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嵐が過ぎ去り、間もないある日のことだった。
チェインは兄のイギョンに呼び出された。
もちろん毎日のように顔は合わせているのだが、今回は改めての会見の要請だった。
砦の最奥の謁見の間。
一応守護であるチェインが上座に座っていた。大きな卓をはさんで向かい側に兄が座る。
人払いがされると、兄は椅子の肘掛けに体を預け、幾分くつろいだ様子になった。
「明日、アユの里に供の者を連れて今回の礼に向かおうと思うのだが……」
「兄上が……ですか?」
弟の問いにイギョンはうなずく。
「お前は崩れた峠の補修で忙しい身だろう? 秋が終わるまでに何とかしないとな。朱の帝国に帰れなくなってしまう」
イギョンはそう言ったが、アユの里なら日帰り、神和ぎの里へ赴いても二日で帰ってこれる距離だ。
礼に訪れるというのなら砦の守護である自分が赴いてもいいのではないかとチェインはいぶかしく思った。
「私もご一緒した方がよろしいのでは?」
と言ったら、イギョンは首を横に振る。
「今回のことで、精霊の力というものが本物だという事はわかった……そこでだ」
イギョンは口をつぐみ考えるように言いよどんだが、ふっと顔をあげると続きを口にした。
「お前、やはりあの娘を嫁に迎える気はないか?」
あまりにあっさりしたもの言いと、内容のずれに、チェインの思考は一時中断した。
「はい? 娘とは……」
それでもようやく言葉を押し出す。
兄の正面に座り、ピンと背筋を伸ばすチェインをイギョンは薄く笑いながら覗き込んだ。
「娘と言ったらアレしかいなかろう」
そう言いながらも、ついにその唇からたまりかねたように笑い声が漏れる。驚くチェインの様子を面白がっているようだ。
「お待ちください兄上!」
チェインが卓の上に身を乗り出した。
大きな卓に身を乗り出したところで、イギョンとの距離はまだ遠い。
「おや、お前もまんざらではないのかと思っていたのだが?」
「そう言う問題ではありません!」
今度は不思議そうな顔をする兄を、チェインは睨んだ。
「皇帝の許可も得ず、嫁をもらうなどと……!」
そう言いながらチェインは、頬が熱くなるのを感じた。
「もちろん」
イギョンがチェインの興奮をいさめるように手をあげる。
「正当な花嫁を迎えるとあらば、皇帝の許可もいるだろうが」
チェインはあんぐりと口を開けて、自分の兄を見た。
「妾や愛人をそばに置くのに皇帝の許可はいらないだろう?」
なんですって? と、問い詰めようとした言葉をチェインは呑み込む。
兄の本気を感じたからだ。
「兄上は、山吹を……妾として迎え入れろと言われるのですか?」
チェインの問いに、イギョンは笑顔のまま頷いた。
「ですが山吹はアユの里長の娘ですよ。そのような立場を受け入れるでしょうか?」
チェインは乗り出していた体を戻し、背もたれに軽く体を預ける。
「聞けば、千龍は基本一夫一婦制だと言うではないですか?」
そう問いただす弟を、イギョンは笑みをたたえたまま見つめている。
「まさか……」
まったく動揺を見せないイギョンにチェインが今度は蒼くなっていった。
「わざわざ妾だなどと言う必要はないだろう? なに、手に入れてしまえばこっちのものだ」
イギョンは両肘を卓の上につくと手を組みその上に顎をのせた。
「千龍の郷は美しい。幾筋も流れる川。点在する集落。小さいが純度の高い宝玉のようだな」
チェインはただ言葉を紡ぐ兄の唇を見つめる。
「そして人の心も美しい。疑いを知らぬ民。自然を受け入れ苦労を苦労とも思わぬ民」
千龍の郷の様子を思い描いているのか兄はしばらく目を閉じた。
そして開いた眼が、有無を言わせぬ力を持って弟であるチェインを見据える。
「今、あの里を支配するのは精霊だ。それを取り払わねばならない。あの郷を支配するのは精霊では無く、帝国でなければならない」
「どう……やって?」
兄の気迫に押されながら、チェインは聞いた。
今の状態で千龍の郷が朱の帝国に敵意を持っているとは思えない。むしろ友好的だ。山吹を娶れと言うのだから、兄は戦を仕掛けるつもりはないに違いない。
「嫉妬だ。妬みだ。そして欲だ。あの郷に米を送った。次は鉄だ」
「まさかそれは……受け取らないでしょう?」
「もちろん、表向きはね。だが、個人的に贈られたものならどうだ? 誰か一人でも受け取ればどうなる?」
「私が山吹を娶れば、それを妬む里も出てくる。アユの里の後ろに強大な朱の帝国を見る」
弟のつぶやきに、イギョンは我が意を得たりというようにゆっくりと瞬きをする。
「そうすれば、他の里長は、それと同等な力を欲しいと考える。いま、千龍が平和なのは、精霊のもとで皆が平等だと感じているからだ」
「例えば鉄。例えば米。ああ、最近開発されたという寒さにも強い種もみを与えるというのも良いかもしれませんね。あれは、寒さには強いが栽培が少し難しい……」
イギョンがチェインの言葉を聞き、卓の上を叩いて喜んだ。
「精霊の力は確かだ。だが、嵐が来ることを教える精霊がいなくとも、嵐を御せる力があればよいのだ」
今や、チェインは兄の考えを完全に理解していた。
「わかりました。私は山吹に結婚を申し込みましょう」
チェインはしっかりと兄を見返した。
どう考えても、それ以外に道はないように思えたからだった。
「私が使者として赴こう。朱の帝国では結婚の申し込みは親族が行うものだ。たっぷりと貢物を用意してな」
首都を離れ、北の砦に赴いて一年の半分程が過ぎようとしていた。
この地に似つかわしくないほどのたおやかさで、イギョンは己の長い髪を掻き上げ立ち上がった。