2nd:Trial
桜色の春、蒼い夏、黄金の秋、黒い冬。
壮麗な町並み、古ぶるしい遺跡、素朴な村、大いなる自然。
僕は、仮想現実で生まれたその光景たちに、心を奪われたのだ。
§
影の竜と灰の逃亡者
2nd:Trial
§
意識領域下のマクロ空間で設定していた目覚ましが僕の意識を覚醒させる。目覚めははっきりと、意識は明瞭。目覚ましに関連付けて設定していたリフレッシュ系のアクティブスキルが、寝起きの鈍さを排除しているのだ。一時たりとも彼方軍への警戒を解けない自分にとって、睡眠は非常に危険な行為だった。あらゆる回復系スキルを総動員して、睡眠時間自体の短縮と回復効率の最大化を図り、なおかつ周辺へ結界と自律型の警戒歩哨を張り巡らせて、ようやく3時間と言う意識の沈下を得られるのだ。これも、ENEが居なければ成り立たない。
『問題無し』
「交代だ」
『十分間の受動状態に移行する』
「おやすみ、ENE」
いわゆる機械知性体であるENEに睡眠は必要ないが、蓄積した情報処理とバグ取りをする時間は応答が出来なくなる。能動状態でも片手間にやっているらしいが、詳しく聞いていると頭がこんがらがってくるので、そういうものだ、という程度にしか認識していない。どだい、ENEと僕では存在基盤が違う。会話が成立しているように思えても、ENEのほうでは全く違う解釈をされているかもしれないのだ。それでも僕がENEを信頼しているのは、レギオン因子がENEに反応しているから、つまり、意思がENEにあるからに他ならない。ENEも、プレイヤーなのだ。
僕は粗末な寝台から起き上がると、傍らのENE長剣型筐体を装備し直して部屋から出た。その間も、ENEが解析した提示報告を積層化した視界で確認している。ネットワークゲームのキャラクターである僕、『ヨロヒト』はゲーム的な情報表示が視界に現れるため、幾つもの情報が規定化された領域で視界に表示される。それを補助するようなスキルは、根本的に存在しない――それはゲーム外でのサポート・ツールだ。ゲーム内でしかないここにそんなものは存在できない。ブースト系スキルで速読と短時間記憶等の間接なサポートし、気になったものや重要そうなものをピックアップ、ENEが更に解析できるようにキーワードを添えて記録。
王都での戦闘を終えて、僕達は即座に尻尾を巻いて逃げた。ぐずぐずしていたら、彼方軍がまた何らかの攻撃をしかけてくるに違いなかったからだ。細菌兵器かマシナリー・ユニットかは分からないが、どうあれ僕らの居場所を察知しているのに放っておく筈が無い。だから逃げた。これで暫くは彼方軍も探索に時間をとられるだろう。見つけられるのは確実だが、そんな事は此方も分かっている。
だから僕は、ひとつの扉の前で、ひとつため息をついた。呼び出し。中から返事が返って来たので、躊躇わず部屋に入る。
カーテンが閉められて蝋燭の明かりだけが部屋を照らすそこで、寝台に座る少女が居た。僕の視界で勝手にピックアップされた名前は、玖村・詠美。種族は人間。カードバトラー、と示された戦種は、先の戦いで十二分に理解できた。
「おはよう。気分はどう?」
「あー……ちょっと、良くなった」
あまり顔色の良くない少女は、こちらの挨拶にそれでも笑みを返してくれる。あわただしく逃げ出して、そのまま電源が切れるように気絶した彼女を寝かせる為に、随分と安全な場所を探し回ったが、そんな事を言うつもりは無かった。
僕は彼女に近づいて、ステータスを良く見る。簡易状態表示は病気:軽。
「意思酔いだろうね。此処はレギオン因子が高すぎるから、慣れてないとそうなる。すぐに馴染むよ」
「レギオン因子? なに、それ」
「玖村さんの世界でどう呼ぶのかは分からないけど、魔法の大元みたいなものだよ。そういうのに慣れてないって事は、僕の居た世界の近場から来たみたいだね」
「……ねえ、意味が分からないんだけど。っていうか、何で私の名前を知ってるの?」
と言った彼女は、小声で何か囁いている。まるで隣に居る誰かと会話しているようなその仕草は、その通りなのだろう、僕の知らない何かと話しているのだ。それが推察できないほどこの世界に慣れてないわけではなかった。
「あなた誰? 此処はどこ? なんで私の名前を知ってるの?」
「詳しく話してる時間があるかどうか分からないけれど」
僕は、話し出す。
§
彼方よりの王アルバが来訪した。
それは次元の海を崩壊させ、それを修復するために、様々な次元から要素が奪われた。
要素とは、『ディメンジョン・プレーン』、そういうゲームに参加していた者達だ。
それを、次元選定者と呼ぶ。
「僕は、VRMMORPG『ディメンジョン・プレーン』で遊んでいた。リアルでは高瀬・喜一って名前だけど、このキャラクターは『ヨロヒト』と言う。だから、ヨロヒトって呼んでくれたほうがうれしいね。僕はもうヨロヒトでしかないし」
ディメンジョン・プレーン。
六という数字であらゆるものが構成される、次元の海。
数多の次元世界に存在する、遊戯の名前。
神々――そのようにも呼称される、上位知性存在――は、彼方よりの王アルバへ対抗するため、それを通じて次元選定者を召還した。
戦いは、一方的だった。
無限に存在する彼方軍と、多数とはいえ有限の次元選定者。
戦力比は、絶望的だ。
「元の世界に還る手段は、現実的に無い。無かった。僕はだから、とにかく逃げる事にしたんだ――殺されるのは嫌だから。
そうしてる内に、気づいたんだ。彼方軍に対抗している次元選定者に」
それは偶然ではなく、宿命によってやってきた存在だった。
そのようにしか表現する事が出来ない、抗う事によって光を放つ存在。
マレビトを襲うマレビト、彼方を迎え撃つ彼方。
祈念者と、そう呼ばれる。
「それを教えてくれたのはENE……今は寝てるけど、こいつみたいな上位階層の次元に居る連中には、プレイヤーがワールドオーダーの中から出てくると分かっていたらしい。これまでも、そういう存在……災厄に対抗できる者……は居たらしいから。僕もそうだ、って言うのは、知らなかったけど」
そうしてヨロヒトは此処にいる。
玖村・詠美も。
掻い摘んで話すのは難しいし、だからと言って僕が全てを理解している訳でもなかった。全て、なんて曖昧な言葉で狭義に展開できる事柄であるなら楽だったのだけれど、荒唐無稽すぎて僕自身も実感は無い。そのような事になっている、と十分理解しているのは、ENEだけだろう。僕が確実に理解しているのは、このままぼんやりと過ごしていては一日と経たずに殺されると言う事だ。
彼女も。
彼女が祈念者であるのはほぼ確実だった。ENEの探索プローブは高性能だし、実際に彼女が彼方軍を撃退しているのをこの目で見て、さらに僕は共に戦った。勝ったのか負けたのかで言えば、彼方軍との戦いに勝つと言うのが気が遠くなるほど難しい事を考えたら、意味の無い言葉だろう。負けていない、と、そうとしか言えない。
「……よく、わかんないわ」
「これだけ分かれば良い。君は、このままだとすぐ殺される。……ENE、起きたか」
『報告しろ、ヨロヒト』
「玖村さんに現状を話している。解析してもらいたい案件は、今送る」
『受諾した。解析に移る』
「その前に、お前も挨拶ぐらいしろよ、ENE」
『私は、今のところお前の装備品だ。お前が紹介しろ』
面倒くさがっちゃってさ、と僕は小さくぼやいて、目の前の少女が目を丸くしているのに苦笑する。腰元の長剣、ENEの筐体を軽くたたいて、
「こいつがENE。僕の仲間で、プレイヤーだ。シムシティって言って分かるかな? ああいう、言ってみれば次元経営シミュレーションゲームである『ディメンジョン・プレーン』に参加していたんだ。していたらしい」
「私の知ってる『ディメンジョン・プレーン』と、違う」
「同じ確率のほうが低い。次元、という表現は分かりにくいかな。平行世界って知ってる? そういう所に共通して『ディメンジョン・プレーン』なるゲームは存在していて、それを遊んでいた人たち――人じゃないのも居るけど――が、ワールドオーダーとして此処、リアルなディメンジョン・プレーンの世界に堕ちてきたんだ」
リアルな、という表現は的外れもいい所だな、と僕は思う。僕たちの元居た世界はディメンジョン・プレーンという海に浮かんだ小島でしかないのだから、現実的、客観的に考えれば、むしろ今までの世界のほうが、夢の国なのだ。しかしそれはENEのような上位知性体の見識でしかない。そこに住んでいた僕たちにとっては、目に見えるものが現実なのだ。主観は客観を無意味な概念に変えてしまう。だからもう、僕の現実は消えてしまった。手に届いた夢はすでに夢ではない。ディメンジョン・プレーンという夢を見ていた僕は、夢という言葉の中身に押しつぶされて、その言葉に届かない。
現実でも夢でもない。果たして僕に、それを何と表現する事が出来るだろう。
「今、玖村さんの置かれている状況はそんな感じだよ」
「あ、うん。まぁ…分かった。それで?」
「提案がある。仲間になってくれ」
「なんで」
「僕は」
ようやく目的を告げる。この一年、ずっと考えていた。考えて、考えて、それでようやく、決めた。
「この世界から逃げる。逃げて、生き続ける。彼方軍に殺されるなんて、まっぴらだ。
元の世界に還れなくても良い。とにかく僕は、生き延びる。それを彼方軍が邪魔するなら、一匹残らず殲滅してやる」
ENEはその選択が不可能だと知っている。彼方軍から逃げる事は出来ないし、彼方軍を殲滅することは出来ない。理論上不可能だ。上位知性体、僕の知っている概念でいえば神様に当たるENEの未来予測は、予知といって過言ではない。それでも、僕は、そう決めた。どうせ最初から逃げてる人生だった。ネットゲームを始めたのだって、日常からの逃げだ。その逃亡を諦めたくはない。最後まで、逃げてやる。
逃げる事は僕が人生の中で決めた唯一の行動だった。生まれてから今まで、ずっと逃げてきた。立ち向かったことはないし、挑戦したことも無い。似たようなことはあったかもしれないが、それらは全て逃亡という行動原理から生まれたものだ。その逃げた先でも追われるならば、そうだ、僕は、僕がただひとつ持っているもの、逃避を、諦めたくない。
諦めたくない。
だから、
「仲間になって欲しい。僕は、僕一人じゃ何も出来ない。でも、貴女となら、きっと出来る」
なぜ、と呟く彼女が居る。
あのとき戦っていた猛々しい彼女ではない、弱気な、暗がりに座り込んでいるような声で。
僕は、それが無性にいやだった。
だったら、言ってやるのだ。
「僕が、『ヨロヒト』だから。
『ヨロヒト』は、仲間がいる限り諦めない。仲間がいる限り挫けない。
仲間が居れば、僕は無敵だ」
しばらく沈黙が僕と彼女に流れた。もうすでに解析を終わらせているENEも、彼女の傍に居る目に見えない誰かも、何も言わない。
分かったと、搾り出すように彼女が告げたのは、一分十二秒たってからだった。
§
『彼方軍』は最優先抹消対象の発見を予測した。時間という魔犬をすり抜ける『彼方よりの王』アルバの力が確率変動事象を察知し、瞬時を無意味にする素早さで必要戦力を抽出、編成、出陣。最優先抹殺対象はこれまで幾度となく彼我戦力を凌駕してきた。それは対象の存在している場を突破出来ないからであり、また対象が自己戦力を全て開示してないからだが、『彼方軍』は認識している対象戦力の千二百倍を投入することに決定した。それは最優先抹消対象が彼方よりの王アルバを倒しうる力を収得したからであり、それこそが『プレイヤー』を抹消する彼方軍の真の目的であるからだ。
編成された彼方軍は、蒼い霧の竜、極神帝ブルムルとその巡礼騎士団、『布津ノ騙』ゲヘニトリス。
各地、各時間軸でワールドオーダーを殺戮していた、三つの次元破壊級ユニットが投入された。
§
僕は、閉じていたまぶたを開く。
僕にとって視界は多重に展開されている。目を閉じていても、それは情報がひとつ減るだけで戦闘能力に影響しない。だからこそ僕は、この開いたまぶたから見える視界が、好きだ。
雪景色だった。
白のハイロードが治める、永久凍土――その険しい山岳のひとつを丸ごと削りだしたような砦が、僕達の隠れ家。屋上から見渡すのは全方位に渡る零下の自然で、こんな所にでも命は存在する。そこが自然である限り、獣も、精霊も、何もかもは生きていける。
「……すごい」
すぐ隣には、彼女が居る。玖村・詠美。彼女はしかし、この自然に存在できない。体のつくりが、違う。僕がアイテム収納用の次元ポケットから取り出した防寒具は彼女の凍えを断ち切ってくれるはずだけれど、それでもいまこうして普段どおりに喋れているのは、僕が展開した暖房結界の中に居るからだ。僕は『ヨロヒト』を器用貧乏に育てたから、そんなスキルも持っている。
「玖村さんの世界じゃ、『ディメンジョン・プレーン』はどんな所なの?」
「カードのフレバーテキストから想像するしかなかったわ……此処って、シンダル永久氷壁の長越砦?」
「知ってるんだ?」
「そこそこレアな白のカードだもん」
「僕がまだゲームをしていた頃、友達が此処を根城にしてたんだ。彼が引退するときに、管理キーを貰った」
「キミの世界にも、在ったのね……」
「『ディメンジョン・プレーン』の世界観はどの次元でも共通らしいよ」
外を見たいと言い出したのは、彼女のほうからだった。気落ちしていた様子の彼女が心配だった僕は一も二もなく屋上へ連れ出して、そして僕の大好きなこの光景に喜んでもらえたのが嬉しかった。氷に閉ざされた世界。氷河が時折滑り落ちていく重音以外、何も聞こえない静寂の地。この静けさを愛していた友達の事を思い出して、僕は少しだけ感傷に浸る。
くしゅん、と頭ひとつ低い位置でくしゃみが聞こえて、
「寒い?」
「ん……わかんない。でも、見てるだけで底冷えしそうよね」
はは、と笑う彼女に、そうか、と僕はうなずいて、彼女の肩を抱き寄せる。小さく身を竦ませる彼女の目の前に、アクティブスキル・ヒートランプ起動。ぱちぱちと爆ぜる焚き火が現れて銀色の世界に小さな赤を灯らせる。ただの視覚エフェクトを組み合わせただけだが、それが体に影響する割合は高いと僕は知っている。
防寒具越しの彼女は震えていて、それが体の寒さ故なのか、もっと別の理由があるのか、僕には分からない。不安なのかもしれないと、そう気遣う余裕はある。でも、いくら言葉を重ねたところで、彼女の根っこの不安は除けないだろう。だからこうして、抱き寄せる。そうする事が、お互いの熱を交換し、肌に触れる事が不安という原初の感情を忘れさせてくれるのだと、僕は知っている。
知っているから、する。知っているのにしなかった僕は、そのせいでいろいろなものを失ってしまった。
「……ねえ」
「うん?」
「……恥ずかしいん、だけど……」
「……」
その反応は、
予想外だった。
「あ、うん。震えてたから……」
『それは応答としておかしい、ヨロヒト』
今のタイミングで喋るのは悪意があるだろうENE、と僕は寒さとは違う要素で固まった腕を意識しないようにしながら、考える。そういえば、普通、出会ってすぐの男女はこんなことしない。長い間、ENEのような価値観の違う存在と一緒に居たから、忘れていた。
毛皮の帽子から僅かに除く彼女の耳は赤くなっていて、それを認識できたのはひとえに『ヨロヒト』の構造が彼女の状態異常をピックアップするからだ。僕は、それどころではない。何か話題を変えなければこの妙な空気に耐えられない。
「あのさ。パーティ申請してもいいかな?」
「な、なにそれ」
「僕の力はパーティングしてないと発揮されないものが多いから。送るね」
「え、あ、……うん」
『今のは応答として――』
「黙ってろってば、ENE!」
システムコール、パーティング設定。申請。僕にとってはなれた動作だが、彼女にとっては始めての経験だろう。僅かに驚いたような仕草と、小さく頷く動作――許可、と彼女が呟いて、僕と彼女の間にパーティング・ラインが開通、ほとんど反射的に、詳しく見ることの出来るようになった彼女のステータスを調べる。『ヨロヒト』とは違う、ネットゲームのキャラクターでない、世の定理に則って生まれ落ちた彼女のステータス表示は完全ではない、が、僕の遊んでいた『ディメンジョン・プレーン』はそのデータ設定において膨大な数量を誇る。彼女を数値化して、表現する事は可能だ。
そのとき、ENEから要求が来た。玖村・詠美の機械知性体との情報交換をせよ、と。
「どういうことだ、ENE」
「え、何?」
「玖村さんのサポートインテリジェンス……」
「『アマルガム』の事?」
小さく口の中で何事か会話した彼女――そう、会話だ。見えない隣人との会話を経て、頷いた。ENEと常に情報リンクをしている僕にも分かる。ENEと彼女の後頭部に埋め込まれている拡張スロットにセットされた外部通信ユニットが、数億のトライ・アンド・エラーを繰り返して双方向通信を確立、ENEからフィードバックされた情報は取捨選択されて、そして僕の視界に新たな人影が現れた。僕のすぐ背後、ほとんど密着して、肩口から覗き込むようにしている、奇妙な装束の魔女。
『見えるかな? はじめまして、お友達』
「貴女がアマルガム?」
『そうじゃなかったら、驚くかしら?』
「いえ……」
物理的に実体化しているのではない、とENEの情報サポートを受けている僕には分かる。それはARソリッド、拡張現実能力が物理空間に挿入した触れ得ざる幻像で、しかしレギオン因子が反応して形作られた『アマルガム』の実態は、生身に近い。玖村・詠美がカードからモンスターを召還し、戦闘する能力がこのようにレギオン因子へ働きかけているのだろう、と言うのは僕の推測でしかないが、ENEは高い確率での同意を示した。僕がさっきまでその存在を感知できなかったのは、『アマルガム』が玖村・詠美にとって自分の一部と認識していたからではないだろうか。パーティングが完了した段階で僕が『アマルガム』を個人として認識し、そうであるために僕にも実態として認識できるようになった、というのが正解な気がする。正確には違う、とENEは修正しようとしたが、途中で止めた。面倒くさかったからだろう。
一息。
準備は、出来た。
ENEは、彼方軍の襲撃を予知している。もうすぐここは戦場になる……切り抜けられる確率は、ほぼ無い。次元破壊級ユニットを投入してくるのは、確実だろう。
「ねぇ、玖村さん。怖くない?」
「怖いわよ」
「よかった。恐怖を感じられるなら、大丈夫だ」
「なに、それ」
「怖くない人なんて、居ない。恐怖があるから、それに抗う気が起きる。誰だって怖いのは嫌だから」
「どうかな……そのまま逃げるかも」
「僕はずっと逃げてる。今も。それが抗いの一つの手段だ、とは、言わない。そんな格好のいい事じゃないし」
「言ってよ。逃げてもいいって」
「一緒に逃げる?」
「……うん」
『珍しい。エイミが素直だわ』
『一緒に逃げるか、だと? 文脈的におかしい。唐突だ』
「「うるさいよ!」」
言うと同時に、緊急警報が視界を埋めた。
『彼方軍』が、来る。
§
『彼方軍』の出現時に発生する次元振動パターンが、零下の世界を連続的に震わせる。次に出陣を表現する魔方陣めいた図形が空間に描かれて、開門。種類は三種。みっつの『ディメンジョン・プレーン』からの混成部隊だとENEはアクティブスキャンを攻撃的なまでに連続照射しながら報告、僕もショートカット登録した一連の戦闘補助スキルを起動、起動、起動。相手側からも電磁波、ガンマ波、エーテル帯域、ウルトラウェーブ、ヴエノ粒子領域での索敵と波長攻撃が来ている。ENE、対抗措置。このフィールドに散らばったENEの外部端末たちが一斉に展開、僕の結界スキルを利用しながら反射防御。相手の反射防御の間で高速で行き来する破壊的索敵能力のやりとりは戦闘開始の鬨の声じみて、僕の視界に現れる。
僕は、静かに玖村・詠美を抱きしめていた両腕を外す。
背を向ける。
ENEの長剣型筐体を引き抜きながら、彼女と背中合わせに。
「じゃあ、始めよう。逃げるための戦いを、此処から始めよう」
敵、出現。
はす向かいの山脈に展開するのは、白い軍勢。エネミーサーチ、ネームドモンスター『極神帝ブルムル』及び巡礼騎士団総勢五千。
背後の山間部に降り立つのは、紫の魔剣使い。エネミーサーチ、ネームドモンスター『布津ノ騙』ゲヘニトリス。
上空の冷気に翼を広げるのは、青き竜。エネミーサーチ、ネームドモンスター『蒼い霧の竜』。
次元破壊級ユニットは、一体だけでもワールドオーダーを百度殺して余りある戦闘能力を保持している。それが三体も出てきたということは、『彼方軍』が本気で僕達を殲滅するつもりなのだと知れた。今までが本気じゃなかった、という訳ではない。僕達の危険度が、増したのだ。次元破壊級ユニットの複数投入を決定せざるをえないほどの優先順位を得て、それでこの状況がある。
僕は溜め込んだ知識を総動員して敵生体の情報を探る――竜はあまねく『ディメンジョン・プレーン』に存在するから、当然僕の知識にもある。六つの色を顕す六体の竜、その内の一匹。実際のネームドエネミーとしてはその現身と戦う設定だったが、そこから推測するならばこいつが一番厄介な敵だ。単純に、本当に単純に、強い。
「竜は後回しだ」
『危険だ』
「分かってる。僕はゲヘニトリスを倒す。玖村さん」
「目の前のアイツらを倒せばいいんでしょ? 極神サイクルだったら厄介だけど、ブルムル・ビートなら相性いいわ」
「アイツらは君の世界から来たのか……僕のところだと、極神たちは世界から去っていた」
「未だに現役で暴れてるわよ、白は保守的だから」
『エイミ、ヨロヒトくん。ゲヘニトリスは危険だわ。多分、アンブロッカブルよ。奇襲性特化タイプのモンスターね』
「ENEの支援無しでアサシン・スタイルと戦うのはきついけど、大丈夫。君たちが一緒に戦うなら、『ヨロヒト』は無敵だ。そういうふうに育てた」
『私の計算領域を使うなよ、ヨロヒト。蒼い霧の竜をバインドするのに忙しい』
「うん。……玖村さん」
背中越しの彼女に告げる。
背中合わせのプレイヤー。
願いを込めて、彼女に祈る。
「告げてくれ、戦いの合図を。君が、戦いの主人だ」
背中越しに彼女が震える。
背中合わせの逃亡者。
祈りに、プレイヤーは答える。
「ディメンジョン・オープン!」
§
戦端は、ENEと『蒼い霧の竜』がお互いの存在力場を押し付けあうところから始まった。すなわち『彼方軍』とプレイヤーの存在は互いに相いれぬものであるから、双方の行使したい情報はまず対象を自分の作用力場に取り込むところから始まる。ENEと『蒼い霧の竜』ほどの存在同士であるならば、そうした行為がすでに行使したい情報も含まれているので、2つの高次存在が行なっているのはいわば情報的殴り合いとも表現出来た。マイクロ単位秒で双方が繰り出す猛烈な情報的やり取り――それは『蒼い霧の竜』とENEの間にある空間に膨大なレギオン粒子を滞空させ、竜の影響により霧を発生、ENE側の欺瞞情報の残滓により雷鳴を轟かせている。『蒼い霧の竜』は六つの竜の中でも謀略と知恵に長けた存在であり、対するENEはこれに全計算能力で対抗せねばならない。蒼い霧の竜は実質的にENE封じだ、と『ヨロヒト』もENEも気づいていたが、それに乗るしかない。ENEの性能は桁外れだ。すべての次元を参照しても最上位に位置するENEの次元では、ほぼすべての存在が全知全能に近い。メタ的な次元から下位の次元を操作する。蒼い霧の竜は『ディメンジョン・プレーン』の中で最強のモンスターだが、ENEの得意分野で戦闘を仕掛けられては、五分五分にまでしかならない――いや、やはり竜のほうが、強い。『ディメンジョン・プレーン』は、ENEが存在した次元の上にも広がっている。はやく『ヨロヒト』と玖村・詠美が竜に挑まなければ、危うい。
玖村・詠美は巡礼騎士団をなぎ払っていた。正確には玖村・詠美のデッキから召喚された赤属性のモンスター、フレイムダンサーと黄属性のモンスター、アーチャーエンジェルがアタックを敢行、後攻を選択していた詠美は突出してきた巡礼騎士団の強行偵察部隊に対して壊滅的な打撃を与えていた。このターンに置いてアドバンテージを取ったのはしかし、極神帝ブルムル。強行偵察部隊は、相手の手札をさらけ出し対策を撃ち出すための囮だ。部隊の一人でも戻ってきたならその役目は果たしている――すなわち玖村・詠美はブルムル、ひいてはブルムルを操るカードバトラーに速攻魔法『強行偵察』を発動され、自らの手札3枚を開示した、と言うことになる。開示した手札は『ソーン・バインド』、『妖魔の狂宴』、『チャーミング・ドロー』。詠美、ソーン・バインドと妖魔の狂宴を場に伏せ、速攻魔法チャーミング・ドローを発動。三枚を追加でドローし、ターンエンド。『アマルガム』は、自分自身を呼ぶよりも六色の女性型モンスターによる物量戦、ビートダウンを狙えとアドバイス。ブルムルがその能力を発揮する前に終わらせたいが、すでに展開している巡礼騎士団の護りは堅固だ。しかしこちらにもフィールド魔法『シンダル永久氷壁の長越砦』が発動しているので、モンスターの召喚はし易いし、攻撃も有利。となれば『シクス・リング・ブレイク』によるアンブロッカブル攻撃と力技での殲滅撃破、双方の勝ち筋を狙っていきたい。玖村・詠美、同意。第二ターン、巡礼騎士団が再び突撃。
そこまでの戦闘情報を僕は『ヨロヒト』の多重視界で逐一確認しながら、ENEの長剣型筐体に幾つもの強化スペルを重ねがけする。もともとこの筐体は、僕、『ヨロヒト』が所持していた最高ランクの武器だ。『ディメンジョン・プレーン』で最強、ではない。『ヨロヒト』は器用貧乏の極地として育て上げたから、各装備の最強ランク武具は装備できない。だが、代わりにこの剣は、僕にしか扱えない最高の武器だ。『ヨロヒト』のキャラクター特性がこの武器を望み、またこの武器が、『ヨロヒト』を望んだ、そういう武器。
僕の戦場は、砦背後の山頂だった。アサシン・クラスを相手取るには、障害物がないほうがいい。もちろん相手は次元破壊級ユニットであるからそんなものは不利になどなるまい。何もない虚空から奇襲してくる事も十分にありえる。だが、それに対抗出来るぐらいには、僕は『ヨロヒト』を育て上げたつもりだ。
考える――『布津ノ騙』ゲヘニトリス。二つ名持ちなのだから、そこからどのような攻撃手段を取ってくるモンスターか想像する。それは、初めて遭遇する未知なる敵へ対抗するように、『ディメンジョン・プレーン』制作チームが決めたルールだ。少なくとも僕の次元ではそうだった。ゲヘニトリス。聞いたことはない。いや、しかし、だが、『布津ノ騙』、何か引っかかる……そうだ、アバルダ地方の殺戮舞踏遊戯では、そんな法則で二つ名を決める事があった。あの遊戯にアサシン・クラスは居ない。だから、きっと僕が相対するのは、その存在しないモンスター……
「……思い出した!」
ガキン、と刃と刃が噛みあう金属音が零下の世界に響き渡る。刃――そうだ、超強化した僕の身体能力と視界、情報収集能力が、ヤツの残像を捉えた。
それは、剣だ。
ただ一振りの剣だけが、その担い手もなく、僕の背後を切り裂いていった。
「殺戮舞踏遊戯のクエストに合ったな。名前だけは出てきて、その存在を噂されるだけの武具」
僕の多重視界が、ターゲティングさえ間に合わない。ENEのサポートを得られない今、さっきの残像から解析するのは無理だ。だが、あの一瞬、表示された情報は『ヨロヒト』の強化された記憶力がしっかりと把握している――アサシン・クラス? 違う、あれは、アーティフィシャル・クラス。器物だ。だがそんなクラス、僕の『ディメンジョン・プレーン』には無かった。既知外の『ディメンジョン・プレーン』からの存在――なら、それに対抗するにはどうすればいい?
アクティブスキル・コトダマジャミング、バーンネクサスを起動。『ヨロヒト』の周囲に二つの結界スキルが展開され、そこに超々高速でゲヘニトリスが斬りかかった。『ヨロヒト』の性能を持ってしても、それは無数の剣閃が全方位から繰り出されているとしか思えない。だが、
「『ヨロヒト』の言霊を超えてみるか!?」
情報的錯乱を引き起こす、コトダマジャミングに引っかかった。ゲヘニトリスの二つ名、『布津ノ騙』のうち、布津、切れる音をジャミング。だが、止まらない。騙の部分がコトダマ系スキルに対する防御能力を持っている。だから僕はバーンネクサスを発動した――捉えた刀身に高熱を集中投射。ジャミングによって僅かに切れ味の減じた刃を、無理やり溶かす。
代償は、全身殴打の形で来た。『ヨロヒト』、ひいてはキャラクターのウィークポイントである頭部と心臓部を長剣型筐体でなんとか防御したが、それ以外を余すところ無く叩きつけられる。総合HPゲージが一挙に七割を持っていかれた。馬鹿馬鹿しいほどの攻撃力だ。
「なら、その代わりに何を代償とした……!」
身体の損傷はすでに起動しているリジェネ系スキルが一気に回復してくれるが、この攻撃力の前には回復のタイムラグそのものが致命的だ。防御系――意味が無い。ENEのサポートがあれば瞬間的に固められるが、いまの状態では攻撃タイミングに合わせて防御系スキルを発動する事ができない。大ダメージという結果そのものをトリガーとして発動する割合減少防御スキルも、ゲヘニトリスの攻撃は無数の一閃という方法で無力化してくる。予想ではなく、結果だ。すでにさっき試した。
防御能力を無意味とする、攻撃。
食らえば、僕は死ぬだろう。
だが、僕、『ヨロヒト』は生きている。
バーンネクサスによる刃の溶解は、視界の隅で表示される玖村さんのフレイム・ダンサーが、騎士たちの武器を溶かした事に発想を得ている。だから、死ななかった。
一人では、死んでいた。
だが、これは、パーティ・プレイだ。
ENEが竜を押しとどめ、玖村さんとアマルガムが指揮を取る。
だから、『ヨロヒト』は負けない。
負けなければ、勝てる。
「アクティブスキル・ミラージュコンケスト、セルフディストラクション、コトダマダブル」
防御に意味が無い。
攻撃が強力すぎる。
だから、何だ。
『ヨロヒト』は、そんな程度じゃ倒せない。
お前が代償にした、敗北の味を食らわせてやる。
「コンプレックスアクテイブスキル・リバースデストロイ、起動!」
『ヨロヒト』の実像が揺らぐ――ミラージュ系スキルの発動完了合図――その全てにゲヘニトリスが全方位殴打。
その瞬間、無数のゲヘニトリスを捉えた一つのトリガーが、数倍の攻撃力を以ってゲヘニトリスを力場打撃。
自爆により受けたダメージを数倍にして返し、さらにコトダマによって自爆ダメージを虚に移り変わらせる、肉を切らせて骨を断つ一撃が、ゲヘニトリス、その刀身を粉々に打ち砕いた。
零下白銀の世界に、刃金の塵が舞い踊る。
灰塵のように。
滅びのしるし。
『布津ノ騙』ゲヘニトリス、撃破完了。