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結局、真昼は次の日の神和ぎの里への訪問にまで同行させられる羽目になった。
舟はアユの里のものを出したが、北の砦の者の乗る舟の漕ぎ手は、帝国の男が担っている。
イギョンがアユの里を訪れた次の日の早朝、真昼は父の乗った小舟を漕いでいた。
夏が過ぎ、秋を迎えようとする川べりには蒲の穂がゆれる。
真昼は母への土産に蒲の穂を採りたいと思ったが、寄り道をするわけにもいかない。
冷たさの混じる秋の光に、トンボがすいすいと群れをなして泳いでいく。
小舟の先に立って櫂を操りながら、真昼は水面に反射する光に目を細めた。
「真昼。良く聞け」
ささやくような父の声がした。
真昼は振り返って父を見たが、父は腕組みをし、うつむいたままの姿勢で、こちらを見てはいない。
「これから、千龍の郷は朱の帝国に飲み込まれていく……」
「父さん?」
思わず聞き返した真昼に、飛沫はすぐには答えなかった。真昼があたりを伺うと、イギョンをのせた小舟はだいぶ後ろからついてくる。
「俺は里長として、なるべくアユの里が、そして千龍の郷と民が、血を流すようなことは避けたいと願うのだが……」
「ちょっと待て、だってさ、チェインは山吹と結婚したいんだろう? 戦いをしたいわけじゃないだろう?」
「北の守護が帝国でどのような地位にあるのかはわからないが、二人が結婚したとなれば、少なくとも帝国との間に何らかのつながりは出来る。もしも、チェインと山吹の間に子が出来れば、その子は千龍の子でもあり、帝国の子でもある。帝国の中枢にもしかすると、千龍の子がかかわるかも知れん。だが逆に、帝国は千龍の親戚として干渉を強めるかもしれん。千龍が望まぬ戦いに、朱の帝国と共に出向かねばならないことだとてあるやもしれないぞ」
「父さん待って!」
真昼は漕ぐ手を止めた。飛沫は小さく首を振って、漕ぎ続けろと、指示を出す。真昼はあわてて前を向きつぶやく。
「かーっ! 面倒くさいな。もう、山吹を嫁にって話はさあ……、なしじゃだめなのか?」
「真昼……。その話を蹴ったがために、帝国が千龍に進軍したらなんとする?」
「まっさかー」
そう振り返った真昼を飛沫は黙って見つめた。
真昼はその沈黙がいたたまれなくなる。
舳先にトンボが一匹つい、ととまった。秋の日差しは明るく、そして冷たい。
「ええっと……」
きいっ、きいっっと、一定のリズムで真昼の漕ぐ櫂の音がした。
「それって、あり得るのか?」
「それが帝国よ」
飛沫が低い声で答えた。
――――それが、帝国よ。
真昼の耳奥に、父の声がこびりついて離れない。
滑らかな水面にゆるりと広がっていく波紋には、だれも気付かない。
神和ぎの里にて、到着した飛沫は、客人を待たせながら神主と真昼の三人だけでの会談を所望した。
朱の帝国からの客人を千龍の郷随一の規模を持つ神殿の中でもてなす間、神主とアユの里長とその後継である真昼は、小さく粗末な敷石の住居にて頭を突き合わせていた。
神主は「北の砦の守護が山吹を嫁に望んでいる」との報にも全く驚いた様子は見せなかった。
神主は白髪を首のあたりで一つにくくり、だぼっとした貫頭衣に勾玉をジャラジャラと首に下げて。敷石の上に直に座りこみ、薬草をすりつぶしていた。
「里長よ」
ゴリゴリとすりこ木で薬草をすりつぶしていた神主が、手を止めた。
「山吹は、神和ぎの里に入る」
「それでこの婚儀をかわせるとは思われませんが」
飛沫が首を傾げる。
「いやいや、そうではないわ」
神主はすりこ木やら薬草をのせた石を脇へとよけ、顔をあげた。
「アユの里から山吹が朱へ嫁ぐのと、神子の子として嫁ぐのとではわけがちがおう、と言っておる」
飛沫は得心の言った顔で頷いたが、真昼はきょろきょろと神主と父親を交互に見る。
「山吹は、神和ぎになるのか? 神和ぎ為りをまたやるのか?」
「いや、真昼。山吹は神和ぎにはならんよ」
飛沫が言う。
「山吹はね、わしの子になるのさ」
神主が、楽しそうに声を張り上げた。
「なん……で? 結婚の話からどうしてそうなるんだ?」
飛沫がため息をつく。
神主は首を振った。
「わ、わっかんねえもんは、しょーがねえじゃんか」
真昼が胡坐をかいた膝の上を叩き顔を赤らめた。
「いいかい? 真昼。おまえさんも仮にも千龍随一の里、アユの長にいつかはなろうって身なんだ。しゃべってばっかりいないで、その目と、耳と、頭をお使い」
神主の言葉に真昼はしおれる。
「真昼、神和ぎの里とはどういう里だ」
飛沫が真昼に問う。
「それぞれの里の、神和ぎたちが集まる場所。精霊のツゲを聞き、千龍を導く」
「そうだ。神和ぎの里はだから、どの里にも属さないし、どの里とも繋がりがある。では、お前は朱の帝国をどう思う」
「……」
真昼は怒ったような顔をしてぷい、と横を向いてしまった。
「真昼、人の悪口は言わない。それはお前の美点だがね、人の上に立つにはそれじゃあいけないよ。人のいい面も悪い面も見抜けなくてはね」
神主はそう言うと、じっと真昼を見つめる。
「……みんなきれいな顔して、きれいなカッコして、馬やら鉄やら便利そうなもん使ってる。うまいもんも食ってるみたいだし。でも、えばってんのはチェインやらイギョンやらで、後の奴は使われてるやつらだ。俺だって、父さんはすげえと思うし、言うこと聞くけど、それとは違う気がする」
「ほお、よく見てるじゃないかい」
神主はにんまりと笑った。真昼はやはりどこか馬鹿にされているような気がしてしまう。
「では、その朱の帝国をお前以外の者はどう思うか? また、朱の帝国はこの千龍をどう思っているのか? 今度はそこまで考えてみるのだな」
飛沫に言われて、真昼は頭を抱える。
「俺の思ってることはわかるけどさ、他人の事なんてわかんねえ……」
「それは大事なことだ。もちろんわからない。だから想像する。いいか、その時大切なのは、自分の推測と、事実を混同しないことだ」
追い打ちをかける飛沫の教えは、真昼には言葉の意味すらわからなかった。
「さて、と」
神主が重い腰をあげようとするのを、飛沫が立ち上がって手を貸す。
「ああ、ありがとう。アユの……。それでは帝国との会談に臨むとするかね?」
飛沫に手を貸されて、神主は小さな敷石住居から出ていく。
だが出入り口で振り返ると「おまえには一つ仕事を頼むとするか……」と真昼に声をかける。
真昼は抱えていた頭から手を離し、神和ぎを見上げた。
「この婚儀についてはまだ誰にも言っちゃあいけないよ。朝霧にだけこっそりと教えておいで。そして、朝霧に、精霊に申し上げをするように伝えておくれ」
「わかった!」
皆と一緒に朱の帝国との会談に参加しなくてもいいと知り、途端に元気になった真昼の返事に、神和ぎは皺を深くして笑った。
※
朝霧は精霊の森の中を歩いていた。
保澄を探し出し、申し上げをしなくてはならない。
「ツゲ」とは精霊からいただくもので「申し上げ」とは人間が精霊に郷で起こっていることを包み隠さず伝えることだ。
無事に神和ぎとなった朝霧は、一度もアユの里へは帰っていない。ただ、年に一度の秋の祭りには里へ帰ることが許されるから、それまでの辛抱だと思っていた。そうしたらほんの数日でも、父や母、兄の真昼、双子の姉の山吹と過ごせる。それを楽しみにしていたというのに……。
どうしてこうも、立て続けに事が起きるのだろう?
山吹が結婚?
真昼からその話を聞いたときは、何の冗談なのかと思った。
男の子に混じって狩に出かけることが大好きな姉なのだ。
結婚なんて言葉からは一番遠いところにいると思っていた。
そんなことを考えながら、森を歩いていたら、小雨が降り出していた。
明るい日がさしているのにぱらぱらと降り出した雨。
朝霧が目を閉じ神経を集中すると、右手の木々の奥からわずかな気配がした。