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デジタルに縛られることのない世界。
魔法はないが、不思議な力に溢れている。
人は電気を活用しておらず、その代わりに自らの力を育ててきた。
動物もいるが、さらに動物を越えた存在、俗にモンスターと纏められる存在が跋扈している。
そして何より、世界の至る所に、大樹が聳え立つ。
大樹の名は、アドバルン。
遥か上空まで伸びるその大樹の先端を地上から拝むことは困難である。
人々はどこまでも高く天に伸びる大樹に寄り添って生活を営み、崇めるというほどでもなく、しかし大樹がそこにあることを安心して暮らしている。
ここは、野上結が創りだした世界。
そして、アリス・リーフィンクの生まれ故郷。
そして。
ノアと、アリスの兄、リンドウ・リーフィンクが出会った場所。
「戻って、来たんだね」
どんな想いを抱いてか、心から嬉しそうに、ノアが呟く。
アリスとノアは扉の前で並び、ただその扉を見つめていた。
外観からしてあまり綺麗とは言えないが、木造ならではの独特な風貌が、懐かしさをより際立たせる。
呼び鈴は、文字通り鈴が玄関口の扉のすぐ横に取り付けられており、鈴の音で来訪を知らせるものとなっている。
アリスは隣に立つノアの顔が見れずに、見慣れた自分の家の扉を見つめる。
(戻って、来たのかな)
それは、今のノアと、今の自分とで、温度差があるような気がするからだ。
温度差、これは想いの強さと言い換えてもいい。
もう、扉は目の前にある。
鈴を鳴らして、兄であるリンドウを呼んで、三人感動の再会をする。
ただ、それだけを願ってきたはずなのに。
靄が晴れない気がしているのは、恐らく自分だけである、とアリスは確信している。
きっとノアは、リンドウに会えば涙を流すだろう。
それで、今までの苦労とか、未来と今とのしがらみとか、矛盾する自分の想いだとか。
自分の全部を吐き出して、想いを伝えるのだろう。
リンドウはリンドウで、真面目で誠実な性格をしたアリスも自慢の兄だ。
彼は彼で、複雑な悩みというものを、自分一人で抱え込むことが多い。
特に、妹を大切にするリンドウは、その妹に情けない姿を見せまいとして、いつだって毅然とした態度を崩さなかった。
アリスは、幼い頃を除いてリンドウが泣いている姿を見たことがない。
「あの頃に、戻れるんだね」
「あの頃に、戻れるのかな」
期せずして、ノアとアリスの言葉が重なる。
どちらも同じ未来を見据えているはずなのに。
感じる心が違ってしまうのは。
希望も絶望も、全部を乗り越えてここまでやってきたノアと。
希望も絶望も、全部を乗り越えたと信じてここまできたアリス。
同じようで、全く違う。
二人の歩んできた世界が、そうさせたのだろう。
「アリスちゃん」
「な、あに。ノアさん」
「戻ろう?」
「……」
「なら、進もう?あの頃と全く同じには、そうだね、戻れないよ。それは私も知ってる」
「うん。戻れない。未来から過去へ時間は流れないから」
「ううん。私達が積み重ねる生き物だからだよ」
ノアはアリスの言葉を否定する。
あの頃と全く同じ状態に戻ることができないのは当たり前だ。
だって、今は"あの頃"ではないのだから。
だからアリスは言うのだ、時間の流れは一方向にしか流れないからだ、と。
しかし、ノアはそんなことが理由ではないと断じる。
事実として時間の流れは確かに一方向なのかもしれないが、自分達はまさにその時間すら越えた概念を相手に苦しんできたのではないか。
時間にだけ縛られているのなら、こんなにも悲しい気持ちをしなくても済んだのではないかと、疑ってしまうほどに。
次元Igという存在は、自分達の時間を狂わせていく。
だが、人間は違う。
人の感情は違う。
時間がどんな風に流れていこうが。
どんな場所に自分が立っていようが。
自分がいて。
世界があって。
自分と世界が繋がれば。
それだけで人間は、蓄積される。
世界の一部を自分自身に取り込んで、自分を表現するために使われる。
こんな経験をしてきたのだ。
こんな人々に会ってきたのだ。
こんな時間が自分を育ててきたのだ。
などと。
時間だとか概念だとか、そんな難解な言葉を使わずとも人間は自分を語ることができるはずで。
「アリスちゃん」
「な、なに?」
「アリスちゃんが進みたい場所は、どこ?」
「私が、進みたい場所?」
「私が進みたい場所は、ここ。リンドウくんと、勿論アリスちゃんがいる、ここ。いちょーと結は、そうだね、正直、遠慮しておきたいかな。せめて結だけなら大丈夫かもしれないけど」
ノアは相変わらず、一葉の発音がほとんど『いちょー』になっている。
言いにくいからなのか、もういっそわざとそうしているのか、アリスには分からない。
一葉に出会った当初は確かに言いづらく、いちょーと呼んでいた時期もあったような気がするが。
慣れてしまえば、大体のことはできるようになってしまうものだ。
「ノア、さん」
「いちょーの進みたい場所はきっと、これから先の未来だよね。たぶんいちょーはいつまでもいつまでも、結のために、結のためだけに前に進んでいくんだと思う」
そうだろう。
迷いも躊躇も立ち止まることもなく、黒田一葉は進んでいくのだろう。
進んでいくだけの力と信念を、確固たる自分を持っているのだろう。
「結の進みたい場所は、今あるいちょーの隣なんだろうね。未来を見据えたいちょーとは違って、かけがえのない今があればそれだけで十分だって思ってる。実は結構あの二人、すれ違ってるんだろうね」
それも、そうなのだろう。
野上結は一見、黒田一葉と全く同じで、一葉のいるところであればどこまででも付いていくと思われがちだが。
実際、地獄でも天国でも結は一葉のいる場所が自分の場所であると疑わず、そこへ向かって進んでいくのだろう。
けれど、その内心は一葉とは全く違っていて。
二人の未来のために行動を起こす一葉とは異なり、結はただ、今の自分が今の一葉と一緒にいることが重要なのだ。
未来のことは、未来の自分が考えればいい。
未来の自分が例えば一葉と一緒にいたくないと考えるならばそれはそれで構わない、と。
今感じているものが消えてなくなるまでは、ずっと一葉の側にいる、ただ、それだけ。
「アリスちゃんが進みたい場所は、どこ?」
ノアが質問を繰り返した。
「あ、わ、わた、し、は」
慌てて答えを出そうとして、アリスは言葉に詰まる。
すぐそこまで答えは出てきているのに。
心はそれを知っているはずなのに。
脳が追いつかない。
言葉が言葉として出てこない。
そんなアリスの様子に、ノアは思うところがあり、溜息混じりに笑いかける。
まるで子どもだ。
自分の中にある感情を制御しきれていない。
思春期真っ只中の、一少女が、そこにはいる。
(もう一押し、したげるか)
愛する妹の悩みに終止符を打ってやるべく、ノアは最適な言葉を探す。
この少女は、大事な所が抜けている。
自分の感情を上手に扱うのが下手なのだ。
理由は単純で、明快で。
アリスは少し、死に直面するのが早すぎたのだ。
たったそれだけ。
それだけで、十分。
一人の少女が間違えてしまうには十分なのだ。
早くから死に接し、死の恐怖に怯えながら生きてきたアリスは。
自分が成熟するのを待っていられなかった。
その前に、死が襲ってきてしまったから、無理やり自分の感情を、理性を、そこに合わせてしまうしかなかった。
(だから、こういう大事な場面で言いたいことが言えないんだよなぁ)
ノアは知っている。
いや。
ノアでなくとも、こんなわかりやすい少女の感情表現を、見過ごすわけにはいかない。
だから、ほんの少し。
あそこに、光が照らしている方向に、あなたの求めるものがあるんだよ、と。
教えてあげるだけでいい。
そのくらいの補助を受ければ、最初の一歩さえ踏み出せれば、聡い少女は一人でどこまでだって行ける。
「アリスちゃんが今、一緒にいたいのは誰?」
「ヨウ。弐晩ヨウ」
言葉は、考えるよりも先に出てきた。
答えてから、アリスは自分の心を知る。
こうでもしないとわからないなんて、一体どれだけ面倒なんだと、アリスは自分を恥じながら。
しかし、目指すべき場所を知り、一直線にそこへ向かう。
「ノアさん、私、行きたい場所が、ある!!」
ノアは当然、そんなアリスを引き止めたりはしない。
「いいよ。行ってきな。私はいつだって、ここにいるから」
「うん、うん!ノアさん!」
「ね。アリスちゃん」
しかし、最後に一つだけ、ノアはせめてもの決意をこの少女に伝えておこうと思った。
自分を探し、自分をこうして外の世界に連れ出してきてくれた、優しい少女に。
お礼の意味も込めて。
何より、これからアリスが進みたいと思える道を、ただ歩めるように。
「アリスちゃんがこっちに戻ってきた時にはさ。『お姉ちゃん』って、呼んで欲しいな」
「え……?」
それが意味するところに気付き。
アリスは一瞬踏み出そうとした歩みを止めそうになる、が。
ここじゃない。
歩みを止めるべき場所は、ここじゃない。
こんなところで、どうでもいいことで、止まるべきじゃない。
きっとノアもそう願っているはずだ、と。
そうだとアリスは信じきって、ノアの行く末など気にもせずに。
「じゃあお兄ちゃんのこと、よろしく!!お姉ちゃん!!」
言って、アリスは腕を広げる。
広げた先で、ぐにゃりと世界が捻れる。
空間も時間も飛び越えていくための不思議な力がそこに集まる。
捻れた世界に飛び込むと、アリスの体はどこかへと消え、途端、世界も元の姿を取り戻す。
あまりに素早い決断に、笑いが零れるノアは、せめて口先だけで既に姿を消したアリスに注意をする。
「今度あった時に呼んでって言ったでしょーが」
そして、気持ちを新たに、扉に向かう。
きっと、そこに待つのは、自分が捜し求めた人だ。
「本当は、一緒にアリスちゃんもいてくれた良かったんだけどな」
ぼやき、恐る恐る鈴を鳴らす。
「はーい」
家の中から聞こえてくるのは、懐かしく、逞しい声。
何も知らずに扉を開けるその人が、一体どんな顔を見せるだろうか。
きっと驚くだろう。
きっと喜ぶだろう。
そのどんな表情も、自分にとって満足のいくものだろう。
最初にかける言葉は、もう決まっている。
ノアは、長いときを経て、ようやく家に帰る。
戻るべき場所に。
「ただいま。遅くなって、ごめんね」
アリスが繋いでくれたここを、二度と離さないよ、と。
心にしっかり覚悟を持って。
その一歩を、踏み出した。
他方、アリス、ノア、ゼロの三者がどこぞの世界へと飛び立ち、残された者たちはすぐにその場で談合を開いていた。
無理もない。
突如、世界を支配していたゼロがいなくなってしまったのだ。
これから先の世界の在り様を話し合わないわけにもいかない。
残されたのは、シーガン、フロイナ、アックス、そして弐晩というクラドルの面々に、13その他数名による『未来』から独立した組織。
そしてサード、フィフス、シックスス、セブンスの番号付きアンドロイド。
比較大人数ながら、彼らは輪を作り、今後、世界をどうしていくかを話し合っていた。
と言っても、人間に対してどう接したらいいのかがわからないアンドロイド側。
アンドロイドに対してどう接したらいいのかがわからない人間側。
ついでにそれらに興味がない側。
そんな者たちが揃ったところで碌な意見交換がされるはずもなく。
微妙な空気が流れてはいたのだが。
と、いうか。
ゼロがいなくなり、ゼロに従う必要が突如なくなってしまったアンドロイドたちは突然の自由に戸惑い。
全てを見据えた上で、なおも人間が強くあるべきだと信じて疑わないクラドルに。
それらの小競り合いに全く興味のなさげな13。
と、話し合いに向いていない者しかいない、というのが現状であった。
中々どうにも纏まらないその場にしかし、嵐のように吹き抜ける誰かがやってきた。
大きな音と共にやってきたのは、アリスだった。
つい先ほどいなくなったはずの少女の登場に驚く暇もない。
アリスは現れてすぐに大声で叫んだ。
「ヨウっ!!」
打てば響くように、弐晩が即座に反応――する前にアリスは座る弐晩の腕を掴んで力任せに引っ張り出した。
唖然とする周りに目もくれず、そのままアリスは弐晩の腕を掴んだまま走り抜け、空間に生じた捻れの中へ二人して消えていった。
全く体の傷が治っていなかった弐晩の、恐らくは腕に纏わるどこかのボルトだかナットだかが床に落ち、気持ちの良い音を鳴らす。
「じゃあ、僕たちの出番ってことになるのかな」
「誰も、期待してないと、思うけど」
目の前で起きた一瞬の出来事に呆然としていた面々の前に、平然と現れたのは二人で一人のフォースだった。
さも今までずっとその場にいたかのように会話を交わすフォースは周りのことなどお構いなしにその場でキスをし始める。
なんなんだこいつら、という気持ちで13が抗議の目をシーガンに向けるが、シーガンもまた「管轄ではない」とでも言いたげな顔で返す。
その隙を突いて、フロイナが話を進める。
「ええと、どのような用件でこちらに?」
「いやいや。そろそろアリスがセカンドを迎えに来ると思ってね」
「私達の、方針、決めをしようって」
「わたし、たち?」
金髪でいかにも演技しているかのような大きな身振りと、いかにも興味がなさそうに少しも動くことなく、フォースは語る。
私達、とは言うが。
フォースの差す私達とは、一体誰なのか。
ついでに、消えた直後に現れたアリスはどうしたのか。
そしてまた弐晩を連れてどこへ消えたのか。
様々な混乱が頭を駆け巡る一同であったが、フォースが語ったのは一つ目の疑問についてだけだった。
「アリスが示しただろう。人間とアンドロイドは共存できるらしいってね」
「だから、私達のこれからを、話し合おう?」
短い言葉だったが。
シーガンは二つ、きちんと意味を理解した。
一つは、人間とアンドロイドのこれから、なんてものをどうしてフォースが話すのだ、という自虐を秘めているということ。
そして。
クラドルの目標は。
今を生きる者の戦いは。
一旦お預けになるだろうということ。
「そうか。人間とアンドロイドは、共存できるのか」
思わず零したそれに、アックスが笑う。
何意味の分からないことを言ってるんだ、と前置きをしてから。
「俺達だって弐晩と共存してたじゃねえか」
「ふ、そうだったな」
遠回りをしてきたような、近道を通ってきたような。
複雑な感情はあれど、シーガンは、ここに宣言する。
「クラドルの戦いは、終わった。これからは、これからの世界のために生きよう」
その言葉に反論するものは。
人間にも。
アンドロイドにも。
一人だっていやしなかった。
「お、おいアリスどうした?いや色々聞きたいことはあるんだが」
「いいから」
弐晩を連れて、否、とっ捕まえてアリスはまた、世界を渡り歩いてきた。
到着したのは、どこまでも広がる草原。
心地よく流れる風に、名前も知らない草花が揺れる。
日は橙に染まり、アリスと弐晩の体を地面に影として焼き付ける。
アリスは弐晩を押し倒すように跨り、吐息が触れ合う距離まで顔を近づけている。
仰向けに倒れる弐晩は回路がショートしたか、と思うほどに何も考えれていない。
早く、アリスが何かを言わないかと期待するが、アリスは一言「いいから」と言ってから無言だ。
ともすれば、アリスも弐晩の言葉を待っているのかもしれない。
だがそれでもゼロとの戦闘で傷つき、疲弊した精神では厳しいものがあり、弐晩は自分からは動けない。
ようやくアリスが口を開いたのは、アリスの中で踏ん切りがついたからなのか。
それとも、ようやく言いたいことが纏まったからなのか。
横目で自分の寝る大地の先を見る弐晩だが、その先には何も見えない。
ただ地面と空の境界が映るだけだ。
「帰ってきた」
それに対しては、一応返答ができる。
「ああ、あっという間だったな」
「うん。ゼロは、一葉さんの所に連れて行った。ノアさんは、お兄ちゃんの所に連れて行った」
「そうか、無事帰れたんだな。アリスの、日常に」
日常、という言葉を選んだ弐晩に、アリスは微笑む。
どこまでも素直じゃない男だ、と。
アリスは愛おしいこの男を一発軽く殴る。
日常。
弐晩言うアリスにとっての日常、それは。
アリス・リーフィンクがいて。
黒田一葉がいて。
野上結がいて。
ノアがいて。
リンドウ・リーフィンクがいて。
そんな世界のことなのだろう。
「帰れてない。だから帰ってきた」
抽象的な言い方をするのは、曖昧でぼやかした表現でないと、嘘になってしまいそうだったからだが。
それだけでは伝わらないこともよくわかっていて。
アリスは弐晩の右腕を掴んだ。
「私にとって大事なのは日常じゃない。一緒にいたい誰か」
「それが俺だって?」
「うん。一緒にいたい」
「断ったら?」
「そんな選択肢はない」
「ないのかよ」
断言してみせたアリスが真顔なのを見て、弐晩は鼻白む。
何かと思えば、くだらない。
自分のことしか考えていないではないか。
異なる世界で生きているからと言って、永遠に別れるわけではない。
その気になればいつだって会える。
現に今だってこうしてアリスは会いに来て、挙句さらによくわからないどこぞやの世界に二人でいるではないか。
だからこそ。
弐晩は未来の世界に生きることを選んだのだ。
これからまだ波乱の様相を見せるであろう世界を正しく導くために。
自分達の求めた世界が、これからどう変わっていくのかを見届けるために。
だというのに、アリスは、なんだ。
「アリスの気持ち一つ程度で、俺は動かないぞ」
それは、弐晩なりの宣戦布告であり、ある意味アリスの拒絶だったが、当のアリスはそれにダメージを受けた様子もない。
まるで弐晩のその返答を最初から知っていたかのようだ。
「だよね。そんなこと言うと思った。だから」
予想通り、アリスは弐晩の返事をある程度予測していたらしい。
しかし弐晩の方は、続くアリスの言葉を一文字たりとも想像できていなかった。
引き止める言葉か。
諦める言葉か。
そんなことを勝手に構えていた弐晩は、次のアリスの発言に、耳を疑う。
「私を殺して」
「――は?」
反応する間もなく。
いや、正確には反応自体はしていたのだが、体に加わる大きな力に逆らうこともできずに。
弐晩の腕は、アリスの喉元を貫いた。
「ぅあ、う、ば」
声にもならない、空気の通過音のようなものがアリスの口から零れる。
血と、血でない何かが同時に滴る。
弐晩は目の前の光景に息を呑む。
アリスは弐晩の腕を掴みその腕を、自分で自分の首に突き刺したのだ。
腕を伝って、或いは伝うこともなく、アリスの血が弐晩の体に落ちては弾ける。
驚くことに血が付着した箇所から弐晩の体が治癒していく。
機械の体に血が流れる。
「ほら、私を見て」
今度は、かすれながらもはっきりとした声で。
アリスのお願いに、弐晩は逆らえない。
真っ直ぐに、目の前のアリスを、首に手を突っ込んだままのアリスを見る。
際限なく流れてくる血が、草原を広がっていく。
燃えるような赤、なんて生易しいものではなく、深遠に吸い込まれていくような黒に葉が染まっていく。
「お、い、アリ、ス」
ようやく絞り出した声を聞いてか、ようやくアリスは弐晩の腕を自分から引き剥がした。
「ぁ、あ」
再度苦しげな声が漏れる。
弐晩の心臓が、どくんと跳ねる。
手が、熱い。
アリスの体内に入っていたからか、血をたくさん浴びたからか。
何故かは分からなかったが、不思議と、悪くない気分だった。
目の前で、大切な人が苦しんでいるのに。
手を抜くと、数秒でアリスの傷は治る。
傷が消えたって、痛みは本物だ。
アリスは確かな苦悶に悶えつつ、にも関わらずどこか満足気だ。
「あ、そうだ。目、見えないのやっぱりちょっと怖かったんだ。どこを向いても、光を感じることが出来なくて。あなたを、見ることが出来なくて」
言ってアリスは弐晩の右目に手をかざす。
軽い声で「返して」と呟き、そっと。
弐晩の右目に、触れた。
「お?」
アリスの指が触れた瞬間、弐晩の右目から光が失われる。
アリスの右目に、光が灯る。
そして目が、合う。
弐晩の左目と、アリスの右目。
互いに片方しか映らない瞳で。
交差するように、見つめて。
見つめられて。
「半分でいいのか?」
「半分でいいの。あなたが見れるから。あなたが見てくれるから」
一方通行では、見つめあうことができないから。
それでいいのだと笑うのは。
どうしてだろう。
本当にそれでいいのだろうか。
本来自分で持っていたものを、半分誰かに譲渡してしまうなんてことが、簡単に出来てしまっていいものだろうか。
「それで、今度は、あなたの番」
「俺の、番?何がだ?」
「『Look me, and die』」
私を見て。それから――死んで。
その言葉は、アイムからゼロへと向けられたものだ。
真意は分からない。
けれど、きっと。
アリスはそのまま、言葉のままの意味で言っているのだろう。
自分を見て、死ね、と。
そんな訳の分からない注文をする人間は、世界広しどいえどもそうはいないだろうが。
今の弐晩に逆らうなどという選択肢はなかった。
どうしてか。
死にたい気分だった。
まるで催眠にかかったかのように、弐晩はアリスの腕を掴む。
アリスの目を見たまま。
アリスの笑顔を、焼き付けたまま。
「いいよ、いつでも」
そのアリスの許可を、スイッチに。
弐晩は先ほどアリスがやったのと全く同じに、アリスの腕を自らの首に突き刺した。
アリスとは違い、弐晩は痛覚を持たない。
痛覚らしき感覚はあれど、それは痛覚ではない。
ただ何かしらのセンサが閾値処理をして、これは痛覚だ、とそう出力しているだけだ。
いくらでも誤魔化しの利く値だ。
それでも。
確かな痛みと、苦しみと、息苦しさと、力を失っていく怖さと。
本物の感情が、そこに生まれた。
「ア、リ、ス」
助けを求める声か、幸せを訴える声か。
どちらも同じように感じるし。
全く違うように感じる。
全身が激しい痛みに襲われ、感覚が麻痺していく中、弐晩はただ、前だけを、アリスだけを見ている。
アリスも弐晩だけを、見つめている。
こんな時間が永遠に続くのも悪くない。
そんな風に思い始めて、見えているはずの左目の世界が翳っていく。
「もう、少しだけ」
もう少しだけ、本物に触れていたい。
本物を感じていたい。
これが、これが本物なんじゃないか。
他人に見せられた心とか。
他人と通わせた心とか。
感情とか。
言葉とか。
そんなものは結局、本物じゃなかった。
これこそが。
自分の感じているもの全てが、はっきりと本物なのだと。
自分の感じているものだけが、はっきりと本物なのだと。
自分の全てが自分の全てで感じている。
人はどれだけ心を交わしたところで、どれだけ長い時間を共に過ごしたって。
最終的には一人なのだ。
一人で死んで、一人で長い時間を彷徨わなければならないのだ。
死後の世界があろうとなかろうと。
今いる世界からいなくなってしまうことには変わりない。
今ある誰かと会えなくなってしまうことには変わりない。
ならば。
本物とはなんなのだろう。
自分一人で意味を見つけられないのに、それを本物と呼べるのだろうか。
誰かがいないと、何も見つけられない生き物なのに、どうして死んだら一人きりなのだろう。
だから、死ぬのが怖いのだろう。
例えば、目の前にいるアリスから、自分が離れていってしまう。
ああ、待ってくれよ、と。
まだ自分は、生きているじゃないか。
生きているのに、目の前にいるのに、自分はここにいるのに、どうして遠ざかっていってしまうんだ。
あるいは逆かもしれない。
このまま死んでしまえれば、どれだけ幸せなのだろう。
大切な人の目の前で。
大切な人に殺されながら。
大切な人を想いながら。
ゆっくり、ゆっくりと消えていける。
このまま、このまま世界からいなくなれたら、どんなにか。
幸せ――
「ヨウ、駄目」
アリスが弐晩の首から、手を引く。
そして、今にも消えかけた灯火を見て、今度は弐晩の腕を、自分の腹に勢いよく突き刺した。
またアリスの血が弐晩に注がれ、その血を受けて弐晩は死の淵から蘇る。
「どう?感じた?ヨウ」
「感じ、てる。死とか、苦痛とかそんなもの」
「それだけ?そんなどうでもいいことだけしか、感じてない?」
「これが、本物なんだって」
「偽物だよ」
弐晩の言葉に被せてアリスはそれを否定した。
弐晩が感じたものが、偽物だと言った。
どうしようもなく、ロボットであることを自覚し、アリスにそれを見せ付けてしまった弐晩には。
死の感覚こそが本物なのだと、そう思えたし、それだけが自分がここにいることの証明になるのだと思えたが。
アリスこそ、そんなことを考えて行動しているのだろうとさえ思えたのだが。
第一、アリスは心を見せ、交し合うことを本物だと形容していたはずだ。
人の心は確かにすぐに変わってしまうもので。
いつまでも変わらない心などないのだろう。
アリスにとっての本物が変わらない理由などどこにもなく。
だが、それでも、アリスは変わらずに前を見ていられるのだ、なんて。
勝手に思っていた弐晩だった。
そんな間違った本物を見た弐晩に、アリスは語る。
「こんなもの、偽物でしょう?だって、死ぬのが幸せだなんてあるわけない。そんなの間違ってるじゃない」
腹に刺さった腕を、弐晩が引っ込める。
また傷が塞がる。
それっきり脱力したかのように、アリスは弐晩の上に寝そべる。
「死にたくないよ、私は」
殺しあうことが愛の証だなんて。
認めたくないと語るアリスは。
とても綺麗で、儚い。
「死にたくない。死にたくない。だから生きるの。めいっぱい」
死なない体だから、とか。
傷が治るから、とか。
そんな事実があったからと言って。
死んでいいはずがない。
死んで大丈夫なはずがない。
「痛いよ。苦しいよ。辛いよ。こんなの、嫌だよ」
涙を流して、弐晩に訴えかける少女の姿は、とても小さい。
嫌だと言うが、こんなことをし始めたのはそもそもアリスなわけで。
弐晩にしてみればアリスが何を言いたいのかが微妙にわからない。
「だから、こんな偽物はこれで終わりにしよ?」
「どうして、そんなことを」
言うのだ。
この今、この自分に。
「私は、生きていたいの。一緒にいたい人と、こんな苦しい思いなんてせずに、世界のどこかにあるのかどうかもわからない本物を探し続けたい」
「これは、本物じゃない、のか?だが、俺にとっては、確かにここにある、本物だった」
「私達は、これまでの私達が偽者だったから、それを勘違いしてただけなんだよ」
人間を越えし者。
人間に近づいた機械。
人間であろうとした両者は。
互いに互いを人間だと認めているようで、しかしその実、ただ傷を隠していた。
「私は人間じゃない。あなたも人間じゃない。でも、愛したっていいじゃない。愛されたっていいじゃない。それを望んだっていいじゃない。自分が偽物だったとしても、偽物なりの本物を求めたっていいじゃない」
「そんなものが、あるのか?俺達に」
「ないかもしれない。でも、あるかもしれない」
弐晩はそっと、アリスの涙を拭ってやる。
その涙の意味は、分からない。
あのときと同じように、気持ちの全ては理解できない。
全てどころか、微塵も理解できない。
「は、当たり前だよな。人の気持ちなんて、理解できないのが」
「そうそう。全部を理解しあえる関係なんて、悲しいと思わない?分からないから、手を伸ばすし、こうして体をくっつけたりする」
「殺しあったりは、しないか」
「しないね。喜んで互いに殺しあって、挙句それを本気で愛だとか言っちゃうのは一葉さんと結くらいで十分」
「いや、は?そいつらそんなことやってんのか?」
「やってる。さっきの私達みたいなの。しょっちゅう」
「しょっちゅう、とか。いや、悪くない気分だったのは認めるが」
「認めるんだね」
「認めるが、どんだけ頭おかしいんだよそいつら」
「ま、普通にエッチなことする頻度で殺しあってるって聞いた」
「それがしょっちゅうなのもどうかと思うが」
「って、いうか殺しあうのも一環みたいよ」
「いやもういいやめろ。想定しないところでよく知りもしないやつらの性事情に詳しくなる気はない」
「あはは。ホント馬鹿なんじゃないのヨウ」
「あ、馬鹿だと?なんだ急に」
「き づ け よ」
「だから何にだよ?」
「完全知能はどうしたのよちゃんと考えなさいよ一緒に本物見つけようって話をした直後でしょうが」
「お、おいおい気持ちを理解できないのが当たり前って話でまとまっただろ!?」
「だーかーら!!察してよ!!乙女心を!!」
「……」
「……」
「……乙女心?」
「な、なによ」
「いや、少し疲れた。突っ込む気力もねぇよ。こっちはゼロとの戦闘からほとんど休みなしでここに来てんだ」
「ふーん。私の気持ち、分かった上でその反応とはいい度胸ね」
「疲れて動く気もねぇから、もう少しこのまま、一緒にいてくれ、アリス」
「一緒にいるだけ?」
「不満か?」
「不満だ」
「じゃ、煙草はいるかい?」
「貰う」
弐晩は自分の分に火をつけ、そしてアリスに煙草を咥えさせるとそれにも火をつける。
二つの吐息が、同じ煙の中で混じる。
溶け合うように。
心地よい匂いで。
けれど、他人からすれば劣悪な匂いで。
「ヨウ、私、あなたのことが好き」
「あぁ。俺もきっと、アリスのことが好きだと思う」
「曖昧だなぁ」
「もっと確実なものを答えられるくらいまでは少なくとも、一緒にいたい。そう思えるくらいには大切だと思ってる」
「今は、そうだね。それくらいで十分かな」
「とりあえず、アリスの家族を紹介してくれ」
「うん。じゃあ、私のお兄ちゃんとお姉ちゃんに、挨拶に行かなきゃ」
「失礼のないようにしないとだな」
「勿論」
そのままアリスと弐晩は永遠の時間を二人で過ごす。
弐晩の大きな体の上にアリスが寝そべり。
時に笑い。
時に小突きあいながら。
偽物の二人は。
偽物であることを誇った上で、本物を探す。
そこにあるかどうかなど、誰にもわからない。
探すこと自体に意味があるのだと。
探したいと思う心に本物があるのだと。
そう信じて。
世界を超えるのだ。
「煙草、美味いか?」
「ぜーんぜん」
アリスは笑い、煙草の煙を吐き出した。
言葉に反して。
アリスは再び煙草を咥えるのだった。
<<アリス・リーフィンク>>
野上結のオリジナル。
野上結に選ばれた少女。
兄であるリンドウ・リーフィンクと共に、次元Igの力を操ることができる。
彼女の能力は"通信"であり、世界を飛び越えて誰とでも通信することが可能。
媒体としてイヤホンの形状をした光を持たせると、彼女のイメージ通りの通信が行えるが、それがなくとも強制的に相手の視界や聴覚に働きかけることもできる。
ただし能力による体力の消耗は激しく、通信人数が増えれば増えるほど持続時間は短くなる。
不死身の体を持っており、致命傷でもすぐに治癒する。
黒田一葉、野上結に次ぐ危険人物として世界からマークされている。
恋人である弐晩ヨウと行動を共にしているとき、その力が完全なものになるらしい。
その他特徴はメルティブラウンの髪色。
そして、隻眼。
→(『黒田一葉』を参照)
→(『野上結』を参照)
→(『弐晩ヨウ』を参照)




