見合い肖像を丸めて捨てたら、額に当たった辺境伯が毎週「修正を頼む」と通ってきます
「すばらしい。傷がどこにあったのか、まるでわからない」
テオフィルは修復した指輪を光にかざした。私の顔ではなく、指輪を。
正しい鑑賞態度である。
宝石の台座には、以前の職人が欠けを隠そうとして盛った金が三層あった。私は小さなパレットナイフの先で余計な上塗りだけを剥がし、元の細工を掘り出したところだ。
「クロエの技術なら、王都でも評判になるだろう。結婚後は我が家の工房名で発表すれば、さらに格が上がる」
来た。
賞賛、金箔三層仕上げ。剥がすと下から他人の名前が出てくる。
「その場合、作者名はどうなりますか」
「もちろん我が家の名だ。君も家族になるのだから、同じことだろう?」
同じではない。私の手とテオフィルの姓は、接着すらしていない。
「では、この縁談はお断りします」
「なぜだ?」
「格が上がりすぎて、私が見えなくなりそうですので」
テオフィルは指輪と私を一度ずつ見た。指輪のほうを惜しそうに見たので、私は判断に自信を持った。
指輪は修復できた。縁談は剥離した。工房の床には金粉ひとつ落ちなかった。上出来である。
「よかったわね、クロエ。断れて」
姉のアドリエンヌは胸を撫で下ろした。
「先方には、あなたは気難しい職人だとだけ伝えておくわ。顔のことを言われたなんて、絶対に広めさせないから」
「まだ誰にも顔のことは言われていないけれど」
「あっ」
姉の声が小さくなった。都合の悪い箇所だけ顔料を薄める癖がある。
私が名を出さず、姉の工房名で仕事を受けるようになったのは、こういう善意が一層ずつ塗られた結果だった。
技術は一流、名は出すな。ご注文は金箔、仕上げは透明人間らしい。
もっとも、透明人間にも次の見合いは来た。
「好きな仕事を続けさせてあげる」
ユルバンは帳面を開いて言った。
まだ結婚していないのに、私の修正料が左頁に収入として記載されている。恐るべき筆の速さ。求婚より先に入金済みである。
「報酬は家計へ入れるとして、納期は婚家からの依頼を優先。作者名は夫婦連名がいい。君一人の名では取引先が不安がるからね」
「私の仕事を、私が続けるのですよね?」
「当然だ。私は理解のある夫になるつもりだよ」
ひび割れ要注意。
表面だけ乾いていて、下地はまだぬるぬるしている。触れば指紋どころか人生まで取られそうだ。
「お断りします」
「何が不満なんだ。仕事を禁じるとは言っていない」
「ええ。報酬と納期と名前を取るだけですものね」
ユルバンは帳面を閉じた。私の収入が挟まれて見えなくなった。
「女一人で工房を持つのは難しいぞ」
「だから姉の工房におります」
姉が扉の陰で力強く頷いた。そこだけ切り取れば頼もしい。私の作者名を伏せ、依頼だけを倍にした張本人でなければ。
ユルバンが帰ったあと、姉はまた胸を撫で下ろした。
「今度も守れてよかったわ」
「何から?」
「いろいろよ」
「姉さんが持ち込む、いろいろから?」
姉は依頼票の束を抱え直した。
紙は喋らない。便利な盾である。ついでに、姉は私の机へ次の盾を置いた。
「辺境伯様から肖像画の修復依頼よ。古傷のある方だから、余計なことは聞かないでね」
「聞かない。見ればわかるから」
人の顔を直す仕事ではない。絵についた傷を直す仕事だ。
この違いを理解しない者が、なぜか見合いの席には多い。二人続いたので、三人目からは入場料を取りたい。
* * *
依頼票の束から、私の胸元が出てきた。
正確には、現実の私には存在しないほど宝石まみれの胸元である。
「姉さん」
「はい」
「これは何」
「肖像よ」
「誰の」
「あなたの」
見ればわかる。腹立たしいほど顔だけは私だった。
腰は半分の細さに削られ、頬には薔薇色が足され、髪には真珠が増殖している。首飾りだけで工房の屋根が二度直せそうだ。肖像の中の私は、呼吸をやめる代わりに結婚市場へ出荷されるらしい。
「なぜ辺境伯様の依頼束に?」
「だって、先方は婚約相手も探しているって。あなたの腕を正当に評価してくださる方なら、今度こそ——」
「依頼へ見合い肖像を混入させるのは、正当な評価ではなく異物混入」
「会ってから断っても遅くないでしょう?」
「前二人もそう言った」
私は肖像を巻いた。
一点物の婚約用肖像だそうだ。絵師が三か月かけ、姉が三日隠し、私が三秒で筒にした。最短記録である。
「外へ出してくる」
「どこへ?」
「私の視界の外」
工房の扉を開け、抱えた筒を脇へ払った。
ぼすん。
「ぐっ」
肖像が、背の高い男の額へ当たった。
男は一歩だけ後ろへよろめき、同行者の手を断って姿勢を戻した。鼻筋がわずかに右へ曲がっている。依頼票にあった古傷の特徴と一致。
辺境伯本人に見合い肖像を投げつけた場合の修正料は、まだ料金表にない。
姉が息を吸った。徒弟たちは刷毛を落とした。
「辺境伯様」
「クロエ嬢か」
「はい。たいへん失礼いたしました。いまの品は納品物ではありません」
「そうか」
辺境伯様は足元の筒を見下ろしたが、拾わなかった。
「開いても?」
「なぜ許可をお求めに?」
「君が捨てようとした物だからだ。所有者の意思を確認すべきだろう」
私と姉は顔を見合わせた。
最初の一手から予定にない。こちらは無礼を詫びる準備をしていたのに、向こうが境界線を引いてきた。戦場が違う。
「構いません」
辺境伯様はそこで初めて肖像を拾い、巻き癖を押さえながら広げた。
「これは君か」
「絵師はそう主張しています」
「君はそう主張していない?」
「首から下は、宝石商と細身の別人です」
辺境伯様は肖像と私を見比べた。テオフィルは指輪を、ユルバンは帳面を見た。三人目は私の顔を見た。
困る。採点表にない。
「なるほど。虚飾を嫌う修復師からの修正指示か」
「違います。拒絶です」
「見合いの?」
「肖像の。見合いもです」
「二つを同時に?」
「効率を重視しました」
辺境伯様は大真面目に頷いた。
「よく伝わった」
伝わっていない気がする。
「次は受け取りの許可を求める」
彼は筒を私へ差し出す前に姿勢を正した。
徒弟の一人が口を半開きにし、もう一人がそっと閉じてやった。姉だけが両手を組んでいる。祈るな。まだ事故報告の途中だ。
「ところで、私の依頼品を見てもらいたい」
「いまですか」
「予約した日時はいまだ」
額を赤くしたまま言われた。貴族の額は硬い。いや、そういう問題ではない。
工房へ入るにも、辺境伯様は敷居の手前で止まった。
「入っても?」
「どうぞ」
一度、鼻先まで入ってから許可を取ろうとした客がいた。辺境伯様は靴の先すら越えていない。
姉が用意した彼の肖像は、巨大な金縁に収められていた。騎乗姿の辺境伯様。広い肩、暗い外套、遠くを見る目。そして顔の中央には、定規で引いたような真っ直ぐな鼻。
「損傷は右下の剥落ですね」
「それも頼みたい。だが、先に顔を直してほしい」
またか。
現実の男が肖像へ寄せるため、こちらへ鼻を差し出してくる。三人目も同じ下地だったら、今度こそ入場料を取る。
「私は外科医ではありません」
「承知している。絵の鼻だ」
辺境伯様は肖像を指した。
「真っ直ぐすぎる。元へ戻してほしい」
私の採点表が白紙になった。
「騎乗時の古傷だ。見合いには不利だからと、絵師が勝手に直したらしい」
「普通は、描かれたほうへ顔を直したがります」
「鼻をもう一度折れと?」
「そういう方もおります。もう少し婉曲ですが」
辺境伯様は自分の肖像をしばらく眺めた。
「この男と結婚する女性は、初対面で鼻が違うと思うだろう」
「そこを気になさるのですか」
「他に何を気にする?」
爵位。領地。財産。婚家の格。妻の収入。妻の名前。
口まで出かかった目録を飲み込み、私は絵へ向き直った。
「元の角度へ戻すには、追加料金がかかります」
「なぜだ。線を曲げるだけでは?」
「真っ直ぐに塗り潰した下から元の線を探し、肌色を合わせ、光の位置もずらします。鼻一本でも顔全体の印象が変わりますので」
「わかった。払おう」
「見合いに不利になる修正ですよ」
「だから直す」
冗談が通じない。脅しも通じない。料金だけが正しく通った。
「最終修正は依頼人立ち会いで行います」
「いつ来ればいい?」
「来週の同じ時刻に」
「工房へ入ってもよい時刻は?」
「予約時刻なら、入る許可も含まれます」
「そうか。では次週、許可を得た時刻に来る」
辺境伯様は依頼票の作者欄を見た。
そこには姉の工房名だけがある。
「修復師の名は?」
「公表しておりません」
「公表ではない。依頼した相手の名を知りたい」
「クロエです」
「では依頼票へクロエと書いてくれ。支払う相手を間違えたくない」
姉が小さく口を開いた。
私は署名欄の空白を見た。
見合い肖像は丸めて捨てた。ところが、ぶつけられた本人は私の名前を拾おうとしている。
しかも来週も来る気だ。鼻一本にしては、たいへん長い修復になりそうだった。
* * *
翌週、辺境伯様は扉の前で待っていた。
「入っても?」
「予約時刻ですので、どうぞ」
次の週も待っていた。
「入っても?」
「どうぞ」
さらに次の週も——いや、鼻の修正は二回で終わるはずだった。
「本日は何のご依頼ですか」
「左目が、実物より威圧的に描かれている」
「実物も十分です」
「では修正不要か?」
「確認料だけいただきます」
「払おう」
正規の修正料は、毎回私宛ての封筒に入っていた。姉の工房を通す手数料も別に計算され、依頼票の作者欄には必ずクロエとある。
その翌週は外套の襟。
次は馬の耳。
さらに次は背景の雲。
肖像画も貴族も、素直に直ってはくれない。とくに後者は毎週、自分で新しい修正箇所を発見してくる。
ただし、工房へ入る前には待つ。絵へ触れる前には聞く。修正料を値切らない。私が残した線を、姉の工房名で覆わない。
姉が「辺境伯様ならいつでも」と扉を開け放っても、彼は私の返事があるまで敷居を越えなかった。
上塗りではないらしい。
その判断だけを済ませ、私は好意という厄介な染みを見なかったことにした。職人にも手をつけない損傷はある。
「鼻の修正費について聞きたい」
七度目の来訪で、辺境伯様は請求書を持ち上げた。
「高すぎましたか」
「安すぎる」
「値上げをご希望の依頼人は初めてです」
「真っ直ぐに描き直すより手間がかかったのだろう」
「曲がったものを元の曲がり方へ戻すのは、案外難しいのです」
「なら、私の鼻は高級品だな」
「曲がり具合に希少価値がございます」
「追加で払おう」
「調子に乗らないでください。鼻一本です」
辺境伯様の口元が動いた。笑ったのだと思う。古傷のせいか、笑みまで少しだけ左右が違う。
私は請求書の端を揃えた。
笑われる前に欠点を数えるのが、私は上手い。彼は一つも訂正しなかった。
「次の請求項目です。背景の雲を減らした分、絵具代は差し引きます」
「労賃は?」
「増えます」
「正しいのか?」
「私が正しくします」
「では頼む」
誰も先ほどの二文に触れなかった。
姉は奥で依頼票を束ね、徒弟たちは刷毛を洗った。辺境伯様は修正料に不足がないか数え直し、私は彼の肖像へ向かった。
飾りを減らすたび、絵の中の男が本人へ近づいていく。
最後に残ったのは、私の見合い肖像との並置だった。
姉は二枚を大きな金の額へ収め、婚約用の展示へ出すつもりでいた。私の返事はまだだというのに、外堀だけは額装済み。世話焼きに金箔を貼ると、たまに攻城兵器になる。
「公開前の最終確認です」
私は脚立に上がり、二枚の位置を確かめた。
片方は曲がった鼻を取り戻した辺境伯様。
もう片方は宝石と細腰を足された私。
並べると、詐欺の規模が倍になった。
「そちらは直さないのか」
辺境伯様が私の肖像を見て言った。
「一点物です。いまから大きく手を入れれば公開日に間に合いません」
「公開したい?」
そんな質問をするから、手が止まる。
「依頼は受けました」
「聞いたのは依頼ではない」
金の額の中で、知らない私が微笑んでいた。
* * *
金具が鳴った。
かちり、ではない。
べきっ。
嫌な音には、たいてい十分な根拠がある。
「下がって!」
上部の固定具が壁から抜け、大額が前へ傾いた。真下には辺境伯様がいる。
徒弟たちが散った。
「額が!」
「辺境伯様、右へ!」
「右は棚です!」
遅い。
私は脚立から身を投げ、作業台の小さなパレットナイフを掴んだ。厚い絵具は傷つけず、不要な層だけへ潜り込ませる、私の手の延長だ。
落ちてくる金縁と画布の間へ刃を差し込み、留め布を一息に裂く。
布が鳴った。
画布が額から外れ、ふわりと前へ倒れる。
私はそれごと辺境伯様の胸へ飛び込み、外套を掴んで引き倒した。
どおん!
金の額が床を割った。
工房が跳ねた。瓶が震え、刷毛が転がり、姉の悲鳴が一拍遅れて天井へ刺さった。
「無事ですか!」
「私は無事だ。君は?」
「肘を打ちました」
「医者を」
「先に絵を!」
「絵より君だ」
大真面目に怒鳴られた。耳が痛い。
勝った。何にとは言えないが、絵より先になった。こんなところで職人の順位表を更新させるな、私!
徒弟たちが、床の穴と倒れた私たちを交互に見た。
「お二人とも無傷……」
「床だけ致命傷……」
「額縁の負けです」
「実況はいいから起こして!」
辺境伯様が先に立ち、私へ手を差し出しかけて止めた。
「触れても?」
この状況でも聞くのか。
「お願いします」
手を取ると、一度で引き起こされた。温かい。硬い。頼むから工房の真ん中で確認させないでほしい。徒弟たちの目が増える。
外れた画布は裂けていなかった。
二人分の肖像が、割れた床の上へ横たわっている。重い金縁だけが落ち、塗り足された顔は無事。
無事であることに、腹が立った。
私は作業台へ画布を広げた。
「クロエ?」
「一点物なので、切れば納期までに作り直せません」
「ああ」
「弁償になります。婚約用としても使えなくなります」
「そうだな」
「姉さんの工房にも損が出ます。評判も落ちるかもしれません」
姉は口元を押さえたまま、何も言わない。
「それでも、これは残しません」
刃を入れた。
宝石を切り落とす。
現実にはない細腰を切り落とす。
窮屈な笑みの端も落とした。肖像の中の私は、飾りを失うたびに小さくなるのではなく、ようやく一人分の場所へ戻ってきた。
画布の切れ端が床へ滑った。
「弁償します。破談も受けます」
「誰が破談にすると?」
「辺境伯様です」
「私はまだ婚約の承諾を得ていない」
正論で刺された。
「では、見合いを取り下げますか」
「君が望むなら」
「展示は」
「取りやめる」
「肖像の公開も?」
「しない」
返事が速い。名誉も金も納期も並べない。姉の顔色も見ない。
「私の肖像まで外れましたが」
「構わない」
「修正料をずいぶん払ったのに」
「公開しなくても、直したことはなくならない」
辺境伯様は切り落とされた宝石ではなく、残った私の顔を見た。
「君が残したくないものを、私の都合で飾るつもりはない」
「せっかくの婚約用肖像ですよ」
「婚約より先に肖像が完成するほうがおかしい」
それは姉に言ってほしい。
けれど姉は、床の切れ端を拾おうとも、私へ謝ろうともしなかった。ただ依頼票を胸に抱え、口を閉じている。
辺境伯様は割れた床の手前で膝をつき、外れた画布の端を持ち上げた。
「どこまで残したい?」
私が決めるまで待っていたのだ。
彼が持ち上げたのは、切れた画布の端だけだった。直すものも、残すものも、私の代わりに決めない。
「匿名なのは、謙遜ではなかったのだな」
辺境伯様の声が低くなった。
「名を出したくないのだと思っていた。違った。出したあと、顔まで値踏みされるのが嫌だったのか」
「技術を褒める方は多いです。そのあとで、名前か報酬か時間を持っていきます」
「私は?」
「鼻の修正料を増やそうとしました」
「不足だと思った」
「知っています」
そこが困る。
欲しいものを取り上げる者には、断ればいい。返し続ける者には、隠れている理由が少しずつ足りなくなる。
「辺境伯様」
「何だ」
「残った画布へ、私を描き直しても構いませんか」
「君の肖像だ。私に許可を求める必要はない」
「いいえ」
私は彼の肖像の隣を指した。
「そこへ、私が立っても?」
辺境伯様は返事をしなかった。
曲がった鼻の下で、唇が一度閉じた。喉が動く。彼の手が画布を持ったまま、ほんの少し強くなる。
「私の隣に?」
「肖像の中では、です」
「中だけ?」
冗談を額面どおり受け取る男が、初めて余分な一語を拾った。
私は切り落とした宝石を足先で脇へ寄せた。
「展示日までに考えます」
「公開は取りやめると言った」
「私が公開します」
「したいのか」
「はい」
「見合い肖像として?」
「いいえ。修復師クロエの作品として」
私は息を吸った。
「それから、エヴラール様」
呼び名を変えると、彼の眉が上がった。
「肖像の外でも、隣を空けておいてください」
金の額は床を割った。残ったのは、塗り足されていない二人の顔だった。
承諾の言葉は、彼の口からすぐには出なかった。
代わりにエヴラール様は、私の切った画布を両手で持ち直した。傷口へ触れないよう、端だけを選んで。
「どのくらい空ければいい?」
「近すぎると描きにくいです」
「では、君が決めてくれ」
私は新しい木枠を持ってこさせた。
金箔は使わない。切断跡を隠さず、二枚だった画布を一枚の簡素な縁取りへ張り直す。
エヴラール様の曲がった鼻を残した。
私の頬を勝手に赤くしなかった。
宝石の代わりに仕事着の袖を描き、刃を持つ指へ絵具の染みを置いた。彼の隣には、彼より少し狭く、けれど誰にも削られていない私の場所を作った。
最後に署名欄を二つ描いた。
一つには、修復師クロエ。
もう一つには、肖像の二人が選んだ名前を。
* * *
公開の日、姉は展示札を白紙のまま差し出した。
言い訳も、美辞麗句も、勝手な工房名も書かれていない。
「ここ、お願い」
それだけだった。
私は展示札へ自分で記した。
作者、クロエ。
修復、クロエ。
依頼人、エヴラール。
姉は札を奪わず、金槌と釘を私へ渡した。私が位置を決めるまで、壁の前で待っていた。
白い壁には、簡素な木枠の肖像が掛かった。
曲がった鼻の男。
宝石のない女。
縁には切断跡が残り、近づけば一度壊したことがわかる。それでも二人の顔は隠れていない。
前の求婚者たちが噂を聞いたとは、姉から聞いた。
それだけだ。
指輪を誰の名で飾るかも、他人の収入をどの帳面へ入れるかも、もう私の仕事ではない。剥がした上塗りを、わざわざ拾い直す職人はいない。
エヴラール様は肖像の隣ではなく、私の隣に立った。
「次はどこを修正する?」
「ありません」
「鼻の角度は?」
「追加料金です」
「払おう」
「そうではなく、毎週通う口実を修正してください」
「では、何と書けばいい?」
「自分でお考えください」
彼は依頼票を取り出した。
本当に書こうとしている。私はその紙を取り上げた。
「今日は依頼人ではないでしょう」
「何だろう」
「そこも私に修正させる気ですか」
「許可が出るなら」
署名欄は一つで足りるはずだった。隣から覗き込む鼻が、少々邪魔である。
私はその鼻を手のひらで押し戻した。
「近すぎます、エヴラール様」
「離れたほうがいいか?」
「そのままで結構です」




