Expression expression;
好きな人ができた。
世界が変わった。
でも。
実はそんなには変わらなかった。
そんなものなのかもしれない。
自分の小さな背を彼に近づけたくて、ちょっと背伸びをしてみたり。
逆に小さな背を可愛いとか思ってもらいたくて、ちょっといつも以上に距離を詰めて上目遣いで話したり。
髪型可愛くなってるかな、とかちょっといつもよりも気にしてみたり。
余裕があればお洋服、もっと沢山持ってきたりもっと沢山買ってきたりしたかったのにな、と後悔したり。
話すときにちょっと意識して目をじっと見つめてみたり。
それでいて、火照る顔を隠すためにちょっとだけ目を逸らしちゃったり。
ちょっと後ろで結んだ髪をいじったり。
夜寝る前とか、朝起きたときとかにちょっと話す内容とかをシミュレーションしてみたり。
こんな風な状況でこんなことを言ってみたいな、そしたらどんなことを返してくれるのかなとかちょっと妄想したり。
ちょっと柄にもなくラブレターを書いてみて、恥ずかしくてすぐに消してみたり。
視界の端にちょっとでも彼の姿が映ればすぐに気付いて、胸がとくんってなったり。
どんな言葉で何を伝えると、どんな言葉で返してくれるんだろうってちょっと期待したり。
全く、世界はあんまり変わらない。
ほんのちょっぴりの何かが加わって、甘かったり酸っぱかったり、私の心が揺れ動く程度。
そこまで幸せな気持ちに十分浸ってから、アリスの頭は急速に冷える。
冷静になる、というよりも。
無感情に支配される。
(ノアさん)
一人の女性のことを思い浮かべ、アリスの思考はそちらに全て流れていく。
自分は何をしにここまで来たのだ。
言ってはなんだが。
ここは未来であると同時に、アリス・リーフィンクの理想の世界であることを、十分に理解した。
だから、自分の理想の男性がいて当たり前なのだ。
そんなものに現を抜かしに来たわけでは、ない。
(ノアさん、私、私は)
昨日の夜は幸福に満ち溢れていた。
自分の弱い部分を全部晒した。
怖いものを怖いと言った。
自分のことを見ていて欲しいと言った。
あなたのことを見ていてあげると言った。
それで、目が見えないはずの彼に、『心』を見せた。
随分と疲れたが、彼にはちゃんと伝わった。
これまでに一度たりとも感じたことのない感覚だった。
言葉が欲しいわけではなかった。
行動が欲しいわけではなかった。
確固たる本物が欲しくて、しかし本物なんて世界のどこにもないんだと思っていた。
だというのに、自分の言葉が、全て伝わっていると、感じてしまった。
言葉が、欲しいと、思ってしまった。
自分の言葉が本物であると、彼に伝わって欲しかった。
そして、全部がちゃんと伝わっている感覚がちゃんとあって。
自分の言葉を受けた彼から、本物を受け取りたかった。
そして、彼から本物も、貰ってしまった。
自分の心と相手の心が、一つに溶け合っていく感覚。
知りたい。
そう思えば彼に関してだけ、全知となれる。
知って欲しい。
そう思えば彼に対してだけ、自分の心は裸になる。
不安だ。
そんな状態になったことなんて、なかったから。
そんな状態を許してしまえる関係なんて、絶対にないと思っていたから。
でも、不安と同じくらいに、安心した。
安心して、しまった。
一生、ずっとこのままでいられたらいいのに。
なんて。
そんな常套句を並べてしまいたくなるくらいに。
(ノアさん、私は、卑怯者だ)
朝起きて、まだ自分の中に幸せの欠片が残っていることが、堪らなく嬉しかった。
まだ自分と彼が繋がっているかのようで、胸の奥が温かい。
「消え、ろ」
たっぷり三十分は彼のことを想い、途方もない妄想をした直後だというのに。
アリスは恨みか怒りか、怨念の塊を目の前の壁にぶつける。
部屋はそれほど広くはないし、そもそもクラドルの隠れ処は非居住区にあるため、壁が薄かったり建てつけが悪かったりする。
アリスが本気で壁を殴れば、すぐ側にいるフロイナなどにはすぐにばれるだろう。
ひょっとすれば、弐晩が心配して駆けつけてくるかもしれない。
そんなことを考えながらも、アリスは壁に向かって本気で拳を叩きつけた。
鈍い音と共に、手に激痛が走る。
「消えろ、消えろ、消えろ」
痛覚はしかし、ものの数秒で完全に収まる。
アリスの体は傷を受け付けない。
痛みを感じたって、アリスの体はすぐに元に戻る。
例えそれが致命傷であっても問題なく、である。
「消えろ」
いつの間にか息が荒い。
消えて欲しいのは、自分の感じた全てだ。
好きだと認めてしまった、弐晩ヨウだ。
その気持ちに嘘はない。
嘘はないからこそ、アリスはそれを認められない。
認めてしまえば、前に進めない。
今の自分が本当に欲しいものはなんだ。
弐晩との未来か。
(欲しい)
自己へ提起した問いに、すぐに返答があった。
それが自分の本心であることを知りつつ、アリスは再度壁を殴りつける。
「私、私は、ノアさんと、生きていくの」
声が、震えている。
嘘じゃないのに、嘘だ。
ノアとの未来。
望んでいる。
本当だ。
それを求めてここまで来たのに。
どうしてだ。
どうして。
「私の中で、ノアさんの優先順位が、一番じゃ、ないのよ」
別に、自分の心を認めたくないわけではない。
弐晩のことが大切でないわけではない。
だから問題なのは。
大切なはずのノアのことよりも。
自分のことを優先してしまう、自分自身が嫌で仕方がない。
弐晩のことをノアよりも大切に想う心があっても構わない、とは思う。
むしろ、ノアはそれを喜ぶだろう。
きっと、「アリスちゃんにもそんな人ができたのかー」と笑ってくれるだろう。
でも、違う。
「私が大事にしているのは、結局」
自分のことだ。
自分のことだけだ。
「醜い」
アリス・リーフィンクは、醜い。
せっかく弐晩と思いを通わすことができたのにな、と。
思う心がないこともない。
だが、それでも。
「私は、行かなきゃ」
最期にもう一発だけ、壁を殴る。
手の甲から少しだけ零れた赤い何かが、そっと体内に戻っていく様子を、アリスは無表情に見つめていた。
アリスが身支度を整えて集合すると、既に全員が揃っていた。
恐らくは先ほどアリスがガンガンと部屋で大きな音をたてていたことを知ってか、フロイナがいつも以上に優しい雰囲気でコーヒーを出してくれる。
相変わらず、フロイナが作る飲み物は美味しい。
(と、いうか色々と私の胸中ばれてる気がするのよね)
本当に知っているのか、知っている風格があるだけなのか、いまいち自信は無い。
しかし優しさは素直に受け取っておこう。
ブラックコーヒーの悪くない苦味が喉を通り抜ける。
口元にカップを添えつつ、ちらりと一人を盗み見る。
もちろん弐晩のことだ。
が。
ばれないように横目で見たのに、弐晩と完全に目が、合った。
(うわ)
すぐに逸らす。
逸らして、ずっとカップを見ていたんだぞ、と無駄なアピールをしておく。
ついさっき、心をがっちりと武装してきたのに、それが脆くも崩れ去る音が聞こえた。
(所詮は木製だったか)
金属には敵わないと、適当な理屈を自分の心に塗布しておく。
ちなみに必ずしも金属の方が木よりも頑丈であるとは限らない。
全ての材料は適材適所。
時と場合に応じて選定すべきであり、一概に言うことはできない。
そんなことはさておき。
アリスは気持ち優雅にティータイムを楽しむ大人を演じて、間を置いてからもう一度ちらりと弐晩のことを見てみる。
また目が合った。
(わわわ)
今度は弐晩がアリスのあからさまな動きを怪訝に思っていそうだったが。
しかし思うところがあるのか、弐晩も突っ込んでは来ようとしない。
今だけはそれがとてつもなくありがたい。
(今は、うん、なんか、駄目だ)
全く、自分ってものはどこまで面倒なのだ。
熱しやすく冷めやすいなんてものじゃない。
昨晩あれだけ燃えあがッた気持ちを、今朝は消えろと念じて、なのに、今。
やっぱりだ。
弐晩を見たら、やっぱりまた、爆発した。
どうしたらこれ、収まるのだろう。
と、アリスは少しだけ考え、考えても無駄なのだろうという事実を確認して、少し離れたシーガンに声をかける。
「あの、私、ちょっとフロイナと話があるから、作戦会議、一時間くらい遅らせてもらえる?」
「はぁ?」
間髪入れずに抗議の疑問を口にしたのはアックスだ。
これからゼロへと宣戦布告しようという時に、それ以上に大事なことなんてあるか、という言外の意味も伝わってくるが、意外とシーガンはすぐに容認した。
「いいだろう、フロイナ」
突如話を振られたはずのフロイナもうろたえることなく、すぐにアリスの頼みを聞き入れた。
アリスと共に部屋を出る。
あっという間に放り出された感覚のアックスが何がなんだかわからない、という感じで弐晩に、
「一体全体どうなってんだ?」
と尋ねてみたが、
「さぁ、話したいことでも、あったんじゃないか?」
と、微妙に要領を得ない答えが返ってくるのみであった。
しかしそこはクラドルとして共に行動してきた時間の長いアックスである、その弐晩の変化に気付き、なんとなく事情を察する。
にやり、といつもの悪い笑顔を浮かべ弐晩を肘で小突く。
「さてはお前なんかあったな?」
「いや、まぁ、そうだな」
否定することでもないので、そこは素直に頷く弐晩。
アックスもそれ以上茶化すでもなく、単に仲間のそうした変化を喜ぶ。
「変わったな、弐晩よ」
「自分ではよく、分からんが」
「人間らしくなくなったぜ」
「なくなった、のか?」
弐晩自身の感覚としては、昨夜アリスの献身的な行為によって、ようやく自分が人間であることを自覚したのだが。
今アックスは、なんと言った。
人間らしく、なくなった?
なら、今までは人間らしかったのだろうか。
今こそ、人間らしく、思考を通わせる感覚を会得したばかりだというのに。
「馬鹿め。人間ってのは面倒なことを考える生物だろ。今までのお前は十分すぎるほど面倒な思考回路してたぜ」
「めんど、う、か」
「上手く言えねーが、憑き物が落ちたって顔してるぜ?余計なこと考えないで、一つに向かって真っ直ぐ進むってのは意外と普通の人間にはできねぇもんさ」
「そうか。だがアックス、その判断だと、お前が面倒なことを考えているようには思えないんだが」
「俺は人間だが、人間らしく見えるか?」
もちろん人間らしくはない。
異常、もしくは狂気といった言葉がよく似合う男だ。
だからこそ、誰よりも人間らしいとも言えるが。
「じゃ俺も人間だが、人間らしくはないってことか?」
「ご明察」
「ひでぇな」
しかしながら、アックスの言いたいことが何となく分かった。
どうやら、誰かのことだけを真っ直ぐ想うことができたり。
何か一つの目標だけを掲げ続けることができたり。
確固たる自分というものを持っていたり。
そうした、純な感情だけを持つことのできるような存在を、アックスは人間だと呼称したくないらしい。
彼自身も言ったようだが、自分で自分を普通の人間だとも思っていないからこそ言えるアックスらしい考えである。
ともすればアリスや弐晩が散々目を逸らしていた、「自分は人間ではない」といった話と被っているかのようだが、根本から全く違う。
アックスは、認めているのだ。
自分は人間である。
自分はその他普通の人間とは随分と思考回路が異なっているらしい。
その上で自分の道を選んでいる。
全てを認めたうえで、自分を認めたうえで、歩みをやめない。
それは悲観だとか自己嫌悪に通ずるものではなく、希望だとか悠々自適に繋がるものだ。
「自己嫌悪の反対が悠々自適だとは知らなかったな」
そんなアックスの言葉に、弐晩は笑う。
心を読むなよ、と言いたい気持ちを抑えて、別の言葉をかける。
「アックスが悠々自適なんて言葉知ってるとは思わなかった」
「うるせぇ」
人間らしくなくなった弐晩が、アリスのことを思い浮かべる。
手を取ってくれた少女。
見ていて欲しいと、見ていたい、と思いを通わせた少女。
たった十数秒、恐らくはフロイナと共にすぐ隣の部屋にでもいるのだろうから、会おうと思えばすぐにでも会える。
ほんのさっきまで同じ部屋にいたくらいだ。
なのに。
(なんだろうな、この感覚は)
弐晩の中に、また一つ、新たな感情が生まれる。
それを言語化しようとして、すぐにする必要がないことに気付き、弐晩は誤魔化すように煙草に火をつけた。
一方、アリスはフロイナを連れて、弐晩たちのいる部屋のすぐ隣、ではなく、二つほど隣の部屋に来ていた。
話を聞かれたくないというアリスの心象がすぐ隣を避けたのだろう。
その辺り乙女心に理解のあるフロイナは笑顔で対応し、含みを持たせない。
そうした彼女の気遣いが、個性の強いクラドルを一つに纏めることを可能にしているのかもしれない。
「ど、どうしようどうしようフロイナっ!?」
なお、アリスの精神状態はフロイナの気遣いに気付けるほどの余裕を持つことはできていなかった。
フロイナは仕方ないわね、と言わんばかりに、はぁ、と息を吐いてソファに座るとその横をぽんと叩いた。
大人しくアリスはフロイナの横に座る。
効果音として、ちょこん、という音をフロイナは初めて聞いた。
フロイナから見て、これまでのアリスは触れようとするもの全てを傷つける茨のようであったが。
今のアリスは。
(まるで生まれたての子猫か何かね)
小動物みたいだ。
二人で座るソファーはそれほど大きなものではないため、二人で座るとやや狭い。
体を密着させる状態となる。
「どうかしましたか、アリス」
右腕でアリスの頭を優しく抱え、頭をくしゃと撫でる。
アリスの髪は妙に弾力のあるようで、とても肌触りがいい。
パンツスーツに身を包んだフロイナは、再度問いを繰り返す。
「どうかしましたか、アリス」
「どうかしすぎて、どうにかなりそう」
「それじゃわかりません。聞いて欲しいことが、あるんじゃないですか?」
「ある。うん、あるから、連れてきたんだけど。でも、ええと」
喋るうちに、アリスの顔がみるみる赤くなっていく。
先ほど部屋に入ってきてからのこの行動。
そして今の表情。
やはりというか、まさかというか。
(拉致があきませんわね)
そう判断したフロイナは、一旦尋ねようとするのはやめて、自ら語りだす。
「私がどうしてここにいるのか、話したことはなかった、ですわね」
返事は、返ってくる。
「うん」
どころか、アリスはフロイナの胴に手を回してきた。
熱の篭ったアリスの体温が伝わってくる。
同じ女性であるが、思わずどきりとしてしまう。
「私の両親、実は私が小さい頃に、目の前でいなくなったんです」
「いなく、なった?」
「ええ、次元Igです」
次元Igに、いなくなる。
それはこの世界であれば十分にありふれた光景であり、何も不思議ではない。
アンドロイドに支配されたこの世界において人間の居場所など限られている。
だからこそ、こんな世界を逃げ出すという選択肢は何もおかしくはなく、むしろ普通の判断であろう。
次元Igという概念下において世界製作を行えば自分の理想が目の前に現れる。
「もうこの世界は限界だって、そう言っていました。私も、そうだと思いますわ。この世界はもう、終わってる」
「それで、ご両親は、次元Igの創る世界に旅立つって、決めたんだね?」
「ふふ、逃げたって言って構わないのよ?それで、私はね、拒んじゃった」
「親、を?」
「そう」
アリスがフロイナの体に抱きついたまま顔を見上げると、フロイナが慈しみの顔をしている。
なるほど、とアリスは黙る。
同情とか哀れみとかはしなくていいんだよ、もう終わったことなのだから、と。
言っている気がした。
「親が正しいことなんてわかってる。世界がもう駄目だってこともわかってる。でも、私にとっての今はこの世界以外ありえないって、そう思っちゃったの」
「うん。間違ってない」
「ありがとう。確かに、あのときの両親の顔は今でも忘れられない。とても悲しい顔をしていましたから。ですが、それはそれ、これはこれ。私の人生は私が決める、それは私の両親も理解してくれたんでしょう」
その気持ちはよくわかる。
自分の道なんて、結局は自分で決めるしかない。
他人に決められた人生に意味があるかないのか、ということではなく。
自分の人生に自分でどのように意味を作るか、だ。
誰かに与えられた人生に意味を持たせることができるかどうか、それもまた人によるのだろう。
ただ。
どこかで逃げ道を作ってしまうことになる。
この選択は自分のものではない、と。
逆に言えば、自分で選んだ選択には責任が生じる。
自分で望んだものだとしても。
自分で選ぶことすら自分で望んだのだとしても。
いや、選んだからこそ。
「重い、よね」
全てを悟ったかのようなアリスの言葉に、フロイナはやはり、笑う。
「アリスは、ちょっと大人になるのが早かったみたいだね」
「フロイナこそ」
「私は、いえ、そうでもありません。選択の意味を知るのはもう少し後になってからでしたから」
「と、いうか別に私だって、大人ってわけじゃないような」
しかしフロイナはアリスの言葉を否定する。
大人じゃないのに、選択が重いだなんて言葉、あんな感傷的に言えるはずがない。
どれだけの経験をしてきたのか、文献で知ることはできる。
アリス・リーフィンクはこの世界においてそれなり、どころではないほどに有名である。
当然のことながら、あの野上結に深く関わった人物として、ある程度の情報は開示されている。
生まれてからずっと不死身の能力を手にしていたこと。
それにより、死と直面する機会が他の人と比べて早かったこと。
通信能力により、誰よりも戦場で死んでいく人々を見てきたこと。
そうした事実は知ることができても、その心までは文字からはわからない。
「私が本当の意味で自分の選択する、その意味を知ったのはシーガンにこのクラドルという組織に誘われてからです」
「やっぱりこの組織ってシーガンが発足したの?」
「はい。彼が創設して、アックス、弐晩、私、そしてアリスの順ですね」
「へ、へぇ。アックスが二番目なんだ。なんか意外」
「そうでしょうか。あれで思慮深く、志も高い方だと見受けられますが」
「見受けられないのは私だけなのかな。弐晩からの評価もやたらと高いのよアックス」
「それはまだアリスがアックスを知れるほど一緒にいないからでしょうね。私も最初の印象はそんなものでしたから」
「じゃ、楽しみにしていよう」
軽口を交わす。
アックスもアックスで、彼なりの歴史があるはずで。
それを知る弐晩やフロイナが彼を評価するのはおかしいことではなさそうだ。
「今を生きる選択をした私が反政府組織『未来』に加入するのはそう遅くはありませんでした」
むしろ、この世界において、次元Igの世界に逃げないというのなら、政府下でひっそりと蔑まれながら生きていくか、政府と戦うかしかない。
ただ、普通に生きていた人間がどのようにして未来の存在を知るのか、未来という機関に接触することができるのか、その辺りの事情はアリスにはよくわからない。
今はあまり関係ないのでそこについての追求は避けておく。
「ですが、そうですね。正直な感想としては、未来に所属する方々も、『今を生きている』ようには思えませんでした。結局、逃げているんじゃないかと」
「そう、なのかな」
「わかりません。私個人の感想ですから。彼らは、そうですね、どこか、諦めているんです」
「それは」
仕方ない、と言いたくなったアリスの言葉をフロイナは遮る。
「私たち人間は、不可能だなんて言っては駄目です」
「あ……」
フロイナは、強く、爛々と瞳を燃やす。
フロイナの目はアリスを見ながら、しかし、もっと先の未来を見据えている。
自分の未来を見続けている。
「不可能なんて、あるはずがありません。それを過去の人たちが証明してきたのに、どうして今を生きる私たちに不可能がありましょうか」
想像を現実のものにしてきた。
速く、遠くへ行きたいと願い、交通機関が発展してきた。
世界中と繋がりたいと願い、電話やインターネットが発展してきた。
どこまでも広がる青に近づきたいと、航空宇宙産業が発展してきた。
現実には見えないものを見たいと、仮想現実技術が発展してきた。
技術の発展の裏には戦争だとか人間の傲慢な欲望だとかが関わっていることは否定できないが。
それでもその度に一歩ずつ前に進んできたではないか。
その終点が、自ら生み出したアンドロイドと、自らが生み出してすらいない次元Igだなんて。
良いわけがない。
「そっか。フロイナは、ううん、フロイナも、強いね」
「そんなことありません。アリスの方が、よほど強いですわ」
アリスはフロイナに抱きつく力を少しだけ強めた。
いつの間にか、普通にフロイナの過去を沢山聞いてしまった。
初めは自分がここまで連れ出したというのに。
と、そこでどうして自分がフロイナを連れてきたのかを思い出す。
その内容の恥ずかしさから、ぎゅう、と手に力がこもる――。
「私、シーガンをお慕いしてますの」
――その瞬間にフロイナの口から飛び出した爆弾発言に思わずアリスはむせる。
「っへ!?えっ、えぇっ!?」
急な出来事に脳が正常に働かない。
抱きついたままアリスはフロイナの顔に近づいて、ほとんど吐息のかかる位置で見つめる。
その近さを特に意に介さず、フロイナは余裕の表情で続ける。
「彼が私の理解者で、私の進むべき道を照らしてくれる道標なの」
実際に聞いたことはないのだが、シーガンは見てくれ少なくとも四十歳はいっていそうな風貌である。
対してフロイナはまだアリスよりも少しだけ年上(アリスの見た目が幼いので見た目だけで比較は難しいが)の二十そこそこのはずである。
その年の差は無視できないくらいに大きいと思うのだが。
「いや、別に好きって気持ちに年の差は関係ないとは思うけどね?」
「聞いた直後にフォローに回られるのも悲しいものがありますわね」
「ど、どうして?」
どうして好きなのか。
どうしてそれを今自分に話したのか。
どちらを聞きたいのかアリス自身もいまだ混乱している状態だったが、フロイナは一つ一つ丁寧に話していく。
「そうね、年とか見た目とか、そういうのは関係ありません。単に、私の心が動いたから、というのが正しい解答になると思います」
「心が、動いたから、か」
それが全てだということはわかる。
それ以上言葉を重ねても、虚偽が混ざるのだろう。
「今これを話したのは、アリス、あなたが私と同じに見えたからです」
「え、と、フロイナと、私が?」
「さっきアリス言っていました。『どうしよう』って。それ、どういう意味ですか?」
逆に質問されて、アリスは返答に悩む。
本当のことを言うべきなのかどうか。
そもそも自分はどうしてここにフロイナを連れてきたのか。
もっと言えば、弐晩、アックス、シーガンといる中で、どうして自分はフロイナを選んでここに連れてきたのか。
その理由とは。
「わ、私、その、ヨウ、えと、弐晩のことが、たぶん、好き」
「たぶん?」
フロイナは、誤魔化しを認めない。
やや語気を強める。
アリスは適わないとばかりに身を縮めながら、答えを訂正する。
「弐晩ヨウのことが好きなのです」
「よろしい」
そういえば弐晩に下の名前をつけてあげたこと、まだ誰にも話してなかったな、とアリスは別なことを考えるが、フロイナは気にしていなさそうだったので墓穴を掘るのはやめておく。
すると、アリスに少しだけもたれかかるようにフロイナが思い切りアリスのことを抱きしめた。
「アリスは、何を、悩んでいたの。どうしようって」
「わかんない。でも、弐晩のこと見たら、どうにかなりそうだったから」
「アリスと弐晩の間に何があったのか、それはわからないけれど、たぶん今のアリスのことはよくわかるわ」
「私は、私のことよくわからない」
「アリス。あなた、自分の感情を、消そうとしたんじゃない?」
「あ、う」
図星。
それゆえにアリスは言葉を返せない。
そうだ。
消そうとした。
昨日の幸福よ全部、消えろ、と。
「それで、弐晩を見て、さ。消せなかったんでしょう」
消せなかった。
自分の中で一番大事なのは今、ノアなのだと。
ノアを見つけ、ノアを自分の、いや、結の世界に取り戻すことが、自分の兄に会わせることが、最重要項目なのだと。
そう念じたのに。
そして、心に鍵をかけたのに。
その決意は一瞬で崩されてしまった。
何もしていない、ただ姿を見ただけなのに、だ。
「私も、そう。シーガンと共にありたいと思った。シーガンと、普通の幸せを求めたの」
普通の幸せ。
そう聞いて思い浮かべる生活が、自分とフロイナとで同じだろうか。
価値観の相違があるだろうな、とアリスは考える。
無理もないことだが。
「でも私たちは反政府組織。政府を倒すために、世界を変えるために戦うしか生きる道がない世界の邪魔者。普通の幸せなんてあるわけない」
「そう、かも」
「だから私も、内緒にしていたの。私が何かを言ったとしても、何か行動を起こしたとしても、シーガンは何も変わらない。世界は何も変わらないから」
「それ、で」
きっと、話の向かうべき方向がわかる。
恐らくは、そうやって自分の中で溜め込むことができなかったのだろう。
「変わらない、なんて思うのは結局逃げてるのと変わらなかったのよね。だから、駄目。私はすぐに自分の中の矛盾に耐えられなくなった」
「それ、を、話したの?シーガンに」
「はい、全部」
全部を話したというのなら。
今現在感じている自分の気持ちや想いだけでなく、これまでにどんな想いで過ごしてきたのかも、何を感じてきたのかも、全部、話したのだろうか。
自分の姿をアリスは浮かべる。
全部を話すことができるだろうか。
昨日の夜。
全部を通じ合わせたひと時。
想いを全部伝え合ったと感じたのは事実だが。
本当にあれは自分の全部だったのだろうか。
本当にあれは弐晩の全部だったのだろうか。
果たして、全部、なんてもの、あるのだろうか。
今を生きている自分たちは、すぐに自分の全部、というものの容量が変わってしまうのではないか。
変わってしまったら、昨日の全部と、今日の全部が、違ってしまう。
そうしたら、それは、昨日の自分が相手に嘘をついたことになってしまうのではないだろうか。
なら、全部なんて、伝えられっこないのではないか。
少なくとも、自分は、今の面倒くさいこんな考え方をしている自分には、難しいように思う。
「今のアリスみたいに、面倒なことをたくさんたくさん、言葉にしましたわ。言葉にすればするほどなんだか自分から遠ざかっていくようだったけれど、私はそれしか知らなかったから、全部になるまで全部言葉にしました」
全部になるまで言葉にした、なんて。
簡単に言っているけれど。
その強さがあっても自分の世界程度楽勝で変えられないのだから、ままならない。
「それをシーガンは全部聞いてくれた上で、まぁ、そうですね。結果から言えば、私を振りました」
「どんな風に」
「ふふ、それは内緒。私とシーガンだけの」
「ずるい」
「いいでしょう、ロマンチックで」
「羨ましい、かも」
「アリスは、どう?」
「どう、って?」
「消したいの?今の気持ちを」
「消したくない」
思っているよりも答えはすぐに出た。
思考のスピードを超えて、体が勝手に反応したかのようだ。
それでも、思考が追いついてから、アリスは言葉を重ねる。
「でも、私にとっては、ノアさんが、一番、大事で」
考えて出た答え、の時点で、嘘に決まっている。
自分に嘘をつきたくないのに、本当でありたいのに。
嘘と本当が混ざり合って、本物がなんなのか、見失ってしまう。
「そっか。アリスにとって、ノアさんって、本当に大切な人なんですね」
「うん、ノアさんは、私を、認めてくれた。悲しいときに、辛いときに、こうして、抱きしめてくれた」
「助けたい?」
「ううん、ノアさんは助けなんて必要としてない。だから、助けるんじゃなくて、迎えに行くの」
「ノアさんは、待ってるの?」
「待ってない。むしろ来て欲しくないって思ってるはずだから、だから行かなきゃ」
「嫌がらせ、なのかしら」
「ちょっと違うかな。私の自己満足だから」
「そう」
「うん。私は、ノアさんを連れ帰るために、ここに来たの」
それは本当。
半ば強制的に黒田一葉の手で送り込まれたこの世界だが、しかし目的はそれで間違っていない。
今やこの世界は唯一、自分たちとノアとが共に生きていくことのできる世界なのだから。
間違ってない。
今この選択は、間違っていない。
「私も、アリスの選択は間違ってないと思う」
「う、ん」
「でも」
フロイナが思い切り、アリスの頭をぐしゃと掴み乱暴に撫でる。
少しだけ髪がはねてしまうが、お互いに気にしない。
「順位をつけるべきなのかしら。それ」
「――え?」
腑抜けた声が出てしまう。
ほとんど空気に近い声が漏れる。
今度はフロイナからアリスの顔に近づいた。
唇が触れそうなくらいの距離になる。
「ノアさんを迎えにいくことと、弐晩への気持ちを大切にすること、どちらが重要とかどちらが優先すべきかとか、そんなのおかしいじゃない」
「フロイナ、でも」
「私は、両方を選びました。自分の未来に進むこと、シーガンと共に生きていくこと。それが矛盾だろうがなんだろうが、どちらも必要なら、どちらも求めればいいんだと思います」
「そんな、我が儘で、いいのかな」
「正直者は皆我が儘だと思いますわ、私」
そのフロイナの笑顔を見て、アリスは心から何かが零れていくのを感じる。
あぁそうか。
(私は、どっちも欲しいんだ)
正しさなんて、わからない。
求めていない。
あるのはほんの少しの揺れる気持ちと、信じたい何かだけ。
「私は、自分を、信じたい」
「そっか」
「信じるものが何もない。私は私を好きじゃない。好きじゃないから、誰かが私を見てくれている感覚がない。だから全部自分から動かないと何も得られないと思っている。自分が大したことないってことを理解しているから、自分を卑下しているから、全部を得られないんじゃないかって疑っている。だから二つ同時に求められないし動けない」
アリスは早口で、もう思考なんてせずに語る。
そうだ。
きっと自分がフロイナをここに連れてきたのは、こうして欲しかったからだ。
抱きしめて欲しかったからだ。
あの時の、ノアのように。
「でも、欲しいんだ。二つとも」
「いいじゃない、手を伸ばせば。手を伸ばさないと手に入らないものだらけなんだから、この世界は」
「うん、そうだね」
「アリス、私が知った風なことを言うのも違うとは思うのですけど」
「いいよ、なに?」
「女の子の心って、思っているより面倒くさいものじゃないと思いますわ」
そうだろうか。
自分はこんなにも、面倒なのに。
というかさっきフロイナも面倒な思考とか発言していた気がする。
「面倒なこと考えていると思いますけど、今アリスが言ったじゃないですか。欲しいものなんて、面倒なことを考えている理由なんて、とてもシンプルなはずです」
確かに、そうなのかもしれない。
「ヨウが、好き。ノアさんを、取り戻したい」
それだけ。
たった、それだけ。
自分は確かに、実に単純明快な理由で、悩んでいる。
「うん。じゃあ、その気持ちを大切に、弐晩と向かいあってみて。たぶんそれだけで、世界は大きく変わるわ」
「変わるかな、世界」
「変わるわよ、きっと」
そのまま二人は、仲の良い姉妹のように。
もしくは、年の近い親子のように。
優しく抱き合って、熱を渡しあうのだった。
アリスとフロイナが元の部屋に戻ると、そこにはなんとも珍しい光景が広がっていた。
弐晩とアックス、それにシーガンまでもが楽しそうに談笑していたのだ。
一体どんなとっかかりがあってそんなことになっているのかはわからなかったが、アリスたちの姿を見てもなお彼らは屈託のない笑顔をしていた。
思っていた雰囲気と違っていたために面を喰らったアリスだが、さきほどは逃げてしまっていた弐晩の正面に、今度はしっかりと立つ。
なんだか微妙にアックスとシーガンからいつもと違う視線を感じつつも、しっかりと弐晩の目を覗き込む。
もうそこに、恥ずかしさも、後ろめたさも、ない。
「ヨウ」
今までで一番力強く、ゆっくり、はっきりとその名前を呼ぶ。
弐晩の目には、昨日の夜ともまた違う色が映っているだろうか。
いや、アリスの力があって、弐晩の目に見えるものを作り出したのだから、今の弐晩の目には何も映ってやしないだろう。
しかし。
(見えて欲しい)
自分のことを、見ている、と。
そう言ったじゃないか、などと勝手なことを考える。
「なんだ、アリス」
声が、響く。
ただの返事だ。
いつも通り、何も変わらない、弐晩ヨウの声。
ああ、やっぱり。
自分の悩みは、どうしようもなく、拙い。
そしてやはりフロイナの言うとおりだ。
この気持ちは、ノアのこととは、全く関係がない。
この気持ちは自分のためのもので、自分の幸福のためのものだ。
(好き)
「ヨウ、私、あなたが好き」
世界が完全に静止する。
弐晩、アックス、シーガン、アリスの心情を知るフロイナまでもが反応できずに呆然としている。
そんな中。
アリスは弐晩に口づけをした。
それで、それだけで。
アリスの世界は満たされた。