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これだから!!どうして浮気をするのかしら!!!

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/04/16

 これだから男は、と思った。


 そんな言葉をあからさまに口に出すほど、セシリア・ルーベンス侯爵令嬢は浅慮ではなかった。だが、向かいに座る婚約者の姿を眺めていると、胸の奥に溜まり続けた呆れと軽蔑が、どうしてもその一言へ集約されてしまうのだった。


 午後の光が大きな窓から静かに差し込み、磨き上げられたティーテーブルの上を柔らかく照らしている。白磁のカップには淡い琥珀色の紅茶が揺れ、その香りには上等な茶葉の深みがあった。


 庭では春の花々が見頃を迎え、風が吹くたびに色とりどりの花がかすかに揺れる。誰が見ても穏やかで、品のよい、侯爵家らしい昼下がりだった。


 エドガー・バルティエ公爵令息は、いつもと変わらぬ余裕を湛えて紅茶を口にしていた。整った顔立ち、洗練された物腰、よく通る声。社交界で若い令嬢たちの話題に上るのも分かる。少なくとも外側だけを見れば、彼は非の打ち所のない婚約者だった。


 ――見た目だけなら、だが。


 セシリアは、カップの取っ手に指先を添えたまま、相手の細かな仕草を観察する。以前なら愛着をもって見ていたはずの所作も、今となっては空虚なものにしか映らなかった。言葉を選ぶ間。相手の反応を見てから微笑む癖。自分に都合の悪い話題に触れられそうになると、さりげなく別の話へ流そうとするやり口。そうしたものが、以前よりもずっと鮮明に見えるようになってしまったのは、信頼が失われたからだろう。


 エドガーは浮気をしていた。


 しかも、本人は巧妙に隠しているつもりらしい。そこが実に腹立たしい。もし本気で完璧に隠し通せるだけの頭があるなら、まだしも少しは感心もしたかもしれない。だが実際はそんなものではない。行き先の選び方も、会う頻度も、贈り物の趣味も、あまりに甘い。婚約者を欺いているというより、自分はうまくやれているのだと思い込んでいるだけの愚かさが、滲み出ていた。


「どうかなさいましたか、セシリア」


 穏やかな声でそう尋ねられ、セシリアははっとしたように微笑みを整える。


「いいえ。今日もお元気そうで何よりですわ」


 返答は滑らかだった。侯爵令嬢として、そして長年彼の婚約者として身につけてきた信頼は、こういうときにこそ役に立つ。


 エドガーはその返事に安心したように微笑み、また何でもない話題を口にした。先日の夜会で誰それがどんな失敗をしたとか、今年の夏は避暑地にどの家が先に屋敷を開くつもりだとか、そういう社交界らしい中身の薄い会話である。セシリアも適当に相槌を打ちながら聞いていたが、もちろん内容はほとんど耳に入っていなかった。


 胸の内にあるのは、ただ一つ。

 この男を、どうするか。


 浮気そのものも十分に不快ではあった。婚約者がいる立場で他の女と会っていたというだけで、怒る理由には足りる。だがセシリアが本当に許せなかったのは、そこだけではない。


 この国には古くから根づいた教えがある。家同士で正式に結ばれた婚約は、単なる口約束ではなく、神前の誓いに準ずるものとされる。よって婚約は軽々しく白紙にはできず、当人たちの気分や一時の感情で反故にされるべきではない。責任と節度をもって結ばれ、守られるべきもの――そういう考え方だ。


 それ自体は、別に間違っていない。むしろ家と家の結びつきが社会の基盤でもある貴族社会では、必要な考え方ですらあった。気まぐれで結んで、飽きたら捨てる。そんな振る舞いを許せば、婚約そのものの重みが失われてしまう。


 だが、エドガーはその教えを、誠実に守るためのものとは思っていなかった。


 婚約は簡単には白紙にできない。

 だからセシリアは離れられない。

 ならば、自分が外で多少遊んだところで問題にはならない。


 そう考えているのが、最近の言動から透けて見えていた。そんな浅ましさに、セシリアはほとんど感心すら覚えた。


 ここまでくると、怒りは一周して冷めてくる。泣いて責めたところで、この男はきっと本質的には理解しないだろう。どうしてそこまで怒るのか、少し遊んだくらいで大げさだ、とでも思うに違いない。


 ならば、別の形で理解させるしかない。

 都合よく頼りにしているその教えに牙を。


 そう決めたとき、セシリアの中で迷いはすっかり消えていた。




 ◇




 自室へ戻ると、侍女のマルタが待っていた。


 年齢はセシリアよりいくつか上で、幼い頃から侯爵家に仕えている。侍女としての能力はもちろん、人としても非の打ち所がない人だった。

 セシリアが今の状況で最も頼りにしているのは、実のところ父でも母でもなく、このマルタかもしれない。


「お嬢様、例の件ですが」


 そう言ってマルタが差し出したのは、書きつけられた報告書だけではなかった。


 その下からさらに、数枚の紙が音もなく重ねて置かれる。どれも小ぶりで、急いで束ねられたらしい簡素なものだったが、そこに走る線は驚くほど生き生きとしていた。

 セシリアは一枚を手に取り、目を細める。


「これは……絵?」

「ええ。簡易なものですが、目撃した者の証言をもとに描かせたものです」


 紙面には、見覚えのある横顔があった。


 細身の外套を羽織った男が、馬車の脇で女に手を差し伸べている。顔立ちそのものは細密ではない。だが、誰を描いたものかは一目で分かった。


 エドガーだ。


 しかも、向かい合う娘の仕草まで妙にそれらしい。少し首を傾げ、相手を見上げるように立つ姿は、たしかにミレイユを思わせた。


「よく似ていますわね」

「特徴だけを拾わせたそうです。細部を描き込まずとも、癖や姿勢で意外と分かるものだとか」


 セシリアはもう一枚を手に取った。今度は北通りの菓子店らしき建物の脇から、二人が連れ立って出てくる場面だった。店の看板、ひさしの形、石畳の曲がり具合まで。


「誰に描かせたの」

「市井で流しの絵描きをしている男です。もともとは記事屋の下請けをすることが多いそうで」

「記事屋……?」

「ええ。最近よくございますでしょう。芝居小屋の評判ですとか、市場の騒ぎですとか、妙な色恋沙汰ですとか。ああいった噂話を載せる木版刷りの小冊子に、添え物として簡単な挿絵をつける者です」


 なるほど、とセシリアは紙を見下ろした。


 近年、芸術の流行は少しずつ変わりつつあった。大きな潮目になっているのは、いわゆる印象派と呼ばれる新しい表現である。物の輪郭を厳密に写し取るよりも、その瞬間に見えた光や空気、印象そのものを掬い上げようとする描き方だ。社交界でも話題に上ることが増え、先進的な趣味を誇る貴族の間では、そうした絵画を競うように収集する者まで現れていた。


 もっとも、貴族社会で語られる芸術は、たいてい金のかかったものだ。上質なキャンバス、高価な絵の具、贅沢に取られた制作時間。鮮やかな顔料を惜しげもなく重ね、技術と教養を誇示するような作品こそが“上等な芸術”として扱われる。


 それに対して一般社会の絵は、もっと簡素的だった。


 紙と鉛筆一本、あるいは木炭だけで、必要なものをすばやく描く。色彩の豊かさではなく、瞬時に伝わる分かりやすさが重んじられる。

 通りの出来事を知らせる貼り紙、見世物小屋の宣伝、迷い犬の告知、酒場で回される噂話の挿絵――そういった場では、豪華な絵画など何の役にも立たない。必要なのは、短時間で人目を引き、誰が何をしたかがすぐ分かる線だった。


 ゴシップ記事に添えられる戯画めいた絵など、その最たるものだろう。


「三枚とも、同じ人物が?」

「はい。二枚は目撃談をもとに。最後の一枚は、出入りしていた馬車の御者に聞き取りをして、停車位置や時刻を書き加えてあります」


 渡された最後の紙には、湖畔沿いの遊歩道らしき風景が簡潔に描かれていた。木立の間、やや人目を避ける位置を選ぶようにして並んで歩く男女の姿。遠目の構図であるぶん、かえって周囲との距離感がよく分かる。

 散歩、などというにはあまりにも親密だった。


「よく集めてくれたわ」

「お役に立てたなら何よりです」


 セシリアは紙を揃え、机の上へ静かに置いた。


「絵描きには口止めを?」

「済ませてあります。金で黙る程度の男ではありましたが、念のため別口からも釘を刺しました」

「素晴らしいわね」


 マルタはこういうところで抜かりがない。流石、ルーベンス家一の侍女だった。


「マルタ、これらはどうすれば良いと思う?」


 問われたマルタは、すぐには答えなかった。

 暫く考えた後に口を開いた。


「そうですね……私なら、ゴシップにさせるよりも教会に持って行きます。教会は教えにうるさいので、不貞にも厳しいかと存じます」


 マルタは続けて話す。


「貴族社会の噂に流せば、確かに多少は相手の評判に傷がつくでしょう。ですが、それだけで終わる可能性もございます」

「終わる?」

「ええ。『若い男性によくある軽率な過ちでした』で済まされるかもしれません。周囲も一時は騒ぎますが、いずれ別の噂が出れば忘れ去られてしまうかと」


 たしかにそうだった。


 社交界は残酷なようでいて、案外忘れっぽい。目新しい醜聞が出ればそちらへ流れ、少し時が経てば、以前の失態など面白い可笑しい思い出話程度に薄まっていく。公爵家の嫡男が浮気をしていたという事実も、ただの恋愛沙汰として消費されれば、それで終わってしまうかもしれない。


 だが、それでは足りない。


 セシリアが欲しいのは、一時の恥ではなかった。

 婚約を盾にして裏切りを当然のように続けていた男に、きちんと責任を取らせること。

 その一点だった。


「教会なら違う、と?」

「はい」


 マルタは机の上の報告書へ手を伸ばし、密会の日付が記された箇所をそっと示した。


「お相手がただの遊び相手で終わるなら、まだ言い逃れの余地もございましょう。ですが今回の件は、婚約者がいながら継続的に関係を持ち、しかも婚約が簡単には解消されないことを都合よく考えている節がございます」

「……そうね」

「その点を教会が知れば、色恋沙汰では済ませにくいかと」


 セシリアはゆっくりと頷いた。


 この国で婚約が重い意味を持つのは、まさに教えがあるからだ。誓いの前段階として、責任と節度を伴うものとして扱われているからこそ、家同士の婚約も軽々しく白紙にはできない。


 ならば、その教えを都合よく使って好き勝手している男を、最も許し難く思うのはどこか。

 答えは明白だった。


「……なるほど」


 ゴシップとして流すのは簡単だ。記事屋に金を積めば、面白おかしく仕立てて街にばらまくこともできるだろう。挿絵つきならなおのこと、人目を引くに違いない。公爵家の嫡男と若い令嬢の密会など、庶民にとっても格好の見世物だ。


 けれど、それではどうしても品がない。

 何より、騒ぎが大きくなるほど、セシリア自身も巻き込まれてかねない。婚約者を裏切られた侯爵令嬢という立場は、同情も買うだろうが、同時に好奇の目も集まる。面白半分に消費されるだけの材料にされるのは、ひどく不愉快だった。


「教会は、こういうことに厳しいかしら」

「厳しいと思われます」


 マルタははっきりと言った。


「教えを重んじるというのは、婚約の解消を難しくすることだけではございません。婚約に伴う誠実さを求めることでもあります」

「そうね」

「ですから、婚約を維持したまま外で不貞を働くなど、教会にしてみれば一番面倒な類ではないでしょうか。見過ごせば、教えそのものが軽んじられますので」


 そこまで聞いて、セシリアはようやく胸の内にあった違和感を掴めた気がした。


 ただ浮気されたから腹が立つ。

 もちろん、それもある。


 けれどそれ以上に腹立たしいのは、エドガーが婚約の重みを、責任ではなく保身の道具として扱っていることだ。婚約は白紙にしにくいのだから、自分は安全だと信じている。その甘さ、その傲慢さが、どうしようもなく癪に障る。


「教会に持って行くなら、これも添えるべきかしら」


 セシリアが束を指先で軽く持ち上げると、マルタはためらいなく頷いた。


「はい。証言と証拠さえあれば十分ではありますが、念のため、それも添えましょう。百聞は一見にしかずと申しますから」


 

 そうして2人はその日の内に資料をかき集め、教会へ『信徒に対する苦情』という名目で送付したのだった。




 ◇




 それから数日後のことだった。


 昼過ぎ、侯爵家の執務棟から使いの者がやって来て、セシリアのもとへ一通の封書を届けた。差出人を確認した瞬間、セシリアはわずかに眉を上げる。


 教会からだった。


 厚みのある上質な紙に、見慣れた封蝋。個人宛ての手紙というより、きちんとした通達に近い。しかも差出人の名は、先日取り次ぎを受けた下位の聖職者ではなく、教会内でもかなり上位にある者の連署になっている。


 思ったより早い。

 いや、早いというより――何かが妙だった。


 ただの受領報告や、後日の聞き取りに関する通知なら、ここまで仰々しい文面にはならないはずだ。セシリアは無意識に指先へ力を込めながら、封を切った。


 最初の数行は、形式的な挨拶だった。先日送付された資料を確かに受領したこと、その内容が重大であると判断されたこと、速やかに確認を進めたこと。そこまでは予想の範囲内だった。


 だが、その次の一文で、セシリアの視線が止まる。


「……何、これ」


 マルタが一歩近づく。


「どうなさいましたか」

「とんでもないことが書いてあるわ」


 セシリアは便箋を持ち直し、もう一度そこを読み返した。見間違いではない。文面には確かにそう書いてあった。


 教会は、エドガー・バルティエをすでに捕縛している事。現在、教会内の裁定に基づき厳重な拘束下に置いている――と。


 捕縛、ずいぶん物騒な言葉だった。もちろん、この国で教会が一定の裁定権を持つことは知っている。とくに婚約や誓約のような、教えに深く関わる問題については、その影響力は世俗の法より重く働くことすらある。だから調査が入ることも、場合によっては何らかの処分が下されることも理解していた。


 だが、まさか捕まえたとは思ってはいなかったが。


 教会はエドガーを単に叱責したのではない。事情聴取の名目で呼び出した上で、その場で拘束したらしい。婚約に関する重大な背信だけでなく、教えの権威を私的な保身に利用し、他の信徒にも悪しき前例を示しかねない危険な振る舞いと判断した、と書かれている。


 そして、エドガー・バルティエは今後、教会において“いない人間”として扱う――そう明記されていたのである。


 当然、その処理は婚約にも及ぶ。


 セシリアは視線を滑らせ、次の一文を読んだ。


 エドガー・バルティエを前提として成立していた婚約は、その当人が教会の記録上存在しないものとされる以上、はじめから成立しなかったものとして扱う。よって、セシリア・ルーベンスとの婚約もまた、白紙に戻すのではなく、初めより存在しなかったものとする――そう書かれていた。


 破棄ではなく、解消でもなく、ましてや円満に取りやめるというような生ぬるい話でもない。


 なかったことになるのだ。


 そのあまりの徹底ぶりに、セシリアはしばらく便箋を持ったまま動けなかった。


 この顛末を皮肉というには、あまりにも容赦がない結末だった。


 婚約を守ってもらうつもりで教えに寄りかかっていたはずが、その教えそのものから、お前など初めから数えていないと言い渡されたに等しい。


 ぞくりとするほど冷たい裁定だった。


 しかも文面は、そこで終わらない。


 続く段落には、バルティエ家に対する処分が簡潔に記されていた。


 これまでバルティエ家が教会へ行ってきた寄進によって認められていた諸々の特権は、今回の件を受けてすべて没収する、とある。


 寄進そのものは珍しいことではない。上流貴族にとって教会への寄進は、信仰心の表れであると同時に、家の威信を示す行為でもある。祭礼での扱い、座席順、特定の儀式への参与、教会との関係の深さによって得られる便宜。目に見えるものも、見えにくいものも含めて、それは確かに“特権”として機能していた。


 バルティエ家ほどの家柄であれば、なおさらだろう。長年の寄進によって築かれた立場は、ただの名誉では済まない。社交界での発言力にも、他家との関係にも、影響を与えていたはずだ。


 それが没収される。


 つまり今回の件は、エドガー個人の失態として処理されるのではなく、家が教会との間に積み上げてきた信用すら揺るがすものとして見なされたのだ。


 セシリアは小さく息を吐いた。


 恐ろしい、とまず思った。

 教会は本気で怒っている。


 それがこの文面の端々から伝わってきた。


 もっとも、そこでようやく、文面の最後の方にある一節が視界に入る。


 エドガー本人に対しては今後しかるべき隔離と監督を行うが、死罪に処するものではない――とあった。


 そこを読んで、セシリアはほんのわずかに肩の力を抜いた。


 処刑されるわけではないらしい。


 さすがにそこまで行けば寝覚めが悪い、という感想が最初に浮かんだ自分に、少しだけ苦笑したくなる。無論、彼に同情したわけではない。ただ、どれほど腹が立っていても、かつて婚約者だった相手が処刑されるという結末を望んでいたわけではなかった。


 セシリアは便箋を持つ手を少し下ろし、窓の外へ視線を向けた。


 庭はいつも通りだった。花壇があり、春の光が差し、風に葉が揺れている。世界は何も変わっていないように見える。だが、たった今、一つの関係は完全に断ち切られたのだ。


 いや、断ち切られたという表現すら正確ではないのかもしれない。


 教会の裁定によれば、それは最初から存在しなかったことになったのだから。

とある宗教や芸術を参考にし、独自の設定を入れております。

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