風邪
みかんヨーグルトとスポーツドリンクを手に、郁子はドラッグストアのレジに並ぶ。風邪薬も買いたかったが、高価であきらめた。
閉店まで仕事はやり遂げた郁子は、もう限界ぎりぎりだった。数歩歩くだけで、息が上がり、寒気がしてしょうがない。
いつもの倍の時間をかけ、よろよろとアパートに帰り着く。すーちゃんにもらった、赤いことりと青いアサガオを飾ったカラーボックスに鍵を置き、なんとかドアをロックする。
電気もつけずにその場にへたりこみ、とりあえず水分をとろうとペットボトルを開けようとするが力が入らない。もうどうでもよくなって、郁子はそのまま這うようにして敷きっぱなしの布団にもぐりこんだ。
堕ちるように眠り、ふと目がさめた。
電気がついている。消し忘れただろうか。だが、起きたのはそれが原因ではない。
人の気配がする。
重だるい頭を動かすと、誰かが枕元に座っていた。
すーちゃんのお母さんだ。
向こうのローテーブルには、すーちゃんとお父さんまでいる。
玄関の鍵もかけ忘れたのだろうか。それで訪ねてきたけど、返事がないのでお邪魔してくつろいでいます、とか。意味がわからない。
「あら、起きちゃった?」
つと顔をこちらに向けたお母さんがのんびりと言い、起き上がろうとする郁子の肩を止めた。
「まだ、お熱があるわね。いいから寝てなさい」
「急に寒くなったし、お姉ちゃんは朝早くから仕事がんばってるから、疲れもあるんだろ。ゆっくり休んで、早く元気になろうな」
「お姉ちゃん、おかぜ、だいじょうぶ?」
汗ばんだ頬をなでる冷やっこい手とかけられる言葉の優しさに、郁子の胸がつまる。
「気持ちがタルンデル証拠だ」とか「ダラシナイ生活をしているから」と亡くなった祖母は、風邪っぴきの郁子を叱るだけだった。薬と水と冷えて固まったかゆを枕辺に、いつも一人で寝かされていた。寒くてさびしかった。
お母さんは郁子の布団をかけなおすと、とんとんと幼児を寝かしつけるようにやわやわとたたく。
そのリズムが心地よくて、どうしてここにいるのかという疑問も、なんだかどうでもよくなってしまった。
お母さんはにこにこ笑いながら、お父さんとすーちゃんを見ている。
郁子も横になったまま見やる。
二人はなにやら工作をしているようだ。にぎやかな笑い声が、熱でぼんやりする頭に心地よくしみいる。
「パパ、ここ切って――あー切りすぎ。ママ、お姉ちゃん、見て。とれちゃった」
「ごめん、すーちゃん、ごめんね」
あわてたお父さんが一生懸命謝っているが、むくれるすーちゃんの機嫌はななめのままだ。
「これ、パパがチョッキンしちゃったの」
とてとてとすーちゃんが三角に折った緑の折り紙を見せに来る。
「パパ、ぶきっちょさんだもんね」
お母さんに笑われて、お父さんは照れたように首の後ろをかいている。
郁子は手を伸ばして、すーちゃんの頭をなぜた。細い髪のさらりとした冷たさが、指にからまる。
「次はじょうずにできるよ」
「うん」
にっこりとすーちゃんは、ほんとうに楽しそうに笑う。
その笑顔をかわいいなと思いながら、郁子はまたうつらううつらし始める。とんとん、と刻まれるリズムと楽しそうな声のぬくもりに包まれ、目を閉じた。
気づけば、もう朝だった。
熱はさがったようで、だるさはもうない。
あたりまえだが、部屋には誰もいない。
いくらなんでも深夜に、さして親しくもないよその家に上がり込むなんて非常識がすぎる。風邪で気持ちが弱って人恋しさのあまり夢をみたようだ。
でもこの前と違って楽しい夢だったと、思い出し笑いながら郁子は起き上がる。ぬくもっていた身体が、すっと一瞬で冷えた。
ローテーブルの上。
昨夜、すーちゃんとお父さんは二人で作っていた、もの。
星のついたクリスマスツリー。サンタにトナカイ、小さな箱はプレゼントだろうか。
小さな折り紙の彩りたちは、賑賑しくテーブルを飾っていた。
もつれる足で確認した玄関ドアには、鍵がかかっていた。
鍵は、いつもの場所にちゃんと置いてある。
冷蔵庫を開ける。タッパーにしまった証書など貴重品と一緒に、合鍵もちゃんとそこにあった。
あの三人は、どこから入って、どうやって帰って行ったのだろう。
そういえば入居の時、不動産屋の営業マンが言っていた。
ここは、ワンルームの単身者専用アパート。
熱は下がったはずなのに、ぞくりとした悪寒に郁子は鳥肌を立てた。




