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無力

 丸丸と大きなキャベツを半分に切る。業務用スライサーにセットし、横のハンドルと回すと、しゃりしゃりと千切りになっていく。

 最近、歯の切れ味が悪い。しかしハナエに言えば、手でするはめになるのは目に見えているので、郁子は力をこめてハンドルを回し続けた。

 いつもどおりせわしない。毎日くたくたに疲れているが、今はそれがありがたい。

 一週間前の夜から、すーちゃんにはあっていなかった。

 階段でのお出迎えもないが、それでも怖くて、郁子は部屋まで走って帰る。

 すーちゃんは、あの両親は、なんなのだろう。

 鍵のかかった部屋へ自由に出入りできる、モノ(・・)

 残された折り紙は捨てるのも怖いし、置いておくのはもっと怖い。ビニール袋を三重にした中にいれて、ベランダの洗濯機の後ろに隠した。

 一玉分が終わり、ボールいっぱいの千切りができた。塩を振り、郁子は次のキャベツを手に取る。

 モーニングに出すコールスローのキャベツは、三玉作らないといけない。作業は単調だが、とにかく時間がかかる。

 無心でハンドルを回していると、店のドアが開いた。

 Closeの札がさげてあるのに、かまわず入ってきたのは浩二だった。

 なにやらご機嫌だ。

「オーナーはもう帰りました、けど」

「知ってるよ。そんなことよりさ」

 手を止めず、目をそらしてうつむいた郁子が言うのを、浩二はさえぎる。カウターにひじをつき、へらっと笑った。

「パチスロで勝ってさ。なんと二十万だぜ。なんかうまいもん食わせてやるから来いよ」

「いい、です……いかない……」

「じゃ、なんか買ってやるよ。お前いつも同じ服、着てるだろ」

「いい、です……いらない……」

 かたくなに拒む郁子に、浩二はあからさまに気分を害した。きこえよがしの舌打ちに、びくりと肩がすくむ。

 ぎこちなく作業を続ける郁子を、粘っこい視線でにらみつけていた浩二は手をのばし、彼女が使っていた包丁を、おもむろにとりあげた。

 刃先を向けたまま、カウンターの中へ入りこむ。

 驚いてこわばった顔で逃げようとして、足がもつれた。その場にすとんと尻をついた郁子の腹にまたがり、浩二は左手だけでその細い首を絞めあげる。

「暴れたら殺すぞ」

 息の苦しさに、耳の横の刃物の鈍い光に、郁子は懸命にうなずいた。

 肩を押され、床に後頭部をしたたかに打ち付け、つかのま意識が遠のく。

 包丁を投げ捨てて浩二は郁子の頭を両手でわしづかむと、その顔を嘗め回した。

 生臭くなまぬるい、泥沼からあがった蛭のようなものが、郁子の薄いまぶたの上を、鼻の穴を、荒れた唇を、蹂躙していく。

 必死で息を止め、郁子は耐えた。

 痛い。

 怖い。

 誰か助けて。

 チュニックシャツの上から胸をつかまれ、力任せにこねられる。

 寒い。

 気持ち悪い。

 蛭は郁子のむきだしの腹を這いまわっている。

 涙ぐみかすんだ視界のすみ。ドア脇のカウンター席に人影を見つけた。

 ずいぶん小さな、その人影は――

「……すーちゃん?」

 助けて。

 お願い助けて。

 震えながら伸ばした郁子の手から、逃げるように人影はすっと立ち上がり、音もなくドアを開けて離れ去る。

 なぜどうして助けてくれないの。

 裏切られた思いにさらに涙があふれたとき、パントリーから音がした。

 缶詰らしきものが床に落ちて弾んで転がり、がざがざと軽くかさばるものが大量に崩れる音。

 ぎょっとした浩二が、冷蔵庫の向こうをにらんで動きを止めた。

 続けざまに、どんと壁を打つ音が低く響く。

「なんだ? 地震か」

 浩二が脱ぎかけたカーゴパンツを引き上げながら、きょときょととあたりを見回す。

 どん・どん・どん・どん……横揺れに似た不快な振動は数度続き、そしてしんと静まりかえった。

「あー、なんか萎えた」

 舌打ちしながら起き上がり、浩二は横の冷蔵庫を開けると スモークサーモン1パックを拝借して出ていく。床に転がったままの郁子は一瞥もしなかった。

 ドアが閉まり、車が遠ざかるまで、郁子は天井を見上げたままで泣いていた。

 こみ上げてきた吐き気によたよたと這い、シンクへすがりついた。水を頭からかぶり、胃液を吐く。

「もう……やだ……もう……やだ、ぜんぶ、いや……」

 弱弱しい郁子の忍び音は、聞く人もいないまま、水音にのみこまれていった。

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