void Government () {}
重たい空気が部屋中に満ちる。
その昔、実は自分たちの周りに無数に存在する空気というものには質量があり、人の体を結構な力で圧迫しているらしいということを習ったものだが。
果たして今、アリスたちの背中にかかる重圧は本物か偽物か。
「わかっていると思うが、今回の特攻はかなり危険、どころか、ある意味死に行くようなものだと考えてもらって構わない。そのことを忘れないで欲しい」
シーガンの声が低く、胸を抉る。
死、という言葉が、重い。
自身、死ぬことはないアリスはしかし、その台詞を頭の中で十分に復唱し、生への執着を高める。
体が復活する能力があるからといって無限に死ねるわけではない。
死にすぎれば、勝手に元通りになる体とは違って、精神が先に壊れてしまうからだ。
だから死んではいけない。
そう心に言い聞かせなければならない。
いざとなれば自分が死んでもどうにかなる、なんて考えを持ったままでは、本当の意味で、駄目になる。
そのことをアリスはよく知っている。
自分が住んでいた世界では、そうして精神が壊れた者をゾンビと呼んだ。
殺戮対象だった。
アリスも、殺したことが、ある。
あの世界において、体の傷が治るものは、逆にゾンビを殺す、つまりは治癒を無効化にする攻撃を行うことができた。
その意味における死とは、体の崩壊である。
話を戻すが、アリスがこれから戦うアンドロイド、特に初期に作られた番号付きのアンドロイドは次元Igの力を引き出せるのだ。
アリスの体に、回復不能の攻撃を加えることができても不思議ではない。
様々な理由から、アリスは自身の命を大切にするために、シーガンの話に耳を傾ける。
弐晩の腕に、抱きつきながら。
重たい空気が部屋中に満ちている、その原因は。
シーガンが行っている、これからの戦いなどではなく。
態度がころころと変わる、アリスであった。
なお、シーガンの話を真面目に聞いているのはこの場でアリスだけだったりする。
当のシーガンがアリスの言動に気を取られて割と適当に話しているのが弐晩、アックス、フロイナにはよくわかっていたというのも理由の一つだろう。
皆、ブリーフィングを行っているようで冷や冷やとしながら、アリスのことを見守っていた。
だが、幸か不幸か、この状況、被害を被る対象が限られているため、ただ一人を除いては冷や冷やとしてはいたものの、どちらかと言えば我慢して重たい雰囲気を演出している。
して、その一人。
勿論弐晩なのだが。
弐晩は弐晩で、この妙な空間に放り出されていることを真剣に悩んでいる。
(なんなんだこれは)
難しく考える弐晩だったが、実の所、これほどわかりやすい状況も他にはない。
弐晩はその自身の持つ頭脳を最大限に回転させて、最も簡単なフレーズを探索する。
(こいつ、馬鹿だ)
隣で引っ付くアリスを見て、弐晩は一切の容赦なく、その感想を抱いた。
アリス・リーフィンク。
この少女、どうにもこうにも、振り幅が大きすぎるのではないだろか。
感情の幅と言うべきか。
行動の幅と言うべきか。
昨晩の大胆さと、先ほどの落ち着きのない様子と、そして腕に抱きつく今現在。
「なぁ、さっき何話してたんだ?」
そんな恨みの言葉も出ようものだが、それを受けたフロイナは気にもしないで流す。
「何もですわ?」
「うん、何も話してない」
アリスもフロイナに続く。
声のトーンが、甘い。
果たしてその頭で何を考えているのやら。
いっそ考えるだけ無駄だろう。
「シーガン、続けてくれ」
「あぁ」
仕方がないのでシーガンにこの先の話は任せてしまう。
アリスが幸せそうな顔で弐晩の腕に頬ずりをしてくる。
冷や汗がどこからともなく出てきて、なるほどそんな機能まできちんと付けてくれていたのか科学者改めて素晴らしいな、などと弐晩は無意味な感動を胸に秘めつつ。
なんとなくこのテンションの原因に思い当たる節もあり。
とある男女を心から呪うのであった。
アリスの家庭環境、というか世界環境を鑑みるに。
弐晩はこれまでの短い間アリスの行動を見ていて、どうやらアリス行動や仕草を誰かから真似しているらしい、ということを感じている。
だから例えば弐晩を真似て、煙草を吸ってみたりしていたりもした。
そんなわけで、恐らくはこれらの行動も誰かの真似をしているのではないか、と考えたとき。
間違いなく真似しているであろう対象は、黒田一葉、野上結という史上最悪のカップルだろう。
弐晩も直接話したことがあるわけではないので、実際の所どういった人間であるのかはよくわかっていないが。
しかしながら、文献からでも、噂からでも十分にわかるのは。
両者共に、または両者が揃うと圧倒的に。
頭がおかしい。
互いに互いのためなら死ねる、どころか、互いの愛のためならば相手を殺すことすら厭わないような連中である。
そんな奴らとアリスとがうまく意思疎通できていた、という事実に戦々恐々とするばかりである。
愛の証だと言って、笑顔で好きな人を殺してしまえる神経を、狂気と言わずなんと言うのだろう。
当たり前のように異常な行為をしていたであろう二人を見ていて、アリスがそれを真似ているのであれば。
彼らの精神が宜しくないとき、つまり彼らが人目を気にせずいちゃついていた様子をそのまま体現していてもおかしくはない。
いや、おかしな行動を真似るのはおかしいだろうが。
アリスにその自覚がどこまであるのか、それは本人に聞いてみなければわからない、が、弐晩には残念ながらその勇気はない。
今君がやっていることはかなりおかしいんだぞ、と言って理解してもらえる気がしない。
理解してもらうまで説得を試みていると今度は弐晩が黒田一葉たちのことを馬鹿にしていると、捉えられてしまうかもしれない。
「これから我々は政府の本部を直接叩くことになる。その最下部、いや最深部、と言ったほうがいいかな、そこにゼロがいるはずだ」
シーガンは弐晩から助けを求める視線を感じながら、せめて自身の為すべき作業だけは全てこなしていくように務める。
それからしばらく、アリスが黙っていることを良いことに、シーガンはやや早口に作戦および注意すべき事態について話しておく。
最低限ゼロの元へ送り込みたい戦力が弐晩とアリスの二人であること。
そのためには立ちふさがる障害をシーガン、アックス、フロイナの三人でどうにかしなければならないこと。
既に自殺しているファースト、ある意味中立の立場にいるフォース、先日殺したエイスとナインスを除いた残りの番号付き、サード、フィフス、シックスス、セブンスの四体が立ちはだかるであろうということ。
単純に考えて、戦力差は否めないということ。
実質、番号付きアンドロイドに対抗しうる戦力がアリスだけということ。
政府の最深部にてゼロから有益な情報を得られることができたとしても、その情報を他の誰か、未来でもクラドルでも誰かに渡すことができなければ作戦としては失敗であること。
また、アリスがこの先ノアなる人物に出会うのであれば、極力得られた情報を未来の幹部が吟味するだけの時間を持たせないような工夫が必要であること。
考えるべきことは沢山あり、そのどれもが失敗に繋がる案件ばかりだ。
絶望的といっても差し支えないかもしれない。
しかしながら、これらのシリアスな話は、アリスによって逆に緩和されていた。
いや、緩和されることがこの際良いことなのか悪いことなのか、どうにもシーガンには判断ができないところだったが。
少なくとも自分たちが死んでしまう想像を助長するような作戦会議を真面目なトーンで話していてもあまり意味がない。
これは自分たちが勝つための作戦なのだから。
多少の無理を通してでも、自分たちが自分たちなりの未来を掴むための戦いなのだ。
むしろ、無理がなくてどうする。
余裕で行えるような戦いなら初めから悩んでなどいない。
負けてなどいない。
世界がこうしてアンドロイドによって負けたということは、間違いなく事実なのだ。
それは認めなくてはならない。
どうせわかりきっていることならば、今更そんなことを説明する必要がないだろう。
ちなみにシーガンの視界の端で、アリスは弐晩に再度の接吻をしようとしていた。
それを全力で止めようとする弐晩の姿が、初めて見るほど慌てていて面白い。
顔がにやけてしまうのをシーガンは堪え、せめて懸念事項を全て話しきるまではクラドルのまとめ役としての自分でいることにしておく。
アックスとフロイナは既に堪えきれずに腹をかかえて笑っているが。
いや、それもいっそ飛び越してアリスがどこまでするのだろう、と恐怖に変わっている頃合にも見える。
しばらく黙っていたアリスが不意に話しかける。
「ヨウは、私のこと、好きじゃない?」
「あのな、だから、急にんな事言われても反応に困ると言うか」
「答えて欲しい。あるいは応えて欲しい。ね、どうなの?」
「い、いや、俺は昨日やっと自分が人間だって自覚が持てたばっかでな、今日もアックスから人間らしくなくなったとか言われてハッとしたところだし」
「よくわかんないからわかるように喋って欲しいな」
「わからん!?何がだ!?」
「私の質問はもっとシンプルでしょ。好きなの?どうなの?」
「そ、の、ほ、保留をだな」
「嫌。だって昨日は想いを通わせたじゃない」
「アリスだって今朝はなんか妙な反応してただろ!?」
「ん、それは後で話す」
「なんだそれ。とにかく今の俺はなんにもする気はない。昨日のことは感謝してるし、普通に好意は持ってるが、それとこれとは話が別だ」
「じゃあキスして」
「な ん で だ」
「結が言ってた。キスは想いを偽ることができないからって」
「勘弁してくれ、俺は、だな」
「んっ」
「ん!?」
「んー、んん。ん……うん、まぁ、しょうがない、よしとしたげる」
「それはそれで腹立つな。何を悟ったんだアリス」
「弐晩、好き」
「……もういい」
そのやりとりを見ているアックスはもう笑いすぎで涙を浮かべている。
フロイナは笑っているものの、どこか慈愛の顔を浮かべている。
シーガンは一人、クラドルにも温かい空気が流れてきたことを心から、喜ばしく思っていた。
どうせこの先には、修羅の道しか待っていないのだから。
どうせこの先、全員で同じ未来を迎えることなど。
出来やしないのだから。
クラドルの面々が普段隠れ処としている非居住区から、ゼロの構える政府の本部までにはかなりの距離がある。
ただし、距離自体はどうにでも埋めることができる。
アリスがこの世界に来たときにアックスと共に乗った馬型のロボットのように、情報照会を受けない旧型のロボットは多数捨てられている。
中にはハンドルの操縦はおろか、アクセル、ブレーキ、果てはギアの変速を手動で行う車まで存在している。
アリスの元いた世界は不思議な能力に溢れていたのでそうした機械はほとんど存在しなかった。
加えて、アリスがよく知る野上結の世界においても車は存在していたが、確か運転はおよそ全て黒田一葉が手動で行っていたはずだ。
記憶の隅に、マニュアル、オートマ、という言葉だけが浮き上がる。
それらが何を意味しているのかまでは覚えていないが、文字面を考えるに、あのように運転している中にも、どこか自動化されていた部分と、その部分を手動で行っている部分があるのだろう。
とにかく、そうした旧式の機械があれば、敵にばれることなく移動することは容易である。
しかしながら問題はやはり、その先、である。
政府とは、その外観のみを適切に言語化しようと思うと、要塞、である。
周りには常に警備のロボットが、人型も、そうでないのも巡回していたり設置されていたりする。
ばれずに進入することはほとんど不可能だろう。
また、入り口自体はきちんと配置されているため場所がわかりづらいこともないのだが、その内部はとてつもなく複雑である。
この世界において、空に高い建物は簡単に敵から狙われやすいため、あまり階が高いことはないのだが。
逆に地下にはどこまでも広がっているような感覚が生じるほど、だだっ広い。
政府は普通に有識者、という名のアンドロイドが何かを世界に発信するために使われているため、シーガンたちも中を全く見たことがないわけではないが。
しかし、実際に中に入ったことなど、勿論ない。
政府内部にどのような迷宮が広がっているのか、その情報すら、実際に入り込んでみないとよくわからないという状況だ。
だが、シーガンはここに来てアリス・リーフィンクの能力がどれほどまでに凶悪なものなのかをよく理解することとなった。
彼女の能力はこの世界においてあまりにも、有用すぎる。
そもそも『通信』という能力自体がほとんどこの世界の法則を捻じ曲げるに足る力だ。
この区画では、情報の可視化(visualimation)がされている。
誰かと普通の手段で通信しようと思えば、その情報の伝達は必ず痕跡を残してしまう。
その痕跡はゼロにはすぐばれてしまう。
ゼロでなくとも、普通にその辺にいるロボットはすぐに気付けるのだ。
そのため、反政府組織である未来の情報伝達はかなり機密性を重要視している。
そうしなければ自分たちの行動が筒抜けになってしまうため、そうせざるを得ない。
アリスの通信の能力はしかし、そうした情報の痕跡を一切残さない。
そもそもこの能力はどういう理屈なのか、まぁ本人でさえも理解してはいないが、この世界で定義しているところの情報のやり取りを一切行っていないらしい。
元々アリスの世界でも、"不思議"の一言で片付けられていた力ではあるので、こればかりは恐らく誰も知りはしないだろうが。
「正確には、大樹"アドバルン"の不思議な恩恵って呼ばれていたんだけどね」
などとアリスは語っていたものの。
大きな木が超能力をもたらすわけがないだろう、などと、自分たちの存在を棚に上げて弐晩はこれに首を傾げる。
しかし、その妙な出自のおかげで、この世界で、一切敵にばれずに通信ができる。
それも普通の音声通話ではなく、映像通話、共有が可能なのだ。
情報の共有は互いの連携の足がかりになる。
敵は相手が連携してくることを初めから想定していない。
仮に用意周到に来たとしても、どういった動きが別の誰かにどう影響するのか、という予測を行うのは、ロボットが最も不得手とする項目だ。
つまり、副次的な事案の検証、である。
フレーム問題の解決に至った完全知能であるが。
しかしながらやはり、その人間と比べて回転が速すぎる頭脳ではパターンを絞り込むことは困難であるらしい。
絞り込むことはなくとも永久に考え続けることもない。
簡潔に言うならば、中途で思考を妥協する、というくらいの話ではある。
絞り込めない複数のパターンを繰る複数の人間を相手に最適な行動を取れるかと言えば、それはやはり難しいだろう。
クラドルが攻め込む隙があるとすれば、アンドロイドに迷いを持たせるような作戦行動のみであろう。
加えて、アリスの持つ能力は、シーガンが文献で見たものよりも遥かに進化している。
いくらアリスの世界製作による世界だと確定したからといっても、一応は時間軸上未来であるはずのここにおいて、アリスの情報がこれほど抜け落ちているのか、かなり疑問ではあったのだ。
答えに辿り着いたシーガンは納得、よりも同情してしまった。
アリス・リーフィンクは、自己否定の塊だった。
自分には何もできない。
自分には何もない。
自分は何も知らない。
自分のことなんて誰も見てくれていない。
自分が見ているこの世界はきっと本物じゃない。
自分が知っている知識なんて全部嘘だ。
自分が生きている証なんて世界のどこにも存在していない。
自分が生きているかどうかもよくわからない。
自分を肯定する要素が見当たらない。
自分がここにいていいのかどうかよくわからない。
自分がここにいては駄目なんだと思う。
自分の存在理由なんてどこにもない。
自分なんてものここにはない。
自分なんてものはいらない。
自分なんてただの化け物だ。
自分は気持ち悪い。
自分は気味が悪い。
自分ってなんだ。
自分は死ねばいい。
自分は死ぬことも許されていない。
自分は何をすることも許されていない。
自分は生きることも死ぬことも何もできない。
自分にしかできないことなんて何もない。
自分がどこかにいるのだろうかと問い続けてしまう。
自分がどこにもないことを感じている。
自分が自分の中にあるのではないかと疑ってしまう。
自分を無性に傷つけたくなってしまう。
自分の体を流れる血は誰のものなのだろう。
自分の体を構成する要素はどこまでが自分なのだろう。
自分の体は自分なのか。
自分の顔は自分なのか。
自分の声は自分なのか。
自分の腕は、胴は、足は、自分なのか。
自分の意思で動かせると錯覚している部位は自分なのだろうか。
自分の意思で動かすことのできない臓器は自分なのだろうか。
自分から切り離されてしまった髪の毛や爪は自分なのだろうか。
自分の意思なんてあるのだろうか。
自分という意識を持った人間が自分である保証はあるのだろうか。
自分は自分なのだろうか。
自分は君だったりしないのだろうか。
自分は彼女だったりしないのだろうか。
自分は既に消えていて、今の自分が自分になってやしないだろうか。
自分という存在は幼い頃と今とで全く異なってはいないだろうか。
自分が自分でなくなっていたら今の自分は元の自分を求めるだろうか。
自分がありふれた存在だったりしないだろうか。
自分がそこらじゅうにいやしないだろうか。
自分が代替物ではないだろうか。
自分で自分を好きになることなんてあるのだろうか。
自分ってなんだ。
自分は自分だけれど自分の自分を自分は知らない。
自分に自分の自分を自分自分自分自分自分自分自分?
自分は悪いやつだ。
自分は酷いやつだ。
自分は醜いやつだ。
自分は汚いやつだ。
自分はずるいやつだ。
自分は傲慢なやつだ。
自分は屑なやつだ。
自分は、いらない。
表面には出てこないが、アリスはどうやらそんなことを考えて、いや、確信している。
前に進むとか進まないとかそんなレベルの問題ではない。
アリスは日々、自分を攻撃している。
心のどこかで、なんて生ぬるいものではなく、心が自分を壊そうとしている。
理由とか意味など恐らくはなくて、度重なる劣等感や憧憬、嫉妬が、自ずからそうさせているのだろう。
だからアリスは文献に残らない。
自分のことを誰も見ていないと、願ったわけではない。
願いというなら、むしろ弐晩に願ったように、誰かに変わらず見ていて欲しいと願ったくらいだ。
次元Igが世界を創る者の願いをおおよそ具現化するというのに、彼女の願いが直接分かりやすく叶えられていないのは。
アリスがまだ罰を欲しているからなのではないか。
自分のことなんて誰も見ていない世界に行きたい。
自分の全てを否定してくれる世界が欲しい。
もしくは、願いを超える心象がそこにはあったのかもしれない。
ともかく、アリスは自己嫌悪や自己否定から、誰も自分のことを知らないと思っている。
当の自分ですら、自分を知らないのだから。
さらに、自分のことすら知らないのだから、他の人のことなど知る由もない。
黒田一葉や野上結、兄であるリンドウ・リーフィンク、ノア。
特別仲の良かった、もしくは家族である彼ら彼女らのことですら、自分は表面的なことしか見えていないのだろうと思っている。
彼ら、アリスの知り合いである者たちの情報も、抜け落ちていく。
アリスが知らないことまで、文献に載っているなんて状態はこの世界では認められないのだ。
自分を否定して、アリスは一体何を求めているのだろうか。
それがアリス自身が望んだことなのかどうかはわからない。
しかし、この世界には弐晩がいる。
これもまた、アリスが望んだからなのかどうか、今となってはわからないが、彼女にとって弐晩という存在はとても大切なものとなった。
一方的だろうと双方的だろうと、アリスは弐晩と想いを通わせたし、アリスは弐晩に好意を持った。
実は次元Igに逃げ込んだ者の多くが、こうした理想を掲げて自らの世界に飛び立っている。
こうした、とは勿論、理想の恋人、ということである。
大体において、人間の欲というものは割とちっぽけなものが多い。
金、権力、異性。
ついでに自由と睡眠。
どれもこれも、地道に叶えようとするのは難しいのだが、そのために誰もが楽に欲する。
アリスについて微妙に考察が必要となるのは、彼女の場合。
次元Igによって生み出した世界が未来であったという特殊性からである。
何も彼女は自身の理想によって、近未来的世界観のどこかを生成したわけではない。
むしろそれなら事態はもっと簡単に説明することができるのだが。
問題はこの世界が、別にアリス・リーフィンクが世界製作を行わなくても存在していた未来の一部である、という点である。
未来の可能性というものは無限に広がっている。
人の選択というものは時と場合、その時の感情によって変わってくる。
選択した瞬間に世界が一つ、また一つと分岐していく、という見方もできる。
または、世界の可能性は初めから無限にあって、人々はその内の一部を選択しているにすぎないという見方もある。
普通の感覚に従うならば、世界なんてものは所詮一つの時間の流れしかなく、たらればなんてものは存在しない、選んだ道こそが未来に繋がるそれ以外の可能性など、ない。
アリスは果たして、どこまでを理想として願ったのだろうか。
アリスが願わなくとも、どこまでは元から存在していたのだろうか。
もう誰にもわからないし。
誰にも解き明かすことはできない。
そんな世界だ。
そんな世界だから、アリスはどこまでも進化している。
進化しているのか、初めからできていたのか、それこそ本人以外には誰にもわからないことだが。
アリスの能力は、ただの通信機生成だけではなくなっていた。
通信を強制的に行わせる。
相手に無理やり映像を見せる。
その映像を、他の世界から自由に拾ってくることができる。
それどころか、目の前にある情報を書き換えることすらできた。
この力があれば、結局はカメラ画像越しに世界を認知しているアンドロイド達の行動を無効化できる。
さらに、だ。
目、つまりカメラ機能を備えていない弐晩に対して、『心』というものを見せた。
アリスの中で心とは、光り輝くガラス玉のような、空間にふわりと漂う模様のような、そんなイメージなのだろう。
アリスがそうだと思う心を色付けてみせた。
つまり。
今のアリスは情報という概念を、真の意味で可視化してしまうのだ。
いや、情報どころか心、という情報とは最もかけ離れた曖昧な存在を可視化してしまったのだ。
その力は「凄い」などという言葉では表しきれない。
これは応用すれば、そこにないものを本物として見せてしまえるし、あるものを存在しないと認識させることもできるだろう。
これほどの力を得て。
しかしシーガンは悩む。
この力は確かに今のクラドルには必要不可欠だ。
だが、これほどの力で自分達の未来を手にしてしまって。
本当に自分達の求める世界を手にすることができるのだろうか。
自分達の信じる道は、ここで合っているのだろか。
仮にこの先ゼロを倒すことができたとして。
この世界の構図を根本からぶち破ることができたとして。
その後は?
アリスがノアを迎え、元の世界に戻ったとして。
残された自分達に、その世界を生きる資格はあるのだろうか。
「だが、それでも生きていくのだ。生きていかなくては、ならないのだ」
シーガンは自分を奮い立たせる。
そうだ。
後のことは後になって考えればいい。
何も、その後の世界を自らの手で統治しようという話ではないのだ。
別に後に立つものが何者であっても構わない。
ここでアンドロイドに対抗すること自体が、今この瞬間、自分が自分の道を生きている証拠なのだ。
アリスには悪いが、自己を肯定できている。
自分の足で立つことができている。
ならば、進むしかない。
「行くぞ、クラドル」
シーガンがそんな言葉を無意識に発し。
それに応えるように、
「おう!」
「よし」
「ん!」
「はい!」
四つの声が轟いた。
それと共に、政府の入り口に、旧世代のオンボロスポーツカーが全速力で突っ込んだ。
けたたましくブザー音が鳴り響く。
入り口のドア付近のガラスを突き破り、どこぞやのスポンサーのシールがあちらこちらに貼られた白いスポーツカーは受付のカウンターに激突して制止した。
いや、カウンターにも車体の半分くらいは突き刺さっているかもしれない。
一斉に周囲を取り囲んだアンドロイド。
監視カメラ。
それら全てが突然の来訪者へと銃やレーザーなどの使用を試みようとした瞬間。
どこかしらのリンクか何か部品のようなものが激しく振動を起こし、その場にいたロボットの大群が崩れ去る。
悲鳴があちらこちらから飛び交う中、金属音が一旦鳴り止んだことを確認してから、クラドルの五人は車から降りる。
恐るべきスピードで激突したはずだというのに、全員かすり傷一つ見られない堂々たる姿勢で立つ。
その中シーガンは声を低くする。
「ゼロへ続く道は、どこだ」
すぐに答えられるものはなかったが。
代わりに、周りのアンドロイドがまた一気に寄ってくるのを見て、クラドルはすぐに政府の中に入っていった。
「とにかくまずは地下へ降りるぞ、いいな!」
シーガンの声が鋭く刺さり、皆無言で頷いて、そのまま全力で階段を駆け抜けていく。
そして、戦争が、始まる。