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嵐が過ぎ去って、数日が経った頃、千龍の郷には朱の帝国、北の砦からの使者がやって来た。
先頭に立つのは、北の砦の守護チェインの兄であり、後見でもあるイギョンだった。
馬上のイギョンの後ろに、荷を曳いた馬が数頭と、二十名ほどの徒歩の男たちが列をなして付き従う。男たちは皆肩に何やら重そうな荷を背負っていた。
馬上のイギョンは髪を耳の前に一房だけ残し、それ以外をきりりと結い上げていた。
真っ白な立ち襟の上衣は長そでながら、ゆとりのある軽やかな生地をしており、涼しげだった。その上に薄い絹の肩掛けを、左の肩にかけ、腰の帯に差し込んでとめている。下履きは幅がたっぷりとしているが、裾はきゅっと締まった袴のようなもので、朱の帝国での正装だった。
その行列がやって来るのを見つけた千龍の郷、アユの里長の息子真昼は、あまりにも物々しい行列に、ぽかんと立ち尽くしていた。
馬に乗ったイギョンが目の前まで来たときに、ようやく正気に返ったように何やら口の中でもごもごと呟く。
そこへ、馬上からイギョンが柔らかな声をかけた。
「飛沫殿にお目通りかなうだろうか? 本日は先日の嵐についての礼と、いささかお願いがあってこちらに赴いたのだが……」
声をかけながら、軽やかに馬から降りる。
銀色に輝いているようにすら見える肌。日に焼けて褐色になったのとは違う滑らかな黒繻子の肌。その美しい肌の上できれいに弧を描くくちびる。耳の前に残された一房の髪の毛がゆるくうねる様。イギョンは真昼の知るどの女たちよりも美しく見えた。
真昼はわけもなく右の腕でぐいっと口元をぬぐうと、背筋を伸ばした。
「ここで待っててくれ、俺、父上に伝えてくる」
そう言うと、走って父のいる屋敷へと向かった。
里長である真昼の父の飛沫は、先ぶれにより、近々北の砦からの使者が訪れることはすでに承知していた
真昼からイギョンの来訪を聞くと、妻の初雪に屋敷に案内するようにとこと付け、自分自身は正装に着替えるため、屋敷奥の間に入る。
真昼も、客人をもてなすために同席するようにと里長である父に指示され、顔色をなくした。
「俺、やだ!」
今まで一度だって袖を通したことのない服を山吹に手伝ってもらって身につけながら真昼はそう言った。
「ちょっと、動かないでよ。それに、私に言ったってしょうがないよ」
言われなくても、そんなことは真昼も分かっている。
父に嫌だということが出来ないから、妹の山吹に文句を言っているのだ。そのくらいのことを許してくれてもいいではないか、と思う。
正装とはいっても、幅の広い前開きの直線的な服を肩から掛けて前で合わせ、帯で締めるという簡単なものだ。ただ、普段は身につけない袴をその下に着けなければならない。
もちろん冬ともなれば暖かな毛皮で出来た下穿きを身に着けるのだが、今の時期にそのようなものをつけたことなど、真昼は一度もない。
「げえ、気持ちわりい!!」
股の間のごわごわとした布の感触が気持ち悪いらしく、真昼は少し蟹股になって歩いている。
「ぶっ。ぶははははははは!」
その格好を見て、山吹が笑い転げる。
しかも、父の袴を借りたものだから、少々長い。
「真昼、踏まないようにまくってあげようか?」
山吹は笑いすぎて滲んだ涙をぬぐっていた。
「なんで俺まで同席するんかね……」
肩に落ちていたザンバラな髪の毛を山吹がぎゅうっと引っ張り、紐で一つに縛りあげる。
「いでいでいで。いでっての、この!」
二人で笑ったり怒ったりしながら用意をしているところへ、母の初雪がやって来た。父親である飛沫はすでに支度を終え、イギョンを迎えに出ている。
「真昼、準備は出来ましたか?」
「ふぁーい」
気の抜けた返事をする息子に母である初雪はきつい視線を投げる。
「さ、では裏の間へお行きなさい。山吹は膳を運びに行ってちょうだい。今日は後見様はこちらにお泊りだそうよ」
そう言うと、初雪はさっさと出て行ってしまった。
お客人をもてなすためにも使われる里長の屋敷の裏に離れのように立つ裏の間。
里長の屋敷との間にある中庭に面する板戸はすべて開け放たれていて、明るい光が部屋の奥まで差し込んでいる。
客人をもてなす間と言っても、飾り一つあるわけでもない、簡素な高床の小さな住居だ。ただ、人目につきたくないような話や、ゆっくりとしたい時などにこちらの離れに客人を通す。
中庭を彩る木々や花々が目を楽しませてくれる。
対峙する父親と、北の砦の守護チェインの兄であり、後見でもあるイギョンを上目づかいに盗み見ながら、真昼は目の前の茶に手を伸ばして啜ってみた。
ずずっ。
思った以上に大きい音がして、びっくりして、すぐに茶碗から手を離す。
飛沫とイギョンはそんな真昼を全く気にしていないようで。薄い笑を浮かべながら、あいさつを交わしている。
真昼も、いつかは飛沫を継いで里長になるわけだが、自分が父親のようになれるとは思えない。
真昼は、思ったことをすぐに口に出さないではいられない性質だが、飛沫は違う。
真昼は誰にでも正直な心を見せたいと願っているし、そうあろうと思っている。けれども、父についてはどうもよくわからないと思う。
決して嫌いではない。父のことを腹黒いとは思わない。むしろ尊敬しているのだが、飛沫の懐の深さに得体の知れなさを感じるとでもいうのだろうか。里長であるという事がそういう事だというのなら、自分にはまだまだ勤まりそうもないと思う。
真昼がそんなことを考えている間にも、会見は進む。
先日の、嵐のツゲについて、お礼の品を持参したこと。神和ぎの里へも礼に向かうこと。今宵一晩里に逗留すること。また、それについての礼……。
真昼はため息をつきたくなる。
だいたい、このような話は、北の砦からの先触れにより、わかりきっていることだったからだ。
父とイギョンが話すのを、ただ胡坐をかいて座り、黙って聞いていた真昼だったが、最後に発せられたイギョンのひとことに「はぁぁ?」と、素っ頓狂な声をあげてしまった。
父の飛沫が、チロリと横目でにらんでくる。
「ちょちょちょ……ちょい待ち! 結婚!? 山吹が!? あれまだ月のもんも来てねえ……いって!」
ごちんと、真昼の頭頂部が父の鉄拳を受けて音を立てた。
「後見殿、大変失礼いたしました。守護のチェイン殿が、山吹を嫁にと申されますか?」
チェインはほっそりとした顎に笑みをのせながら真昼を見、また、飛沫に視線を戻す。
「ええ、弟は山吹殿の真っ直ぐなお心に惹かれたようです。また、これから北の砦の守護として、千龍との友好のあかしとしても、この婚姻は意味のあるものではないかと思うのですが」
真昼が父の様子を観察する限り、飛沫もまたこの申し出については、多少不意打ちだったようだ。
めずらしく、腕を組み、首を傾げながら考えている。
「なあ、イギョン様? 朱の帝国ではどうだか知らないけど、千龍では月のもんのこない女は結婚する資格はないんだぞ?」
「そうですか……。しかし、朱の帝国では、生まれた時から結婚の相手が決まっているという事も珍しくはありませんよ? 許嫁というのです」
「いいなずけ」
なんだそれ?
真昼は心の中で毒づいた。
千龍の郷の若者たちは求婚の儀には、大きな憧れと期待を持っている。女ならなおさらだ。
冬を迎える前の祭りにおいて行われる求婚の儀。
月のものが訪れた意中の女を郷の男どもが口説き、その返事として、受け入れる男に女たちは手作りの花冠を送る。未婚の若者たちが、その持ち回りとなる里に集まり行われる祭りだ
これはもう、郷に暮らす者にとっては、一生に一度の一大行事と言ってよい。
山吹だって一応女なのだから、それに淡い憧れを持っているはずだ。
「山吹が、なんていうかな?」
真昼がそう言うのに、イギョンは目を大きく開いてみせながら、首を傾げる。
「だってさ、山吹の知らないところでこんな話してるなんて知ったら!」
ぶるるるる、と、真昼は震えるふりをして、自分の腕を抱くようにした。
「千龍の郷では、女子の意志が尊重されるのですか?」
今度は真昼が首を傾げる番だ。
「当たり前じゃんか。一生で一度、女が自分の意見を通せる場なんだぞ? 男は一生懸命口説くけどさ、それを受けるかどうかは女が決めるんだ」
なるほどと言うように、イギョンは首を縦に振った。
「ですが飛沫殿」
イギョンは真昼から飛沫へと向き直り、姿勢を正した。
「これは、帝国と千龍の間の婚姻です。山吹殿とチェインの婚姻ではありません。もちろん今すぐというわけではありません。私たちの北の砦はいまだ建設途中。私たちは、幾人かを残し、冬の間は帝国の首都へ帰ることになります。正式に婚姻を結ぶのは三年ほど後になるかと思います。三年たてばチェインは十八になります。山吹殿は?」
「……十四」
真昼が答えた。
「なるほど」
そこで飛沫はようやく口を開いた。
「二国の間の婚姻とあらば、私の一存では決められません。明日、神和ぎの里には私も同行いたしましょう」
飛沫の言葉に真昼は「ええ!?」と、叫びそうになる口元を、慌てて両手でふさいだのだった。