中編 ノエル・ローズの誕生
「見てくださいませ、ノエル様!」
翌朝の教室で、ベルベットが勢いよく両手を広げた。
その胸元には、昨日までなかった薄紅の薔薇ブローチがきらりと揺れている。
「もう色付き薔薇とか。仕事が早すぎる」
「褒め言葉として受け取りますわ!」
「褒めてないし......」
「ありがとうございます!」
聞いていない。
ノエルは頬杖をついたまま、教室を見回した。
白い制服の胸元に、白、桃、薄紫。
小さな薔薇がいくつも咲いている。
昨日まで全部同じだった景色に、少しだけ色が差していた。
「すご……」
「予想以上ですね」
フィオナが冷静に眼鏡を押し上げる。
彼女の胸元には、控えめな銀細工の台座に留められた淡い黄色の薔薇がついていた。
商家の娘らしい、上品で実用的な仕上がりだ。
「わたくし、昨夜のうちに考えてみました」
「なにを?」
「生花では日持ちしませんから、絹布や樹脂加工で似た質感を出す方法を」
「ほんとに仕事が早い……」
「商品化できます」
「商品化前提なんだ」
「当然です」
当然らしい。
そのとき、廊下がざわついた。
「白薔薇派の方々ですわ」
「もう派閥みたいな呼び方なんだ」
ベルベットの声につられ、何人もの令嬢がそっと背筋を伸ばす。
教室の前を、いかにも格式高そうな令嬢たちが通り過ぎていった。
全員、完璧な白い装い。胸元には何もない。
そして、その中心にいる令嬢がこちらへ視線を向けた。
銀に近い金髪、透けるような白肌、冷ややかな青の瞳。
ただ立っているだけで空気が張りつめるような気品がある。
「あれが、薔薇の女王」
「へえ」
ノエルは一応見た。
確かに綺麗だ。完璧に整っている。立ち姿も絵になる。
でも、ノエルの感想はそこまでだった。
「綺麗だけど、近寄りたくはないタイプ」
「ノエル様!」
「だって怖そうじゃん」
「怖いというか、尊いのですわ!」
ベルベットが興奮気味に囁く。
フィオナが補足した。
「公爵令嬢ローゼリア・ヴァルモンド様。学内序列の頂点。伝統と格式の象徴です」
「ふーん」
「『白薔薇の女王』とも呼ばれています」
「白薔薇ね」
ノエルは自分の胸元の白薔薇を見た。
同じ白でも、向こうの白とこちらの白は、たぶん意味が違う。
そのとき、きつい声が飛んだ。
「ずいぶん賑やかですことね」
振り向くと、燃えるような赤毛の令嬢が立っていた。
強い吊り目。きっぱりした顎。胸元には何もついていない。
制服の着こなしは完璧だが、表情があまりに不機嫌だった。
「イグナティア様……」
「ごきげんよう」
イグナティア・シンダー。
同じく侯爵家の令嬢で、白薔薇派寄りの有力者。
気が強く、規律に厳しく、ノエルとは相性が悪そうな相手だ。
「その妙な飾り、まだ外していなかったのね」
「妙な飾りって、薔薇だけど」
「見ればわかるわ。制服は学院の品位を示すものよ。勝手に色気づいて乱すなんて」
「色気づくって、薔薇ひとつで?」
「そういう軽薄さが下品だと言っているの!」
教室がしん、と静まる。
ベルベットが今にも噛みつきそうな顔をしたが、ノエルは先に口を開いた。
「別に軽薄でよくない?」
「は?」
「可愛いほうがいいじゃん」
「……なんですって?」
「この制服、真っ白でのっぺりしてて、見てて眠くなるし。薔薇ついてたほうが可愛い。以上」
あまりにもあっさり言われて、イグナティアの眉がぴくりと揺れた。
「学院の規律より、ご自分の好みを優先なさるの?」
「だって、その規律、可愛くないし」
「ノエル様……!」
「いや、事実でしょ」
ノエルは周囲を見回した。
「みんな、ほんとは思ってたんじゃないの? ちょっとくらい可愛くしたいって」
その言葉に、何人かの令嬢がびくりと肩を揺らした。
目を逸らす子もいる。けれど、否定する声は出ない。
イグナティアが唇を結ぶ。
「……淑女とは、目立つために着飾るものではないわ」
「目立つためじゃないし」
「なら何のため?」
「自分のため」
ノエルは、そこで初めて少しだけ真面目な顔をした。
「気分上がるから。鏡見て、今日ちょっといいじゃんって思えたら、それで十分じゃないの」
誰かが息を呑んだ。
たったそれだけの言葉が、妙に教室に残った。
イグナティアはしばらくノエルを睨んでいたが、やがてふいと顔を背ける。
「……くだらないわ」
「そっか」
「ですが」
くるりと振り返り、その視線が令嬢たちを薙いだ。
「学院の規律を軽んじる方々が増えるなら、見過ごせません。近く、正式に抗議いたします」
「勝手にどうぞ」
「そうさせていただくわ」
イグナティアはきびすを返し、教室を出て行った。
その背中が見えなくなった途端、ベルベットが机を叩いた。
「なんてことを! なんてことを言うんですの、あの方は!」
「ベルベットも大概うるさいけどね」
「ノエル様の美学を軽んじるなど万死に値しますわ!」
「万死は言い過ぎ」
フィオナが静かにノートを開く。
「ですが、対立軸が明確になったのは悪くありません」
「悪くなくはないんだ」
「ええ。流行には、必ず反発が伴います。そのほうが広がる」
「商人の発想だ……」
「ありがとうございます」
やはり褒めていない。
その日の午後、薔薇ブローチはさらに増えた。
最初はこっそり胸元に隠すようにつけていた令嬢も、ひとりが認められれば、ふたりめは堂々とできる。
三人いれば空気が変わる。
十人を超えれば、もう流れは止まらない。
廊下ですれ違うたび、誰かがノエルの胸元を見て、嬉しそうに微笑む。
「ごきげんよう、ノエル様」
「ごきげんよう」
「その薔薇、本日も素敵ですわ」
「そ? ありがと」
軽く返すと、相手はそれだけで頬を染める。
いちいち大袈裟だな、とノエルは思う。
放課後、中庭に出た途端、もうひと騒ぎ起きた。
「ノエル様! ノエル様!」
「なに、ベルベット。声がでかい」
「聞きまして!?」
「何を?」
「では今お聞きになって!」
ベルベットはくるりとその場で一回転した。
「皆様、ノエル様のことを『ノエル・ローズ』とお呼びになり始めましたの!」
「……は?」
「ノエル・ローズ、ですわ!」
「なにそれ」
「薔薇を咲かせるお方。ローズガーデン女学院に新しい風を吹き込んだお方。つまり、ノエル・ローズ!」
「なんか勝手に通り名ついてるんだけど」
「素敵です」
「別にいいんじゃない?」
「……悪くない」
フィオナとエクリプスが平然と頷く。
「いや、本人の許可なく広まるのどうなの」
「もう広まっておりますので」
「フィオナ、そこをどうにかする気はないの?」
「ございません」
「そう」
中庭の向こうから、二人組の令嬢がひそひそと話しているのが聞こえた。
「ご覧になって、あの方が……」
「ええ、ノエル・ローズ様……」
ノエルは片眉を上げた。
「もうそんなに広まってんの?」
「当然ですわ!」
「当然ではない」
だが、否定しても訂正しても、もうどうにもならない流れになっているらしい。
そのとき、校舎の二階の回廊から視線を感じた。
見上げると、そこにローゼリア・ヴァルモンド――薔薇の女王が立っていた。
白い手すりに指を添え、静かにこちらを見下ろしている。
ベルベットが息を止める。
フィオナも表情を引き締めた。
エクリプスだけが、いつもどおり無表情だ。
ローゼリアは少しだけ目を細めた。
それが敵意なのか、興味なのかはわからない。
けれど確かなことがひとつある。
もう、無視できないところまで来たのだ。
「見られてるね」
「ええ」
「……面倒」
「それでもお進みになりますの?」
「別に進んでないし」
ノエルは肩をすくめた。
「薔薇つけただけじゃん」
そう。
彼女はただ、制服がダサいと思ったから、薔薇をつけただけだ。
なのにそのひとつで、景色が変わる。
令嬢たちの目が変わる。
空気が変わる。
だったらたぶん、ずっとみんな、変わりたかったのだ。
「ノエル様」
フィオナが鞄から小さな包みを取り出した。
「なに」
「試作品です」
「早」
「薔薇ブローチの量産型。布製、樹脂加工、保存魔法補助。安価で扱いやすく、色展開も可能です」
「仕事が早すぎる」
「好機は逃しません」
ベルベットがうっとりとその包みを覗き込む。
「これで学院中に薔薇が咲きますわ……!」
「もうだいぶ咲いてるけどね」
「まだまだですわ。だって、これは始まりですもの!」
始まり。
その言葉に、ノエルはほんの少しだけ笑った。
「……まあ、つまんないよりはいいか」
白一色だった学院に、色が差し始めている。
その中心に自分がいるのは、正直まだ実感がない。
けれどその夜、寮の廊下でノエルはまた耳にした。
「ごきげんよう、ノエル・ローズ様」
「ごきげんよう」
「明日の薔薇は、どんなお色になさるのですか?」
「気分かな」
令嬢たちはそれだけで、うっとりした顔をする。
面倒だ。
だるい。
けれど、少しだけ悪くない。
そして翌朝、学院の掲示板の片隅には、いつの間にか小さなメモが貼られていた。
【本日のおすすめ薔薇色 ― ノエル・ローズ観測記録より】
「誰がやったの、これ」
「わかりませんわ! でも最高ですわ!」
「絶対ベルベットでしょ」
「心外ですわ! 本当に心当たりが多すぎて特定できませんの!」
ノエルは深いため息をついた。
気づけば、彼女の知らないところで。
薔薇はもう、花ではなく名前になっていた。
読んでくださってありがとうございます。
後編(最終話)は 2026/04/08 22:30 頃に更新予定です。




