4th:Reality
ウルスラ・ロギンの目覚めは、最悪だった。
「……なんだ、今の夢は」
むっつりと起きだす。
朝は、まだ蒼い。
ギリオンの朝焼けがまだ微睡んで、エイハーの月明かりが名残惜しそうに、冷めたスカートの裾野を広げている。
こんな時間に密やかな吐息をつくのは、竈の小神ぐらいだろう。
そんな時間に、ウルスラは目覚めてしまった。
「なんだ、今のは」
つぶやく。
問いは白い霧に変わって、木霊すら眠たげに壁の木目へ沈む。
朝と夜の狭間に夢から醒めて、現に消える。
それには意味があるのだろう、とウルスラは思案した。
自分の両手を掲げ、そこに刻まれた宿命紋を読み取ろうとする。
クレトスの長命紋は、途切れている。
アーガスの戦場紋は、激しく波打っている。
ヴェタスの王導紋は、ザイークの印を結んでいた。
「旅立たねばならぬ」
ぽつりと呟かれた言葉が、朝を告げた。
§
ウルスラ・ロギンは、預言者であった。
同時に、殺戮舞踏遊戯『ディメンジョン・プレーン』の、長きに渡る王者であった。
であるので、旅路に不安などない。
齢は千を超え、アレテレシオルの鎖もいまや錆つき、いつ彼を解き放つか判らぬ。されども、彼に不安など無かった。
同時に、慢心も彼には無かった。たとえ壮健であろうと、アレテレシオルの鎖は気まぐれにその捕縛を解いてしまう。
何処の時にあろうとも、その両足は暗がりしか踏みしめえぬのだ。
「いけません、師匠。お体に触ります」
旅に出ると告げれば、打てば響くような翻意の言葉が返ってくる。ウルスラ・ロギンの、生涯でただ一人の弟子は、今日も凛とした姿勢を崩さない。
「旅に出ねばならぬのだ。宿命紋はそう告げた」
「玲王国への使者が、今季の預言を待っております。明日には剣の妖精ジル・オンがお尋ねに参ります。村の祭までもう一月でしょう」
「だが、往かねばならぬ」
「何があったのですか」
「夢を見た」
「は?」
「次元選定者が竜に倒された。夢見が悪くてかなわん」
弟子は唇を真一文字に引き締め、ぐっと顎を引いて、自らの師匠を見た。骨と皮の身体。皺だらけの顔。白々と伸びた髪と髭。しかしその眼は、きらきらと星のように瞬いている。
「行かせておくれ、我が弟子よ。これはわしの、最後の旅なのだ」
こうなれば梃子でも動かないのだ。それが分かっている弟子は、悪あがきを辞め、諦観のため息を吐いた。
「……お戻りにはなられませんか」
「アレテレシオルの鎖は、この時のために、未だわしをつないでおったのだろう」
「師匠」
「ん?」
「……今まで、有難う御座いました」
深く、長く、弟子は腰を折った。
ウルスラ・ロギンは、くしゃくしゃの顔をほっこりと微笑ませて、長きねぐらを後にした。
§
ウルスラ・ロギンは預言者である。夢と現の境に横たわる、二つの名で呼ぶこと能わぬウウシュ・ウナ・マルタの寝息に耳を側たてる者である。その眠りは目覚めに寄り添い、夜は朝と交わり、神々の花園でただ一人舞う蝶の鮮やかな羽ばたきを感じるのだから、その瞳はいつでも煌めいている。
彼は預言斜塔の並び立つアザ・ジルイース霊峰を降りて、北に足を向けた。
漆黒の森を抜ける最中に、傷ついた黒獣ヘロンと出会い、手当をすると、ヘロンは預言者の旅の道連れとなった。
「この森に戻ることはないぞ」
ウルスラは困ったようにヘロンの艶やかな獣毛を撫で、鈍色の七目を覗き込む。
七つの目を持つ黒獣はすべて承知しているかのようにウルスラへ巨躯を寄せ、彼らが旅を共にするものであると悟らせた。
アレテレシオルの鎖は全ての命に結ばれるのだから、ヘロンもまた、ウルスラと共に行かねばならぬのだ。
黒獣に跨った預言者は、漆黒の森を抜け、王国の北に広がる大平原に、その足を伸ばした。
ギリオンの朝焼けに呼び覚まされ、エイハーの月明かりと語らいながら、一人と一体は旅路を歩んでいった。朝露の輝く若芽は新たな生命を囀り、星々の瞬きは眠りの慈悲を微睡み、そして草原に吹き抜ける白き風が、その自由な翼を途絶える事無く羽ばたかせている。輝かしい翡翠の海原は果てしなく、その天と地の狭間には、目に見えぬ碧い風の竜が縦横に泳いでいると言う。
「碧い風の竜」
ウルスラは、ささやくように呟いた。
黒獣ヘロンが、問い返すように嘶く。
「二つの名で呼ぶこと能わぬウウシュ・ウナ・マルタが微睡みは、この世ならざるものでありながら、一度目覚めれば全ての神々と天地は砂の如く崩れ去ろう。ウウシュ・ウナ・マルタの微睡みは安寧に決定されたまやかし、猟犬たちでさえいまだ見えざる果てなれば、わしの預言は、わしの旅路の終わりにある。
そこに、竜が居たのだよ」
黒獣ヘロンは身震いするように頭を巡らせて、左様、まっとき竜のひとつなれば、そこへ向かおうとする彼らの旅路を示す足音は、アレテレシオルの鎖がほころぶ音色にほかならない。
ウルスラは、誰もが知る故に何者も知らぬ古き詩を、風にそよがせるように謳った。
「七つの竜は影を喰い
七つの国は影を覆い
七つの剣は影を斬り
七つの王は影を討ち
七つの石は影を封じ
七つの罪は影を罰す
――失われた七つの目は影を宿し いまだ影は消えず そばにあり」
黒獣ヘロンの七つの目が悲しむように潤み、古き詩を聞いた碧い風の竜が突風の耳を傾け、大地に深く根を張る風の要石が響きを貯める。
ウルスラ・ロギンとヘロンの旅は続く。
§
ウルスラ・ロギンは、殺戮舞踏遊戯の王者である。
すなわち、アレテレシオルの鎖によってつなぎ止められる命を、解放するものであった。
故にウルスラは、拳を振るった。
恐るべき一撃は、山をひとつ砕いた。
緋色の輝きが山脈を這い、黒煙が尖塔のような火口から立ち上るその中で、焔霊が絶叫する。
焔霊は、溶岩で出来た火炎の体躯を仰け反らせ、地に伏した。
煌々とした輝きは、アレテレシオルの鎖が解け、時という魔犬が持ち去ってしまった。
ウルスラは残心の吐息をひとつすると、岩陰に隠れていたヘロンへ歩み寄る。
ヘロンは賢く、七つに煌く瞳でウルスラを労った。
「戦わねばならぬ。挑まれる事がこの世に縛られし定めであるからして」
少しだけ寂しそうに預言者は皺だらけの顔を歪め、黒獣の獣毛を撫ぜる。
枯れ枝のような腕はしかし、巨大な焔霊をまごうこと無く打ち砕いた。
齢五百を数えるウルスラにとって、肉体の老いは殺戮舞踏遊戯の弱さに繋がらない。
そのようなものを創りだしてしまった現し世が、ウルスラには悲しかった。
悲しみと、それと同等の喜びがアレテレシオルの鎖で結ばれるのなら、とウルスラはヘロンに語りかける。
「わしの喜びは、何処にあるのだろうか。わしは唯一人の弟子に、悲しみを負わせてしまった。わしはこの焔霊に、遙かなる眠りの旅を捧げてしまった。わしはお前に、ともにアレテレシオルの鎖から解放される定めを背負わせてしまった。わしは、喜びを与えることができなんだので、わしの喜びはどこにもないのであろうか」
黒獣は七つの瞳を輝かせて、老人を慰めるように、静かに嘶いた。
「行こう」
焔霊を弔うように、尖塔の如き山がひとつ砕けていく。ヘロンは、軽やかに溶岩と岩肌を蹴って、土砂の中を走り去っていった。
§
ウルスラ・ロギンは、何者であるのか。
それを詳らかにするためには、万物の最低者ウフが捲る書物を覗き見るしかないだろう。
魔導師ではないウルスラに、それを覗く事は出来ない。
だから、挑んできた。
己は何者であるのかと、この広大な大地、六つの塔に支えられしエンドリムに、挑んできた。
それを諦めたのは、預言者の鎖に結ばれてからだった。
二つ名で呼ぶこと能わぬウウシュ・ウナ・マルタの見る夢は、若きウルスラ・ロギンの行為を無意味と断じてしまったのだ。
夢。
うたかたの日々が齎すまぼろし。
現し世と思いし所こそが夢であった。
ウウシュ・ウナ・マルタがひとたび目覚めれば、ウウシュ・ウナ・マルタ以外の全ては霞に消えてしまうだろう。
己は、ウウシュ・ウナ・マルタの見る夢の一つでしか無いのだ。
だから、殺戮舞踏遊戯から身を引き、塔に篭った。
夢。
現とは、夢の最中に浮かぶ小舟に過ぎぬ。
「わしはそう考え、心折られて、眠りについたのだ。しかし、そうではなかった」
深い霧の立ち込める、海辺である。
とどろかすような波が、寄せては返し、寄せては返す、曖昧模糊とした世界。
黒獣ヘロンは小さく嘶いて、先を促した。
「そうであっても、歩みを止めぬ者たちがいた。彼らは世を省みること無く、ただ我に従っていた。それは、若者だった。
そのような姿を見て、どうして眠って居られようか。どうして夢見て居られようか。
だが、わしは老いた。そして、夢を見過ぎた。
もはやわし一人では、どこへも行けぬ。わしの足は、歩みを止めてしまっていたがゆえに」
だからと続ける事は、しなかった。
ヘロンも促さず、預言者を背に、ただ旅路を歩み続けた。
それが今の彼らであるからして、導きの琥珀星は深い霧の最奥から、宿命紋と呼応し、瞬いている。
§
ウルスラ・ロギンは、ウルスラ・ロギンである。
そのように自らを名付けるまで、これだけの時間がかかってしまった。
轟々と寒風を切り裂き、見事な速度で氷河を駆け抜ける黒獣の背中で、ウルスラは両の腕を持ち上げ、宿命紋を読み取った。
クレトスの長命紋は、途切れている。
アーガスの戦場紋は、激しく波打っている。
ヴェタスの王導紋は、ザイークの印を結んでいた。
「旅路は終わった」
視線を上げる。
轟きは極寒の氷河が砕け散る音で、そのさなかを疾走するヘロンは、迷いなく七つの瞳を煌めかせている。
その視線の先に、竜は居た。
竜の前に、次元選定者は居た。
導きは成された。
後は、ウルスラとヘロン次第である。
旅路の中で、考えていた。
何のために、戦うのかと。
何のために、旅立つのかと。
何のために、アレテレシオルの鎖は、己を縛り付けていたのかと。
「わしは、見たいのだ、ヘロン。わしに出来なかったことを、わし以外の何者かが成す事を」
獰猛なヘロンの嘶きが圧砕の大音を押しつぶすように響き渡り、蒼き霧の竜が、頭をこちらに巡らせた。
「彼らのために、わしの生は合ったのだと。この時のために、わしはこれまで生きてきたのだと。
故に、彼らが必ずや彼らの歩みを止めぬことを」
もはや爆発するような音を立てて、ヘロンの蹄が氷河を砕き、飛んだ。
矢のように竜へ。
竜が、おおきくあぎとを開く。
そして、蒼の吐息が全てを薙ぎ払った。
黒獣ヘロンの綺麗な七つの目が、
ざらざらとした黒い獣毛が、
優雅に湾曲した一対の角が、
影だけを残して、消えた。
「わしは、それを、祈っている」
それは、逆巻くアレテレシオルの鎖のように。
竜の額に降り立った、枯れ木のような預言者。
その両の拳に、宿命紋が。
殺戮舞踏遊戯の王者、ウルスラ・ロギンという祈念者の命で輝き、
そして、打撃された。
ディメンジョン・クローズ。
§
二つの名で呼ぶこと能わぬウウシュ・ウナ・マルタは寝返りをうち、そのそばで眠りを誘い続ける眠りの王が驚きにフルートの音を辞めた。
しかし、ウウシュ・ウナ・マルタは眠りから覚める事無く、安堵した眠りの王は、再びフルートを奏で始めた。