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山吹はほの暗い洞穴の中でアユの里の者たちと身を寄せ合っていた。
この洞窟はかなり広い。
入口はそれほどでもないのだが、奥に行くと、千龍の郷の者が全員入ってもまだまだ余裕があるほどに広い。
今日までの間に、すのこを敷き、その上に筵をひき、生活しやすいように手を入れてあった。
明かりは小さなろうそくのみなのでとても暗いが、千龍のものは夜目がきく。耳もよい。ろうそくの炎があれば困るほどのことも無い。
山吹はその穴の中のすみで白点の足元に丸まっていた。
白点を洞に入れる際にも一悶着あったのだが、白点はアユの里にいる間に、子どもたちから絶大な人気を得ていた。
時折、こっそりと山吹が馬に乗せてやっていたのも、功を奏したらしい。
大人しく隅にいる事、糞尿の始末は山吹がすることという条件で、共に嵐から逃れてここにいる。
夕飯も、かたく焼いた木の実のお焼きだろうから、特に用意することも無い。
いつしか山吹は白点の足元でうとうとと眠りに落ちていた。
ほの暗い空間で、山吹は一人でいた。
どこだろう?
あちらこちら見回すが、ただ薄暗い空間が続くだけで何も見えない。
ふと、自分を見下ろす。
「はうっ!」
驚きのあまり、叫ぶ。
自分自身の体もないのだ。
感覚はある。
手を持ち上げて目の前にかざす。
だが、自分の手は見えない。
透明になってしまったようだ。
あわててかけだそうとして転ぶ。
そうやってもがいていると、どこかからか一陣の風が吹き付けた。
きつく目をつぶる。
次に目を開いたとき、山吹は激しい風にさらされる崖の下にいた。
崖の上からぱらぱらと土砂がこぼれ出している。
それを見上げる二人の朱の帝国風の男。
「危ないよ。早く逃げないと崩れるよ!」
山吹がいくら声をかけても男たちは気づかない。
ふと山吹は、これだけ激しい嵐の中にいながら、自分自身は雨の冷たさも、風の激しさも感じていないことに気付く。
そのことに驚いて、気がそれた時だった。土砂が、まるで水の流れのように落ちてきた。
山吹の目の前にいた男が押し流されていく。
あまりの恐ろしさに両手で口を押え、叫んだと思ったが、声にならない。
風雨を感じない山吹を突き抜けるように土砂は下って行った。
もう一人の男は、少し離れた場所を確認していて、無事だった。
山吹はあわててその男の元へ向かう。
「だめだよ、危ないよ。離れて」
取りすがろうとするが、手は男の体を素通りし、声は届かない。
「ねえ! ねえってば!」
もどかしさに涙が出てくる。
仲間が流され、呆然とした男は、土砂の方へと歩いて行ってしまう。
――――誰か! 助けて!
山吹がそう願った時「大丈夫か!」と、声がした。
山吹が振り返れば、そこにはチェインがいて、馬を近くの木につなぎとめながらこちらへとやって来る。
「ダメ。チェイン。来ちゃ……だめだ……」
来る。
来る。
山が、動く。
お願い。
逃げて!
どどどどどど。と、遠くから大きなものが蠢動するかのような音が聞こえる。
チェインと男が立ち上がり走り出す。
だが、先ほどの物よりも大きな流れは二人を飲み込もうとするはずだ。
崖上にあった、大きな岩石が跳ね飛ばされる。
男がチェインに覆いかぶさる。
チェインが男の腕の中から空を見上げる。
「チェイン様―――――!」
馬に乗り、駆け付けるイェンネイの声。
「避けろーーーーー!」
チェインの叫びに山吹とイェンネイも共に咆えた。まるでチェインの叫びに引き寄せられるような感覚だった。
チェインの外へ外へとあふれる力にイェンネイと山吹の気が寄り添いかたまりとなって土砂の奔流にぶつかっていく。
突然、土砂の流れが、その進路を変える。
「やった!!」
山吹が歓喜に拳を握った時、その空間から跳ね飛ばされた。
「はっ!」
ガクッと首が揺れて、山吹は目が覚める。
きょろきょろと辺りを見回したが、しんとした薄暗い空間に人々が座ったり横になったりしている。
先ほどと、何も変わらない光景が目の前にはあった。
(チェイン……)
山吹は心の中でつぶやきながら、またうとうとと、今度は本当の夢の中へと入っていった。
※
さすような光。
開け放たれた窓からはむっとした風が通り抜けていく。
目を覚ませと言うように、風に頬を撫でられて、チェインは意識を取り戻した。
ゆっくりと目を開くと、目の前にぼやけた輪郭が見える。次第にその人影が兄のイギョンであることに気付いた。
イギョンの後ろにはイェンネイの姿も見える。
「目が……覚めたのか……!」
イギョンが顔を近づけてチェインを覗き込んできた。
「兄……上?」
ぼんやりとした視線を兄に向けると、イギョンは大きいがしなやかな指で弟の前髪を掻き上げてやりながら、笑顔を見せた。
「丸2日、目を覚まさなかったのだぞ。心臓がつぶれるかと思った……」
「二日……も?」
イギョンは頷いた。
チェインが驚いて、窓の外に目を向けると、嵐の後のむっとした空気の中で濡れた木々が強い日差しにきらめいている。
「もう少し休め。疲れが出たのやもしれぬ。イェンネイ、後は任せる」
イギョンは部屋を出ていく前に、もう一度チェインの髪を手で梳いた。
イギョンがそばを離れると、イェンネイがすぐそばにやって来る。
真っ赤な顔をして、眼がうるうると見開かれている。
その顔を見ていたら、チェインはなぜか笑ってしまった。
「心配かけてしまったね」
そう言うと、イェンネイの目から涙がこぼれた。
「まったく……ですよ! わたしが、どんなに心配して……心細い思いをしたか、チェイン様には、わかっておいでに、なて、ない、でしょう!?」
泣きながら真っ赤な顔で怒っている。
チェインは苦笑しながら身を起こし、枕元に立つ自分の付き人をふわりと抱きしめてやった。
「あなたがいなくなったら、私は独りぼっちです」
「ユーリィ大導師がいるじゃないか」
イェンネイは顔をあげる。
もう、涙は止まっていた。
「ユーリィ大導師様はもう、引退なさっているじゃないですか。もちろん大切な方ですけれど。あの方は特別です」
くすくすとチェインは笑う。
「それにですね、チェイン様、あなたに何かあったら、わたしはユーリィ導師のもとにどんな顔で帰ればいいんです? わたしは大導師から、あなたの『祖の賜物』を制御するように言いつかってるのですよ。それを勝手に暴発させて、二日も正体不明になるとは……。ご自分の置かれている状態が……」
とめどなく流れ出る説教に、チェインはイェンネイの口を塞いだ。
手のひらをくっつきそうなほどの距離でイェンネイの口元の前に差し出されると、イェンネイはもごもごと、後の言葉を飲み込んだ。
「私の力のことは……?」
「いえ、皆に知れてはいませんよ?」
「イグルという男は?」
「彼も、そのようなことは言ってませんね。間一髪で幸運だったと報告してましたから」
そう話しながら、イェンネイは部屋の中央にあるテーブルの上に用意されていた甕から粥をひしゃくでよそう。
白湯と一緒に盆にのせ、チェインの元へと運ぶ。
「あのとき」
イェンネイは、チェインが匙で粥を掬うのを見ながら話し始めた。
「チェイン様が『祖の賜物』を発動された時。かすかにですが、山吹殿のマナを感じましたよ」
チェインはほんの少しの粥を口に含み、ゆっくりを嚥下する。
「……多分、千龍で言う神和ぎというものは、我が国の導師たちと同じような力を持つ者なんだろうな。神和ぎは精霊に傅き、導師は皇帝に傅く。私が持つような力はマナとは異質のものだ。祖の賜物。朱雀から受け継がれた忌むべき力……。兄上は、それに気付いて気づかぬふりをしているのか……?」
後半は、独白のようなつぶやきに消え、イェンネイにも聞き取ることは出来なかった。