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「みな、帰ってしまうのですね」
チェインは川岸から三々五々散っていく小舟を見送りながら、隣にいた真昼に言った。
神和ぎたちの奉納の楽が遠くに聞こえる。
「ああ、日が暮れるまでには帰らなきゃなんねからな。ま、俺たちは神和ぎ為りの朝霧と同じ里のもんだから、今日はこっちに留まることを許されてんだ」
「飛沫殿に、今日はこちらに泊まるとお聞きしていたので、夜通しの祭りかと思っておりました」
ゆく小舟に目をやりながらそう話すチェインの背中を、真昼は河原の石を草履をはいた足でけりながら見た。大きな背中だ。いや、兄であるイギョンに比べれば小さい。だがそれほど年代の変わらないだろう真昼よりもがっしりと、身が詰まった背中だった。真昼は、千龍の民の中でも細身な方だったから、余計にその違いが際立つ。
「あんさぁ……、あんた」
「はい?」
チェインが振り返る。
緩やかに揺れる髪はさらさらとして、後ろで一つに縛ったぼさぼさの真昼の髪とは同じ黒でも全く違うもののようだ。
「いっつも、そんなしゃべりかたなの?」
「変、でしょうか? 千龍のことばは慣れないもので……」
「ああ、そうじゃなくて」
心配そうにこちらを見てくるチェインに真昼は、ついにぶはっと吹き出した。
「俺の言葉、わかるよね?」
「はい、大体わかります」
「じゃあさ、俺とか山吹と話す時はおんなじように話してよ」
「その方がいいですか?」
「いい」
「……わかった」
チェインの返事に真昼がひょいと眉をあげ、にやりと笑いかけた。
「ちょっとー。いつまでさぼってんのー!」
いつの間にが楽は止んでいた。里の方角から、今度は山吹の声が聞こえる。
「ああ! わりぃわりぃ」
「今いく!」
二人は同時に返事をすると、集落の広場に向かって一緒にかけだした。
駆け出す瞬間、お互いにふと視線が合って、バツが悪そうに笑いあった。
集落の中では朝霧のために献上された品を高床式の建物の中へと運んでいるところだった。
今日は、日暮れまでに皆家の中に入らねばならない。それが掟だった。神和ぎ為りの儀の晩は、日没以降誰も外に出てはいけないのだ。
たった一人を除いて。
そのたった一人は集落の中にある、大きな櫓にのぼろうとしていた。
櫓には梯子が掛けられていて、朝霧は梯子を伝って櫓の上へと上がる。
これから朝霧は、この櫓の上でたった一人で過ごす。そして、精霊と対話し、ツゲを与えられる。精霊から与えられたツゲを神主に報告し、それが終わってようやく正式な神和ぎとなる。
「なんか、急に大人になっちまったな」
櫓にのぼり、夕暮れに影を浮かび上がらせる朝霧の姿に真昼は、しん、と呟いた。
里長である飛沫は、神和ぎの儀の晩を神和ぎの里で過ごすのは初めてではなかったが、真昼や山吹にとっては、初めての経験だった。
神和ぎたちは共同生活を送る神殿にすでに入っている。
アユの里からの者と、北の砦からの二人、そして、神主は小ぶりの来客用の別棟にて今宵一晩を過ごす。この里の神和ぎたちは、神殿にて、祈りを捧げながら夜を過ごす。
すでに日は落ち、月の光が銀色に辺りをてらしていた。
日没後の外出は禁止されているが、窓から外を覗くことは禁止されてはいない。
真昼と山吹は格子の嵌った窓に額をくっつけあいながら、櫓のある広場を見つめている。
櫓の下にはナラの木のたき火がまだパチパチと燃えているようだ。櫓の二階部分に、朝霧が一人でぽつねんと座っている。
「朝霧、寒くないかなあ?」
「ああ、今はいいだろうけど、朝方はひんやりするようになったしな。はやく、精霊様が現れてツゲをもらえるといいんだが」
山吹と真昼がそんな会話を交わしている。
夜が更けていく。
「ここで、朝霧殿は精霊と対話し、ツゲを授けられるという事ですね」
イギョンが神主に尋ねてた。
「そう言うことになるね。わしら神和ぎの最も大切な仕事は、精霊様と対話し、ツゲを頂くことさ」
神和ぎの言葉に頷きつつも、イギョンは今一つ理解していないような顔をしてた。
「朱の帝国には、いないのかよ、精霊が?」
真昼が振り向いて行った。
「かつてはいたと、伝えられていますが……」
イギョンが答えたその時「おお、来なすったかね?」と、神主の声がした。その場に坐したまま、瞳も閉じられたままであった。
神和ぎの声にイギョンは腰を浮かせて格子窓の向こうに目を向ける。
チェインもイギョンに続き、そろそろと外に目を向けていた。そして、一度目を大きく見開くと、吸い寄せられるようにわじかに腰を浮かせた。
「なにか、見えなさるかね? 守護殿」
そう言う神主は全く微動だにしてはいない。
「光り輝くように……美しい。青みがかった銀色の、髪!」
チェインがそう答えたとたんに、神主は、くわっと目を開いた。
いつも皺の間に埋没した目を見開くと、穏やかだった神主の表情にとたんに力がこもる。と、同時に飛沫もその言葉に素早く反応して、きついまなざしでチェインを見た。
狭い室内に緊張が走った。
なぜか、兄のイギョンまでが鋭いまなざしでチェインを見ている。その目がいつもより大きく開かれている。
チェインは自分が何か言ってはいけない事でも口にしたのかと、居心地の悪い気持ちになったが、何がいけなかったのかがまるで分らない。
「本当にきれいなんだぁ、精霊様って。男の、人だよね? いや、男の精霊様、か」
格子窓にいまだにかじりついていた山吹は背後の空気に気付かずに声を上げた。
「ほう、お前にも見えるかね?」
神主が、山吹にそう問いかけた時には、もう、先ほどまでの研ぎ澄まされたような気は、その表情に宿ってはいない。
場に落ち着きが戻るが、イギョンはまた驚いたような顔をして、山吹を見た。
「あ……そう言えば、見えた。真昼は?」
山吹が真昼に問う。
「ぼんやりとした輪郭だけ」
真昼が答え「朝霧の親でありながら、私にはまったくだな」と、飛沫が残念そうに答えた。
「私には、淡い光としてしか、見えませんが……。チェインと山吹には確かに人として見えるのですね?」
イギョンは二人の顔を見比べている。
「神主殿。精霊とは、見ることが出来る者と見えぬ者があるのですか?」
イギョンが顎に手を当て、穏やかに問いかける。
「精霊を、はっきりとその目で見、精霊の声を聞ける者だけが神和ぎとなりうる。いや、正直千龍のもの以外でも精霊様が見えるとは今まで考えておりませなんだが、失礼ながら守護殿には神和ぎになりうる資質をお持ちらしい」
「なるほど。まあ、朱の帝国も精霊と無関係の国ではありませんしね」
「朱の帝の祖、朱王は精霊とヒトとの間に生まれたと言い伝えられているな」
飛沫が言った。
「よくご存知ですね」
イギョンが飛沫を見た。
「千龍において、我がアユの里は一番南に位置し、朱の帝国とは境を接する。人の交流は皆無ではない。物資も、情報も、おそらくは郷の中で一番入ってくる地域になる。」
飛沫がイギョンを見返した。イギョンは笑みを浮かべると「なるほど」と、頷いた。
「あ! 精霊様がお帰りになる!」
格子にかじりつく様に外の様子をうかがっていた山吹が声を上げた。
その声に、チェインが櫓の方に目をやると、すでに精霊はその上にはいなかった。ゆらゆらと、きりが散っていくように、光が広がっていき、闇に吸い込まれていく。
「まさか……。消えるなんて……」
精霊がいたとしても、もっと確たるものなのではないかと思っていたチェインは驚きを隠せなかった。それまではっきりと姿を見ることが出来ていただけに、その驚きも大きかった。
イギョンは、はっきりと姿を見ることが出来なかったのだから、もともとぼんやりとした、あるかないかの光が消えたにすぎない。
「さて、どのようなツゲを朝霧は頂いたか…」
神主は背を丸め、そこに座ったまま誰にともなく呟いていた。