三人
さびしくて悲しい夢の残滓が根を張るように、郁子の身体の芯はあの夜から冷えたまま、けだるい日が続いていた。
今日はとくにひどく、動くとひじや手首に疼痛が走る。熱が出ているのかもしれない。
ハナエに訴えるだけ無駄だとわかっているから黙々と働く郁子の不調に、出勤してきた茉鈴はすぐに気づいた。
いつもより格段に動きが鈍いし顔色も悪い。
茉鈴にとって郁子は同じ教室にいても名前と顔を知っているだけのクラスメートのようなものだった。それでも辛そうな様子をみていれば、ほうっておけない。
「郁子さん、カゼですか?」
こっそりとささやけば、かすれた声で「ごめんなさい、平気です」予想どおりの答えがかえってくる。
「オーナー、あたし昼から郁子さんと、仕事代わりましょうか」
今日は午後から大学の講義はない。どうせ反対されるだろうと予想はつくものの、とりあえず言ってみた茉鈴に、ハナエはあっさりと「いいわよ」とうなずいた。
驚いた。が、次の言葉に二人はさらに驚く。
「でもお給料はださないわよ」
二人の顔をねめまわし、ハナエは言う。
「あたりまえでしょ。丸山さんは二時までなんだし、郁子は閉店まで。かってに時間外働きたい、かってに休みたいなんて、あんたたちのわがままなんだから」
つんと二重顎をそらしてハナエは言いすてる。抑えきれない苛立ちに茉鈴がくってかかろうとするのを郁子は止めた。
「丸山さん、いいよ。私は大丈夫だから。すみませんでした。いつもどおり働きます」
郁子のこの低姿勢が見ていてイラつく。
「あっそ。じゃ、ちゃっちゃと働いて」
ランチ客が席をうめていく。茉鈴は収まらない怒りを飲み込み、なんとか愛想笑いをうかべて定時まで働いた。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
帰りしな、茉鈴とあいさつをかわしながら、後片付けにおわれる郁子の頬は不自然に赤くなっていた。熱があがっているのだろう。
ハナエは常連客と話しこんでこちらを見ようともしない。
腹が立つ。辞めたいが、次のバイトを紹介しないとだめだと言われている。かってに辞めれば、訴えるとまで言われた。ハナエならやりかねない。かといって仲のいい子を紹介するには、気が咎める。
あまり親しくなくて、それでいて断れないような子。どこか適当なサークルに一時的に入って、適当な子を探そうかと茉鈴は思う。
店のドアを開け、意外な寒さに足が止まった。
もう十二月になる。雪が降りだすのも、もうまもなくだろう。
曇天を見上げ、ふと気づいた。
街路樹の影に立ち、店をみている人たちがいる。
眼鏡の男と、普通のおばさん。二人の間に、小さな女の子。
なにしているのだろう。店に用なら入ればいいのに。
ちらりとそちらに目をやり、すぐに興味をなくした。背を向けて歩きだしながら、携帯電話をとりだそうとして、茉鈴はバッグの中に鎮痛剤を見つけた。
先月きつくて買ったまま、入れっぱなしにしていたものだ。すっかり忘れていた。
郁子にあげればよかったと紙箱を握って店のほうを振り向き、えっとつぶやいて固まる。
誰もいなかった。街路樹の影にも、歩いている人も、誰も。
通行車両すらない、うそ寒さをおぼえる、がらんとした街並み。
茉鈴の手の中で、紙箱がくしゃりとつぶれた。




