまりとしているが、狭苦しさはない。ワンコインのモーニングとランチが目玉の店で、そこが郁子の仕事先だった。
朝七時半に出勤すると、床にモップをかけ、テーブルとカウンターを拭きあげる。
八時になると、近所のサイトウベーカリーから届く、トーストとサンドイッチ用にスライスされた食パンをうけとり、なべに湯を沸かして卵をゆでながら、缶詰の桃やパインを一口大に切ってタッパーに詰めて冷蔵庫に入れる。
このあたりで八時半になり、店は開店する。
モーニングを食べに常連客がすぐにやってくるので、トーストを焼き、コーヒーを淹れ、前日に作りおいたコールスローとゆで卵をそえてだす。
受注・給仕・会計・片付け・皿洗い。客は少ないが、一人でこなすには仕事は多い。
客がひいてからやっとモーニング終了の十時になったと気づくころ、オーナーのハナエが出勤してくる。
カウンターでのんびりとコーヒーを飲んでいる常連に愛想よく声をかけながら、カウンター裏のパントリーに着替えに行く。
中では郁子がこちらに背を向け、棚からトマト缶をおろしている。気づき振り向こうとするよりハナエの方が早かった。
「表、掃いてなかったわよ。いますぐやってちょうだい」
肩甲骨の間に肘を打ちこまれ、痛みにあえいでる郁子に、ハナエはエプロンをつけながら冷ややかに言った。
「お皿もたまってるじゃない。本当にグズね、使えないったらないわ」
「……す、すみません」
頭を下げる郁子の足を踏んでから、ハナエは店へと出ていく。明るい笑い声のまざる客とハナエのやりとりが聞こえる。
トマト缶が荒れた指先に冷たく、重い。郁子はため息をついて、気を取り直すように少し目を閉じてから、カウンターに戻った。
ハナエに言いつけられた仕事をこなしながら、ランチの準備も進めていく。
ランチは十一時から。近くの会社員が多く訪れるため、平日だけフロアに学生バイトの丸山茉鈴が入る。
郁子はパスタをゆでたりサラダを用意し、ハナエがメインの調理を担当する。
目の回る忙しさの中でも、ハナエは郁子を小突きまわしている。小声であり客には聞こえていないが、茉鈴にはちゃんと聞こえている。
「手際が悪いのは頭が悪いからなの」とか「うっとしい顔してんじゃないわよ」とか。
泣きそうになっている郁子はかわいそうだが、とりあえず自分に火の粉がふりかかることはないので、茉鈴は知らないふりをしている。三時間、耳をふさいでとにかく働く。
ランチが終わって茉鈴が帰り、午後を過ぎれば、ちょっと休憩とコーヒーを飲みに来る人がちらほらと来るぐらいで、店はいっきに暇になる。
ハナエは常連とのおしゃべりにいそしむ。
郁子は、皿洗い、表の掃除、窓ガラス拭き、日によっては銀行への両替と、息をつく暇もない。ほんの一分でも休んでいれば、ハナエから叱責がとんでくる。
閉店時間になると、レジを締めてハナエは一足先に帰宅する。いやみはあっても、おつかれの一言はない。
細細とした片付けと、コールスローのキャベツを刻み、ぐったりした郁子が店を出るのは、いつも夜九時を過ぎるころだった。