後編 黒は、咲く
ローズガーデン女学院の空気は、たった数日で変わった。
廊下を歩けば、白い制服のどこかに必ず薔薇がある。
胸元、襟元、髪飾り、手首。
小さなものから控えめなものまで、令嬢たちは自分なりの薔薇を身につけ始めた。
教師たちは眉をひそめたが、もう止められない。
学院名に薔薇が入っている以上、完全否定しづらい。
何より、生徒たちの表情が以前より明るくなっていた。
「みんな楽しそうじゃん」
「それを起こしたのがノエル様ですの」
「いや、勝手に薔薇を付けただけでしょ」
「薔薇を咲かせたのですわ!」
「その言い方なんかヤダ」
ベルベットは今日も元気で、フィオナは今日も仕事が早く、エクリプスは今日も無口だった。
そしてノエルは今日も、白薔薇のブローチをつけていた。
昼休み。
中庭に出ると、令嬢たちの視線が自然と集まる。
誰かが挨拶し、誰かが真似したいと言い、誰かが今日の薔薇の色を褒める。
ノエルはそのひとつひとつに、適当に返した。
「ごきげんよう、ノエル様」
「ごきげんよう」
「その白薔薇、とてもお似合いです」
「ありがと」
「本日は髪の巻き方も少し違いますわね」
「気づくんだ」
「もちろんですわ!」
熱量が高い。
だが、嫌ではなかった。
そんな中、すっと人垣が割れた。
「ノエル・シュガースパイア」
低く名前を呼んだのは、イグナティア・シンダーだった。
相変わらず背筋が伸びていて、きりっとしていて、そして今日はいつもより少しだけ不機嫌そうだ。
「なに」
「話があるわ」
「ここで?」
「ええ」
周囲の令嬢たちがざわつく。
「わたくし、あなたのやり方は今でも好きではないわ」
「うん」
「軽いし、雑だし、説明も足りないし、令嬢にあるまじきその態度!」
「めちゃくちゃ言うじゃん」
「事実でしょう?」
「否定はしない」
ノエルが素直に頷くと、イグナティアは一瞬だけ言葉に詰まった。
どうもこの相手は、噛みつきがいがない。
「……ですが」
イグナティアは一度、視線を周囲へ流した。
薔薇をつけた令嬢たち。楽しそうに話す顔。前より少し柔らかくなった空気。
「以前より、学院が息苦しくなくなったのは認めるわ」
「へえ?」
「嬉しそうになさらないで」
「別に~」
「ただし! だからといって、あなたに全面的に賛同したわけではありません」
「はいはい」
「『はいはい』ではなく!」
「はい」
そのやり取りに、周囲から小さな笑いが漏れる。
イグナティアの頬がほんの少しだけ赤くなった。
「……ですが、その、なんというか」
「うん」
「わたくしも、ひとつくらいなら薔薇をつけてもよいと思っただけよ」
「え?」
「何よ」
ノエルはじっとイグナティアの胸元を見た。
そこには、これまでなかった小さな飾りがあった。
赤にも見えるが、光の加減で深い紅にも見える、控えめな薔薇。
「薔薇、付けてんじゃん」
「今頃気づいたの!?」
「へー。可愛い。似合ってる」
「っ……!」
イグナティアが完全に固まった。
「に、似合うとか、そんなお世辞……」
「いや、ほんとに似合ってるけど」
「…………」
周囲の令嬢たちが息を呑む。
ベルベットは今にも叫びそうな顔で口を押さえていた。
フィオナは冷静を装いながらも、目だけが妙に輝いている。
エクリプスは小さく頷いた。
「……赤は、強い者に似合う」
「ありがとう、エクリプス様」
「褒められて嬉しいんじゃん」
「うるさいわね!」
その瞬間、中庭が少しだけやわらかい笑いに包まれた。
ノエルはぼんやりと思う。
ああ、ほんとに変わったんだな、と。
前はみんな、白い制服の中で縮こまっていた。
格式、規律、淑女らしさ。
誰かに見られるための「正しさ」ばかり気にして、自分が何を着たいか、どうありたいかなんて、口にもできなかった。
でも今は違う。
「ノエル様!」
ベルベットが耐えきれずに飛び出してきた。
「ついにですわ! ついに! イグナティア様までもが!」
「うるさ」
「これで白薔薇派の中にも変化が……いえ、もはや時代が! 時代が動いておりますわ!」
「ベルベット、それいつも言ってる」
「だって本当にそうなのですもの!」
フィオナが静かに告げる。
「現状、学内上位層の過半数が何らかの薔薇意匠を受け入れました」
「なにその報告」
「つまり、流れは決まりました」
「……なにが」
「ノエル様が、流行の中心だということです」
「それは困る」
「もう遅いです」
「フィオナ、言い切るね」
「はい」
そこへ、再び周囲がざわめいた。
今度は誰かと思えば、回廊から降りてきたローゼリア・ヴァルモンド――薔薇の女王だった。
誰もが息を潜める。
白い陽光の中で、彼女はまるで一輪の白薔薇そのものだった。
ただし、今日は違う。
その胸元には、極小の銀の薔薇がひとつだけ留められていた。
「え」
「まさか……」
「ローゼリア様が……」
ざわめきが一気に広がる。
ローゼリアはゆっくりとノエルの前まで来ると、静かに言った。
「学院名に薔薇を冠する以上、薔薇の意匠を完全に否定するのは不自然ですわね」
「……そっか」
「ですが、勘違いなさらないで。これはあなたに倣ったわけではありません」
「別にそれでいいけど」
「ただ」
ローゼリアはわずかに目を細めた。
「あなたが咲かせた薔薇は、もう無視できないものになっている。それだけは認めますわ」
それだけ言って、彼女は踵を返した。
去っていく背中を見送りながら、ベルベットが震える声を出す。
「み、認められましたわ……」
「そうなの?」
「そうですとも!」
「へえ」
ノエルはあっさりしたものだった。
だが周囲はそうではない。
「ついに……」
「白薔薇の女王が……」
「ノエル・ローズ様を……」
ささやきが重なっていく。
その日の放課後。
中庭の噴水前には、いつの間にか令嬢たちが集まっていた。
「なんでこんなに人がいるの」
「ノエル様を一目見たい方々ですわ」
「一目見たら帰ってほしい」
「無理です」
「フィオナ、即答だね」
「はい」
令嬢たちの視線は、熱を帯びていた。
憧れ。尊敬。好奇心。
そして、崇拝に近い何か。
ノエルはちょっと引いた。
「……アタシ、別にそんな大したことしてないんだけど」
「なさっておりますわ!」
「してる」
「……十分に」
ベルベット、フィオナ、エクリプスが順番に言い切る。
「ノエル様は、皆様に『好き』を許したのですわ」
「市場を変えました」
「空気も」
ノエルはしばらく黙った。
それから、肩をすくめる。
「そんな大袈裟なもんじゃないんだけどなー」
「では、どのようなおつもりだったのです?」
「んー……」
ベルベットに問われ、ノエルは少し考えた。
どう言えば伝わるだろう。
この世界の令嬢たちは、『黒ギャル』を知らない。
日焼けした小麦色の肌。
金髪・派手な巻き髪。
つけまつげやカラコンで「盛る」メイク。
自分の「好き」を詰め込んだ、こだわりのギャルネイル。
そんなおしゃれの価値観が懐かしい。
「……実はアタシ、(前世で)黒ギャルだったんだよね」
ぽろりとこぼす。
その場が静まり返った。
「……くろ?」
「ギャル?」
「黒、ですの?」
予想どおりの反応だ。
「いや、忘れて……」
「ノエル様、黒ギャル?とはなんでしょう」
「色の黒?」
「黒の……淑女……?」
「いや、淑女ではない」
「では、黒の哲学……?」
「哲学でもない」
「闇の美学ですの!?」
「なんでそうなるの、ベルベット」
ベルベットの目が、また危険な輝きを放ち始める。
フィオナはすでに何かを計算している顔だ。
エクリプスは静かに呟いた。
「……黒。夜。深淵。秘密。強い」
「エクリプスまで乗らないで」
「つまり!」
ベルベットが高らかに宣言した。
「ノエル様は、黒という新たな美の象徴を宿しておられたのですわ!」
「違う」
「今まで白しか許されなかった学院に、黒という革命色を!」
「だから違うって」
「深い……」
「フィオナまで深いとか言わないで」
しかしもう遅かった。
周囲で聞いていた令嬢たちがざわめく。
「黒……」
「なんて神秘的……」
「夜の薔薇みたい……」
「ノエル様にぴったり……!」
ノエルは額を押さえた。
「やば。嫌な予感しかしない」
「ノエル様!」
ベルベットが両手を取ってくる。
「今この瞬間より、わたくしたちは新たな名を胸に刻みますわ!」
「やめて」
「その名は――」
ベルベットが息を吸い込む。
「ノアール・ノエル!」
「やめてって言ったよね!?」
「素敵です」
「語感が強い」
「……似合う」
三人とも止める気がない。
そして翌朝。
学院の掲示板には、また新しい紙が貼られていた。
【黒は、高貴。黒は、自由。黒は、秘めたる美。ノアール・ノエル観測記録 本日より開始】
「誰がやったのこれ」
「心当たりが多すぎますわ!」
「ベルベット、もう自白してるのと同じなんだけど」
「いいえ、わたくしはただ感動に震えているだけですわ!」
「フィオナ」
「黒染料の試作なら始めています」
「仕事が早い!」
「当然です」
「エクリプス」
「黒薔薇の栽培条件を調べた」
「なんでみんな行動が早いの……」
がっくりと肩を落としながら、ノエルはふと廊下の先を見た。
白い制服の中に、まだほんの少しだけ。
黒の細いリボン。黒い刺繍。黒薔薇めいた小さな飾り。
咲き始めている。
白しかなかった女学院に。
自分の知らないところで、自分の一言から。
「……マジで?」
呟くと、ベルベットが満面の笑みで頷いた。
「ええ、ノアール・ノエル様!」
「それやめて」
「ノエル・ローズ様!」
「それも定着してるんだよなあ……」
「ところで、ノエル様」
「なに?」
フィオナが鞄から小瓶を取り出した。
中には、とろりとした艶のある液体が入っている。
「以前お話しされていた爪先に色をのせる文化について、詳しくお聞かせ願えますか」
「……ネイル?」
「名案だと考えます」
「原料なら、探せる」
「そしてわたくしが広めますわ!」
「やる気すご」
三人の目がきらきらしている。
ノエルはその小瓶を受け取って、光に透かした。
白い学院に、まだない色。
でも、きっとこれから増えていく色。
「……それ、ちょっとアリかも」
その一言で、三人の顔がぱっと輝く。
ああ、また始まる。
だるい。面倒。
でもたぶん、つまらないよりはずっといい。
ローズガーデン女学院。
白だけが許されたこの場所で、今日もまた新しい薔薇が咲く。
その中心にいるのは、やる気のない侯爵令嬢。
死にたがりで、元・黒ギャルで、本人だけが自覚していない学院の頂点。
令嬢たちは彼女をこう呼ぶ。
ノエル・ローズ。
あるいは――ノアール・ノエル、と。
<おわり>




