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雨が降り出したころ、北の砦ではまだ混乱が続いていた。
精霊のツゲで知らされた崖の補強は間に合ったとはいい難く、特に帝国側の危険個所に心もとなさが残る。
精霊から示された、崖崩れの心配される場所は三か所。雨が降り始めたころ、それぞれ二名ずつが最後の点検に出かけた。
大粒の雨は次第に激しさを増していく。
砦の、館の入り口では男たちがあわただしく出入りをしている。砦の窓という窓に板を打ち付け、その作業の終わった者から館内に退避する。
館の入り口では、作業の終わったものが、手拭いで泥にまみれた足をぬぐっている。
崖の点検に出ていた者も、千龍側へと向かっていた二組が帰ってきた。
ざわめきを連れて、ずぶ濡れとなって息を切らせた男が四人その場に入ってくると、そこへちょうど館の奥から様子を見に来たチェインが通りかかる。
「どうであったか?」
「はっ」
砦の守護の顔を見て、男四人は土間にずぶ濡れのまま片膝をついた。
「千龍の郷へと通じる峠を見てまいりました。今のところ変化はないようです。
ですが、その先の峠は、山から落ちる水が滝のように道を塞いでおりました。それ以上進むことが出来ず、引き返した次第であります」
一番右の男が答えた。
チェインは少し表情を緩めると「そうか。大義であった、体を拭いて、着替えるがよい」と男たちに声をかける。
皆は今一度頭を垂れ、立ち上がった。
館入口では紙と筆を持ち、男たちの出入りを確認している番もいる。
チェインはその番人に尋ねる。
交代で見張りに立つ者のことを番、もしくは番人と呼ぶ。
「帝国側の崖の点検に行ったものは?」
番は紙をめくり「いえ、まだ帰っておりません」
と、告げる。
チェインの眉が曇った。
「千龍側よりも、そちらの方が近かったと思うのだが……」
戸口から外を伺うと、庇からはまるで滝のように水が流れ落ちている。
「私が行く……!」
そう言うが早いかチェインは雨の中へと飛び出していった。
「わわ! 若様。なりません! 誰かー!チェイン様をお止しろ!」
番人が筆を取り落して叫んだ。
幾人かまだ外にいるものもあったが、雨にかき消されて、番人の声は届かない。チェインの姿にも、彼らは気づくことはない。
「イギョン様とイェンネイ様に!」
番人が叫ぶよりも早く、土間で体を拭いていた一人の男が館の奥へと走っていった。
足は裸足で泥に汚れ、上半身は裸という姿の男がイギョンがいる奥の間に飛び込んできた。
イギョンは部屋の奥に用意された肘付き椅子にゆったりと腰かけていたが、あわただしい侵入者に目を向けた。
入ってきた男の勢いに、居合わせた付き人がわずかにイギョンの前に体を入れる。
イギョンの隣にはチェインが座するはずの椅子が空のまま置かれていた。どうも落ち着かないらしいチェインは、先ほど、様子を見てくると部屋を出て行ったばかりだ。
空いた椅子の脇には主の帰りを待つチェインの付き人であるイェンネイが立っていた。
「も……っ! 申し上げます」
全力で走ってきたのだろう。
ぜいぜいとした息でなかなか声にならない。
イェンネイはすかさず水注から器に水を注ぎ男に差し出した。
男は一度額の上にをれを揚げると、焦ったように口の端から幾筋か水を零しながらも一息に飲んだ。
左手で口をぬぐい右手でイェンネイに器を返す。
「帝国側の崖の様子を見に行ったものがいまだ帰還せず……っ! チェイン様がご自分で様子を見てくると馬で砦を出ていかれたました!」
肘掛けに片腕を預けていたイギョンの体がわずかに浮いた。
「なんだと!?」
びりりと、空間に緊張が走った。
その様子を見ていたイェンネイは、まだ息の荒い男の隣に並び、膝をついた。
「イギョン様」
体を前にいくらか傾け、怖い顔をしたイギョンにイェンネイが言う。
「わたくしをお使いください。必ずやチェイン様を連れ帰ります」
「……出来るか、イェンネイ」
「はい」
イェンネイはうつむいたままイギョンの下知を待つ。
イギョンは浮かせていた体を軽く戻し、背もたれに背をつけた。
背を伸ばし、うつむいたままのイェンネイの幼い背を見つめる。
「ではイェンネイ、チェインを連れ戻してみせよ」
イェンネイは片膝を立てたまま出来うる限り深く腰を折る。
「馬の用意を頼みます」
立ち上がりながら、隣に控える男に声をかけた。
イェンネイは静かに部屋を辞する。廊下に出たところで走り出す。
屋敷の表玄関に到着すると、そこには一頭の馬がすでに用意されていた。
笠をかぶると、小柄なイェンネイはおとなしく男たちの手を借りて馬にまたがる。
普段なら手など出されずとも何とか自分で馬に乗る。
だが今は、少しの時間も惜しかった。
イェンネイは手綱を持ち、馬の首を外へ、豪雨の中へと飛び出していった。
❋
チェインは崖崩れの現場にいた。
馬を降り、さっと見回すと、土砂の中を男が一人立ち尽くしている。
「大丈夫か!」
雨の中、何とか声が届いたのだろう、立ち尽くした男がはっとしたかと思うと「ダン! ダン!」と叫び、泥に膝をつきかき分けようとする。
チェインはあわてて男の元へ駆け寄りその肩を掴んだ。
「流されたのか!?」
この地点は、他の二地点に比べ補強が後回しになっていた。だが、こんなにも早くに崩れるとは想定外だ。
ざあざあと降りしきる雨の中、男は途方に暮れたように振り返りチェインを見上げた。
「この雨の中では、自分も巻きこまれるぞ! 帰還する!」
泥の中に座り込んだ男を立ち上がらせようとするが、なかなか思うようにならない。
チェインは左手の崖の上に目をやる。
一つ、大きな岩が、今にも落ちそうにせり出している。
あれが押されて土砂とともに落ちて着たら……。
「立て!」
あらん限りの声で男を叱咤する。
なんとか立ち上がろうとする男に手を貸しながら、ちらちらと頭上の岩石を確認していた。
その時、どこか遠くの方から異様な音が響いたように感じた。
男もその異変を感じたらしく、ガバリと体を持ち上げ、立ち上がった。
「危ない!」
それは耳から聞こえたのかそれとも空気が震えたのか、大地が揺れたのか。
巨大な何かが近づき、頭上にあった岩を跳ね飛ばし、その勢いのまま、すべてを押し流そうと、土砂が流れ込んできた。
「チェイン様――――!」
イェンネイの声がした気がする。
チェインは男の肩を抱き、土砂を避けようと懸命に走った。
――――もう、だめだ!
必死に走ったものの、土砂の流れから完全に抜け出ることは出来なかった。
ともに走っていた男は、それでも何とかチェインを助けようとしたのだろう。最後の瞬間に自分より小柄なチェインを抱きかかえるようにして背を丸めた。
チェインは、男の腕の中から落ちてくる岩と土砂を睨みつける。
「避けろーーーー!」
土砂に向かって叫んだ。
その途端、流れが向きを変え、チェインを抱きかかえている男の背後をまわって、崖下へと衝撃と爆音をまき散らしながら下って行った。
男は目をつぶり、チェインを抱きこんだままがたがたと身を震わせている。
「大丈夫か?」
そう声をかけ、チェインは男の腕の中から這い出す。
「チェイン様! なんて無茶なことを!」
キンキンとかわいらしい声が聞こえた。
チェインはイェンネイに手をあげて無事を伝えると、男を振り向いた。
「お前、名はなんという?」
風雨にさらわれそうになりながら問われた声に男は「イグルです」と答えた。
「チェイン様! 私が間に合わなかったらですね! どうなっていたと思ってらっしゃるのです?」
チェインを責めるイェンネイの声が近づいてくる。その声がかすかに震えていた。
落ちてきた土砂は、まるで二人を避けるように大きく帝国側に蛇行して流れ落ちていた。
「イグル! イェンネイの乗ってきた馬に乗るといい私はイェンネイと共に乗る」
イグルは呆然とした面持ちで後ろの土砂を眺めたていたが、その声に我に返る。
いつ何時次の土砂崩れが襲うやもしれないのだ。
「馬が逃げなくてよかったですよ!」
いつまた起きるともわからない土砂崩れを心配しながら、三人はその場を後にした。
帰り着いたチェイン一行は館の前で待ち構える男たちに迎えられた。
――――そしてチェインは、嵐の中濡れることも厭わず館から飛び出してきたイギョンの姿を見たとたん、馬から落ちるようにして意識をなくしたのだった。