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短編集(令嬢とかざまぁとか…)

処刑執行人は、私が火あぶりになるのを嫌がっている

作者: 雪月火
掲載日:2025/10/15

冷たい石の床が薄い囚人服を通してイリサの体温を容赦なく奪っていく。

湿った空気は黴と絶望の匂いを運び、牢の鉄格子からは松明の頼りない光がわずかに差し込むだけだった。

王都の片隅で薬師として過ごした穏やかな日々はまるで遠い昔の夢物語のようだ。

彼女は膝を抱え、ただ暗闇を見つめていた。


数日前、彼女の日常は轟音と共に崩れ去った。

いつものように薬草店で調合をしていた昼下がり、店の扉が乱暴に蹴破られた。

踏み込んできたのは冷たい鉄鎧に身を包んだ王宮騎士団の兵士たちだった。


「薬師イリサ! 王太子殿下毒殺未遂の容疑で逮捕する!」


隊長らしき男の鋭い声が店内に響き渡る。

イリサは何が何だか分からず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


「ど、毒殺未遂…? 人違いです! 私がそんなこと…」


「黙れ!」


兵士の一人が彼女の腕を掴み乱暴にねじ上げる。

抵抗する間もなくイリサは店の床に押さえつけられた。

他の兵士たちは店中を荒々しく物色し始める。

薬草の棚はなぎ倒され、丁寧に分類された乾燥薬草が床に散らばった。

乳鉢や薬瓶が割れる甲高い音が彼女の耳を突き刺す。


やがて一人の兵士が店の奥にある調合室から小さな布の包みを掲げて現れた。


「隊長! これを!」


隊長はそれを受け取ると中身を改め、意地の悪い笑みを浮かべた。


「見つかったぞ。これは…『竜殺草』。殿下の食事に盛られていた毒と完全に一致する」


「竜殺草…?」イリサは目を見開いた。

そんな毒草扱ったこともなければ見たことすらない。

希少で特別な環境でしか育たないと書物で読んだことがあるだけだ。


「違います! それは私のものではありません! 誰かが…!」


「言い訳は法廷で聞く。連れて行け!」


イリサの悲痛な叫びは誰の耳にも届かなかった。

彼女は引きずられるように店から連れ出され、集まってきた野次馬たちの好奇と侮蔑の視線に晒された。


裁判は正義のための場ではなかった。

それは結論ありきで進められるただの儀式だった。

被告席に立たされたイリサの前に座るのは冷徹な表情を浮かべた貴族たち。

その中央にはこの国の権力を一手に握る宰相グランヴィルが鎮座していた。

そしてその隣には娘のロザリア公爵令嬢が、扇で口元を隠しながらもその瞳には明らかな嘲笑を浮かべてイリサを見下ろしていた。


かつてイリサの名が王太子妃候補の一人として一部の貴族の間で挙げられたことがあった。

それは彼女の意思とは全く関係のないところで進んだ話だった。

彼女の祖母がかつて病に倒れた先王を薬草の知識で救ったという功績。

そしてその血を引くイリサの持つ人並外れた薬草への造詣と慎ましくも心優しい人柄が、宰相の権力拡大を快く思わない貴族たちの目に留まったのだ。

彼らはイリサを「聖女の再来」と持ち上げ、宰相派への対抗馬として担ぎ出そうとした。

もちろん平民であるイリサが本気で王太子妃になれるはずもなかったが、その一件は王太子妃の座を確実なものと信じていたロザリアのプライドを深く傷つけた。

彼女にとって路傍の石ころ同然の平民が自分と同じ土俵に上がること自体が許しがたい侮辱だったのだ。


検察官がイリサの店から押収されたという「竜殺草」を証拠として掲げる。


「被告は薬師としての知識を悪用し、王太子殿下の暗殺を企てた! その動機は、王太子妃の座を逃したことへの逆恨みに相違ない!」


「違います!」イリサは声を振り絞った。

「私は誰も恨んでなどいません! その毒草も、誰かが私の店に置いたものなのです!」


しかし彼女の訴えは宰相の一喝によってかき消された。


「黙れ、罪人めが! 物的証拠は挙がっているのだぞ! 見苦しい言い訳はよせ!」


宰相の威圧的な声に法廷は静まり返る。

誰もが権力者に逆らうことを恐れていた。

イリサは助けを求めるように周囲を見渡したが、向けられるのは冷たい視線ばかりだった。

ロザリアが扇の陰で勝ち誇ったように微笑むのが見えた。

その瞬間イリサは悟った。

これは彼女を排除するためだけに仕組まれた巧妙で悪質な罠なのだと。


判決はあまりにもあっけなく下された。


「被告イリサを、火あぶりの刑に処す」


その言葉を聞いた瞬間イリサの頭の中は真っ白になった。

群衆の罵声がまるで水の中にいるかのように遠く聞こえる。

崩れ落ちそうになる体を兵士に支えられながら、彼女は王宮の地下深くにある牢獄へと連行された。


そして今、イリサは独りこの冷たい牢獄にいる。

処刑は七日後だと告げられた。

もはや弁明の機会も無実を証明する術もない。

絶望だけがじっとりと肌にまとわりついていた。

その時、牢獄の通路の奥から重い足音が響いてきた。

続いて金属が擦れる耳障りな音を立ててイリサのいる牢の扉が開けられた。


松明の光を背に一人の男が立っていた。

背が高く、がっしりとした体躯。

全身を黒い装束で覆い、顔には銀色の何の感情も読み取れない仮面をつけている。

腰に下げた長剣と、その異様な存在感から彼がただの看守ではないことが分かった。


男は一歩牢の中へと足を踏み入れた。

その威圧感にイリサは思わず身を固くする。

男は静かに、抑揚のない声で言った。


「俺は、お前の処刑を執行する者だ」


男の言葉は冷たい刃のようにイリサの胸に突き刺さった。

処刑執行人。自分の命を奪う人間。

イリサは顔を上げ、男の仮面を真正面から見つめた。

恐怖よりも先に、なぜか不思議な既視感を覚えていた。

その声、その立ち姿、どこかで……。


男は続けた。


「王家の法に基づき、処刑を執り行う。俺の名は、オリアン・アッシュフォード。アッシュフォード家の当主だ」


「オリアン…」


その名を耳にした瞬間、イリサの心臓が大きく跳ねた。

全身の血が逆流するような衝撃。

忘れられるはずがない。かつて貴族と平民という身分の壁に引き裂かれた、たった一人の大切な幼なじみの名前。

イリサは信じられない思いで目の前の仮面の男を見つめた。

まさか。そんなはずはない。でもこの声、この名前。

彼女の記憶の扉が軋みながら開かれていく。


十年前、イリサがまだ十歳の頃。

彼女は王都から少し離れた森の近くの村に住んでいた。

森は彼女の遊び場であり、薬草を学ぶ教室でもあった。

そこで出会ったのが、村はずれの貴族の屋敷に住んでいたオリアンだった。

彼は退屈な貴族の暮らしを抜け出しては、森で一人剣の素振りをしていた。


最初は遠巻きに見ていただけだったが、ある日、イリサが毒蛇に噛まれそうになったところをオリアンが木の枝で追い払ってくれた。

それがきっかけで二人は急速に親しくなった。

身分の違いなど子供の二人には関係なかった。

オリアンはイリサに剣の振り方を教え、イリサはオリアンに薬草の名前と効能を教えた。

森を探検し、木に登り、川で魚を捕った。

それは二人にとってかけがえのない時間だった。


しかし幸せな時間は長くは続かなかった。

二人の関係がオリアンの父親の知るところとなり、彼は激怒した。


「アッシュフォード家の嫡男が、平民の娘と馴れ合うなど、あってはならんことだ!」


オリアンは屋敷に閉じ込められ、イリサは二度と近づくなと厳しく言い渡された。

最後に会った日、オリアンは屋敷の塀を乗り越えてイリサに会いに来た。


「ごめん、イリサ。父さんが…」


「ううん、いいの。オリアンは悪くないわ」


「俺、いつか絶対に偉くなって、君を迎えに行く。だから、待っていてくれ」


そう言って彼は自分の家の紋章が入った小さなペンダントをイリサに渡した。

それが二人の最後の会話だった。

その後オリアンの家は王都へと移り、イリサも数年後に薬師の修行のために王都へ出てきたが、再会は叶わなかった。


目の前の男が本当にあのオリアンだというのか。

処刑執行人として自分の前に現れるなんて、運命はどれほど残酷なのだろう。


イリサの動揺を察したのか、オリアンは仮面の下で微かに息をのんだ。

彼もまた囚人の名簿で「イリサ」という名前を見た時から、まさかとは思っていた。

しかしこうして実際に彼女の姿を目の当たりにし、その瞳を見た瞬間、彼の全身を凄まじい衝撃が貫いた。

間違いない。日に焼けていたそばかすも強い光を宿した翠色の瞳も、昔のままのイリサだ。

彼の表情は仮面に隠されて見えない。

だがその指先がかすかに震えているのを、イリサは見逃さなかった。


「イリサ…なのか…?」


絞り出すような信じられないといった響きを帯びた声。

その声を聞いてイリサは我に返った。

ダメだ。彼を巻き込んではいけない。

彼は王家に仕える処刑執行人。

自分は王太子暗殺未遂の大罪人。

彼が自分の幼なじみだと知られれば、彼にまで災いが及ぶかもしれない。

それだけは絶対に避けたかった。


イリサは必死に感情を押し殺し、冷たく乾いた声で答えた。


「人違いです。私はイリサという名前ですが、あなた様のような高貴な方と知り合いであるはずがございません」


彼女はわざと視線を逸らし、壁に向かって顔を背ける。

これ以上彼の顔を見ていたら、心が揺らいでしまいそうだった。


オリアンはイリサのその言葉と態度に一瞬言葉を失った。

しかし彼はすぐに理解した。

彼女が嘘をついていることを。

自分を庇うために必死に他人を装っているのだと。

彼女の瞳の奥に一瞬よぎった悲しみと苦悩を、彼は見逃さなかった。

だが今は看守たちが見ている。

ここで下手に騒ぎ立てることはできない。

オリアンはこみ上げてくる感情を理性で押さえつけ、職務上の冷徹な仮面を被り直した。


彼は一つ咳払いをすると事務的な口調で告げた。


「…そうか。失礼した。では、囚人イリサに告ぐ」


その声は先ほどまでの動揺が嘘のように冷たく響いた。


「処刑は七日後、日の出と共に中央広場にて執り行われる。それまで一日一度、食事を運ばせる。何か言い残したいことがあれば看守に申し出るがいい」


それだけを一方的に告げるとオリアンはイリサに背を向け、牢から出て行った。

鉄格子が閉められ、錠が下ろされる重い音がイリサの胸に突き刺さった。


牢を後にしたオリアンの足取りは怒りと焦燥で乱れていた。

彼は看守たちの詰め所へ向かうと感情を押し殺した声で命じた。


「囚人イリサへの食事は、今後、私が直接運ぶ」


部下である看守長が驚いて顔を上げた。


「当主自らが、ですか? そのような雑務は、我々が…」


「これは王家の決定だ」オリアンは有無を言わさぬ口調で遮った。

「王太子殿下暗殺未遂という国家を揺るがす大罪人だ。万が一、口封じのために何者かに毒を盛られる可能性も否定できん。私が直接監督する。いいな」


その威圧感と反論の余地のない正当な理由に、看守長は「はっ、承知いたしました」と頭を下げるしかなかった。

部下から食事を運ぶ役目を取り上げたオリアンは誰とも言葉を交わすことなく自室へと戻った。


重厚な扉を閉め、閂をかける。

外界から完全に遮断された空間で、彼はようやく顔を覆っていた銀色の仮面を外し、机に叩きつけるように置いた。

仮面の下から現れたのは、整ってはいるが苦悩と怒りに深く刻まれた若者の顔だった。

翠色の瞳はイリサと同じ色をしていたが、今は暗い炎が燃えている。


「なぜだ…なぜ、イリサが…!」


オリアンは拳を強く握りしめた。

爪が食い込み、手のひらから血が滲む。

彼女が無実であることなど考えるまでもなかった。

あの優しくて虫一匹殺せないようなイリサが人を毒殺するはずがない。

これは罠だ。

十中八九、宰相グランヴィルとその娘ロザリアが仕組んだ卑劣な陰謀に違いない。

かつて彼女の名前が王太子妃候補に挙がった時、ロザリアが侮辱されたと激怒していたという噂は彼の耳にも入っていた。


アッシュフォード家は公には代々王家に仕える処刑執行人の家系だ。

法の下、罪人に裁きを下す冷徹な一族。

人々からはそう思われ、畏怖と侮蔑の目で見られている。

しかしその裏にはもう一つの顔があった。

王家の勅命を受け、国内外の情報を収集し国家を揺るがす脅威を密かに排除する諜報組織――「王家の影」。

それこそがアッシュフォード家に課せられた真の役割だった。

オリアンもまた物心ついた頃から父にそのためのあらゆる技術を叩き込まれてきた。

情報収集、潜入術、尋問術、そして時には暗殺術も。


父は常々言っていた。


「我らは光を守る影。決して歴史の表舞台に立つことはない。だが、我らが存在することで、この国の平和は保たれる。感情に流されるな。ただ、王家への忠誠のみを胸に刻め」と。


しかし今、彼の心は激しく揺さぶられていた。

守るべき光である王家が腐敗した権力者の言いなりになり、無実の人間を断罪しようとしている。

そしてその犠牲者が、かつて自分が守ると誓ったたった一人の大切な女性なのだ。


「感情に流されるな、か…」オリアンは自嘲気味に呟いた。


「父上、申し訳ない。俺は、あなたの教えを破ることになりそうだ」


彼は窓の外に広がる王都の夜景を見つめた。

あの輝く街のどこかで、宰相たちは祝杯を挙げているのだろう。

無力な薬師を一人、社会から抹殺することに成功したと。


「許さない…」


低い地を這うような声が彼の口から漏れた。


「必ず君を救い出す、イリサ。何があっても」


それは誰に聞かせるでもない、彼自身の魂への誓いだった。

処刑執行人としての職務と一人の男としての誓い。

その間で葛藤しながらも彼の進むべき道はもう定まっていた。


オリアンは思考を切り替え、冷静に行動計画を練り始めた。

処刑までの時間は七日間。いや、実質的には六日しかない。

その間に宰相の陰謀を暴き、イリサの無実を証明する決定的な証拠を見つけ出さなければならない。


まずイリサ本人から詳しい話を聞く必要がある。

店から「竜殺草」が見つかったというが、その経緯に何か不審な点はなかったか。

逮捕される前に誰か怪しい人物が店を訪れたりはしなかったか。

食事を運ぶという名目を使えば毎日看守の目を盗んで彼女と接触できる。


次に宰相とロザリアの周辺を探る。

彼らがどうやって「竜殺草」を入手しイリサの店に仕掛けたのか。

その金の流れや実行犯の存在を突き止めなければならない。

これは「王家の影」としての力を使う絶好の機会だ。

王都の裏社会に張り巡らせた情報網を総動員すれば何かしらの尻尾は掴めるはずだ。


そして最終的には国王を動かさなければならない。

証拠を揃え、宰相の罪を白日の下に晒し国王に裁定を覆させる。

簡単なことではない。

宰相の権力は王家をも脅かすほどに強大だ。

生半可な証拠では逆にこちらが反逆罪に問われかねない。


夜が明け、翌日。

オリアンは約束通りイリサのための食事が乗った盆を手に、地下牢へと向かった。

盆の上には温かいスープと焼きたてのパン、そして小さな果物が乗っている。

囚人に出されるものとしては上等すぎる食事だった。


彼はイリサの牢の前で立ち止まり、近くにいた看守に鋭い視線を向けた。


「囚人と話がある。お前たちは少し離れていろ。聞き耳を立てることも許さん」


「は、はい!」


看守たちは慌てて通路の奥へと下がり、姿が見えなくなった。


オリアンは鍵を開けて牢の中に入ると食事の盆を床に置いた。

イリサは壁際にうずくまったまま彼に背を向けている。


「イリサ」


オリアンは静かに呼びかけた。

イリサの肩が小さく震える。


「…お帰りください。私に構わないで」


「それはできない」オリアンはきっぱりと言った。

「昨日は看守がいたからああ言った。だが、もう一度言う。俺だ、オリアンだ。君が人違いだと言っても俺には分かる。君の瞳を見れば」


イリサは顔を伏せたまま何も答えない。


オリアンは彼女のそばに膝をつくと声を潜めて語りかけた。


「俺を信じてくれ。君が無実なのは分かっている。これは宰相の罠だ。俺が必ず、ここから出してやる」


その言葉にイリサの体から力が抜けていくのが分かった。

張り詰めていた糸がぷつりと切れたようだった。

彼女は顔を上げ、その翠色の瞳には涙が溢れていた。


「オリアン…どうして…あなたが、処刑執行人なんて…」


「話せば長くなる。だが、今はそんな時間はない」オリアンはイリサの震える手を取り、力強く言った。

「君を救うために、俺はアッシュフォード家の全てを使う。だから、教えてほしい。何があったのか、些細なことでもいい。全てを」


絶望の闇の中に差し込んだ一筋の光。

イリサは幼なじみの変わらない力強い瞳を見つめ返した。

彼女は小さく頷き、堰を切ったようにあの日起こった出来事を語り始めた。




* * *




オリアンが毎日食事を運ぶようになってから、二日が過ぎた。

処刑まで、残り五日。


最初のうちは、イリサは頑なに心を閉ざしていた。

オリアンが差し出す食事にもほとんど手をつけず、彼の問いかけにも、か細い声で「やめてください」「私に関わらないで」と繰り返すばかりだった。

彼女は、オリアンが自分を助けようとすることで、彼自身が危険な立場に追い込まれることを何よりも恐れていたのだ。


「君を助けることは、俺自身の意志だ。誰に強制されたわけでもない。だから、君が責任を感じる必要はないんだ」


オリアンは根気強く語りかけた。

彼は、イリサがどれほど他者を思いやる人間かを知っていた。

だからこそ、彼女の拒絶が本心ではないことも理解していた。


彼は毎日、食事を牢の床に置くと、すぐに立ち去ろうとはせず、看守に聞こえない程度の声で、静かに昔の話を始めた。


「今日のスープはカボチャだ。君が好きだっただろう。昔、森の隠れ家で、二人で焚き火をしながら食べたのを覚えているか?」


その言葉に、イリサの肩がぴくりと動いた。


「あの時、君が火傷しそうになって、俺が慌てて川の水を汲みに行った。戻ってきたら、君は火傷した指を薬草の葉で冷やしていたな。『これはスノーリーフ。冷やす効果があるの』って、泣きそうな顔で教えてくれた」


オリアンの言葉は、イリサの記憶の底に眠っていた温かい情景を鮮やかに呼び覚ます。

貴族の堅苦しい屋敷を抜け出し、森で会う時間だけが、オリアンにとっての自由だった。

イリサにとっても、物知りで少しぶっきらぼうな彼と過ごす時間は、何物にも代えがたい宝物だった。


「君が薬草を摘んでいる時に、大きな蛇が出てきたこともあったな。俺が剣の代わりに拾った木の枝で追い払ったんだ。君は腰を抜かして座り込んでいたけど、俺が蛇を追い払った後、『ありがとう』って言って、シロツメクサで編んだ腕輪をくれた」


オリアンは自分の手首を見つめながら、懐かしそうに目を細めた。


「あの腕輪、しばらく宝物にしてたんだ。枯れてしまうのが悲しくて、父上の書斎からこっそり本を持ち出して、押し花にした」


次から次へと語られる二人だけの思い出。

それは、身分差によって引き裂かれ、会えなくなってからも、オリアンがずっと大切に胸の内にしまってきた記憶の欠片だった。


三日目の夜。

オリアンがいつものように食事を運び、森の話をしていると、ずっと壁に向かって背を向けていたイリサが、初めてゆっくりと振り返った。

その瞳は潤んでいて、か細く震える声で呟いた。


「…覚えて、いてくれたのね。全部…」


「忘れるはずがないだろう」


オリアンは穏やかに答えた。


「君と過ごした時間は、俺の人生で一番、色の濃い時間だったから」


その言葉が、イリサの心の奥にあった最後の錠を静かに溶かした。

堰を切ったように、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。

それは絶望の涙ではなく、長い孤独の末に温かい光を見つけた、安堵の涙だった。


その日を境に、二人の間にはようやく穏やかな会話が生まれるようになった。

限られた面会の時間の中で、彼らは引き裂かれていた空白の十年間を埋めるように、互いのことを語り合った。


イリサは、祖母から薬草の知識を受け継ぎ、薬師になることを決めた経緯を話した。

病や怪我で苦しむ人々を、ささやかな知識で助けることに喜びを感じていたこと。

王都に出てきて自分の店を持った時のこと。

決して裕福ではなかったが、常連の客たちに囲まれ、充実した毎日を送っていたこと。


「王太子妃候補なんて話も、私にとっては本当に迷惑なだけだったわ。王宮なんて、私には縁のない世界だもの。ただ、静かに暮らしていきたかっただけなのに…」


オリアンは、彼女の話に静かに耳を傾けた。

彼女の語る日々の暮らしは、素朴で誠実で、彼女の人柄そのものを表していた。

彼が知っている、あの頃のイリサと何も変わっていない。

人を陥れることなど、到底できるはずのない人間だ。


オリアンもまた、話せる範囲で自分のことを語った。

父の跡を継いでアッシュフォード家の当主となったこと。

処刑執行人という役目が、どれほど重く、心を苛むものであるか。

そして、「王家の影」として、国の闇の部分に関わらざるを得ない宿命。


「俺は、人を裁き、時にはその命を奪うことさえある。君のように、人の命を救う仕事とは正反対だ」


「そんなことないわ」


イリサは静かに首を振った。


「あなたは、あなたの立場で、この国を守ろうとしているのでしょう? 形は違っても、誰かを守りたいっていう気持ちは、きっと同じよ」


イリサの言葉は、オリアンの心に深く染み渡った。

この役目を継いでから、誰にも理解されることはないと孤独を感じていたが、イリサは彼の本質をその苦悩ごと受け止めてくれている。

そのことが、彼にとって何よりの救いだった。


処刑まで残り四日となった、五日目の昼。

看守長がやってきて、イリサに一枚の羊皮紙とペン、そしてインク壺を差し出した。


「囚人には、最後の願いとして、家族への手紙を書くことが一度だけ許可されている。書き終えたら、執行人様に渡すように。検閲を受けるのが規則だ」


看守長は事務的にそう告げると、足早に去っていった。

家族へ、最後の手紙。

その言葉の重みに、イリサの手は震えた。

故郷に残してきた両親の顔が目に浮かぶ。

娘が王太子暗殺未遂などという大罪で捕まったと聞き、どれほど心を痛めているだろうか。

無実だと訴えたい。

会って、無実の罪で殺される無念を伝えたい。

しかし、そんなことを書けば、両親をさらに苦しめるだけだ。

イリサは深く息を吸い、意を決してペンを握った。

インクにペン先を浸し、羊皮紙の上に慎重に文字を綴り始めた。


その夜、オリアンが食事を運んでくると、イリサは書き終えた手紙を静かに差し出した。

封はされていない。


「お願いします」


「…ああ」


オリアンは手紙を受け取ると、その場で読むことはせず、懐にしまった。

イリサの心中を思うと、彼女の前で読むことはできなかった。


自室に戻ったオリアンは、ランプの灯りの下で、イリサが書いた手紙を広げた。

どんな言葉が綴られているのだろうか。

自分を陥れた者への呪詛か、あるいは運命を嘆く悲痛な叫びか。

覚悟を決めて、彼は文字に目を走らせた。

しかし、そこに書かれていたのは、彼の予想とは全く違う、穏やかで優しい言葉の数々だった。


『お父様、お母様へ

お元気でお過ごしでしょうか。王都の暮らしにもすっかり慣れ、私は毎日元気にやっています。心配しないでくださいね。

故郷の森は、もうすぐ春の花が咲き始める頃でしょうか。お父様が好きな月見草は、今年も綺麗に咲きましたか? お母様の作る、木の実のパイが時々、無性に食べたくなります。

今まで、わがままばかり言って困らせてごめんなさい。薬師になりたいと王都へ行かせてくれたこと、いつも私のことを信じ、応援してくれたこと、心から感謝しています。お二人の娘に生まれて、私は本当に幸せでした。

どうか、いつまでもお体を大切に。私のことは、もう忘れて、幸せに暮らしてください。

たくさんの愛情を、本当にありがとう。

イリサより』


罪については一言も触れず、自分の運命を嘆く言葉も、誰かを恨む言葉も、そこには一切なかった。

ただ、両親への深い感謝と愛情だけが、美しく、そして少し震えた文字で綴られていた。


「…馬鹿だな、君は」


オリアンは手紙を握りしめ、呟いた。

こんな状況にあってさえ、彼女は自分のことよりも、残される家族の心を思いやっている。

こんな人間を、死なせていいはずがない。

彼の胸の中で、イリサを救うという決意が、怒りにも似た激しい感情となって燃え上がった。


処刑まで残り三日。六日目の夜。

オリアンの焦りは頂点に達していた。

「王家の影」の情報網を使っても、宰相たちの尻尾はなかなかつかめずにいた。

彼らはあまりにも用意周到で、金の流れも人の動きも、完璧に処理されていた。


「何か、何か手掛かりはないのか…」


オリアンは牢の中のイリサに問いかけた。


「君の店から見つかったという『竜殺草』について、薬師として何か知っていることはないか? どんな些細なことでもいい。特徴、効能、そして…どこで手に入るものなのか」


イリサは少し考えた後、薬師としての知識を語り始めた。


「竜殺草は、古文書にしか登場しないほど、非常に珍しい毒草です。その名の通り、竜さえも殺すと言われるほどの猛毒ですが、量を調整すれば、強力な鎮痛剤にもなると言われています。ただ、その栽培条件が極めて特殊なのです」


「特殊な条件?」


「はい」


イリサは頷いた。


「火山の地熱によって常に温められ、なおかつ、強い魔力を帯びた土壌でなければ育ちません。普通の土に植えれば、一日で枯れてしまうほど繊細な植物です」


火山の地熱と、魔力を帯びた土壌。

オリアンは頭の中で、王国の地図を思い浮かべた。

そんな条件が揃う場所など、限られている。


イリサは、オリアンの思考を読み取ったかのように、続けた。


「この王国で、その条件が揃っている場所は、私の知る限り一つしかありません」


彼女は一呼吸置いて、静かに告げた。


「宰相グランヴィル様の娘、ロザリア様が治める公爵領。その領地にある、ヴォルカヌス山脈の麓だけです」


その言葉は、暗闇に差し込む一筋の稲妻だった。

オリアンは衝撃に目を見開く。

間違いない。

ロザリアが自分の領地でしか採れない毒草を使い、イリサを陥れたのだ。

これは、何よりも雄弁な状況証拠だ。

しかし、同時に、オリアンは深い無力感に襲われた。

公爵家の領地から、当主であるロザリアが秘密裏に薬草を採取したとして、それをどうやって証明するというのだ。

証人もいなければ、物証もない。

法廷に突きつけたところで、宰相の権力で握り潰されるのが関の山だ。


「…そうか」


絞り出すように言ったオリアンの声には、隠しきれない焦燥と無力感が滲んでいた。

イリサは、そんな彼の様子を静かに見つめ、悲しげに、だがどこか吹っ切れたように微笑んだ。


「オリアン…。もう、いいのよ」


その声は、驚くほど穏やかだった。


「あなたの気持ちだけで、私はもう十分。最期の時に、あなたに会えた。昔みたいに、話ができた。それだけで、私はもう、何も怖くないわ」


イリサの諦めの言葉は、オリアンの心を激しく揺さぶった。

それはまるで、鋭いナイフで心臓を抉られるような痛みだった。

十分なわけがあるか。

怖くないわけがあるか。

彼女は、自分を案ずるあまり、全ての希望を捨てようとしているのだ。


「ふざけるな!」


オリアンは思わず叫び、牢の鉄格子を両手で強く掴んだ。

ガシャン、と耳障りな金属音が響く。


「十分なわけがあるか! 君の人生は、こんな薄暗い場所で、無実の罪を着せられたまま終わっていいはずがないんだ!」


彼の瞳には、怒りと悔しさが炎のように燃え盛っていた。


「君は、陽の光の下で、たくさんの薬草に囲まれて、人々を助けながら生きていくべき人間だ。誰かの陰謀の犠牲になっていい人間じゃない!」


オリアンは、鉄格子越しに、イリサの肩を掴まんばかりの勢いで身を乗り出した。


「必ず助け出す。これは、処刑執行人としてじゃない。君の幼なじみ、オリアンとしての誓いだ。君が諦めても、俺は絶対に諦めない」


その気迫に、イリサは息をのんだ。

彼の瞳は、昔、森で蛇から自分を守ってくれた時と同じ、真っ直ぐで力強い光を宿していた。

涙が、またイリサの頬を伝った。

しかし、それは先ほどまでの諦観の涙ではなかった。

彼の決して揺るがない決意が、消えかけていた彼女の心に、再び小さな希望の灯をともしたのだ。


オリアンはイリサに背を向けると、迷いのない足取りで牢を後にした。


「待っていろ、イリサ」


その背中は、そう語っているようだった。


オリアンが向かった先は、王宮の奥深くにある王宮書庫だった。




* * *




処刑を二日後に控えた夜。

王宮書庫は静寂に包まれていた。

オリアンは高い天井まで続く書架の迷路を抜け、書庫の最奥にある重厚な鉄の扉の前で立ち止まった。

扉には複雑な紋様が刻まれ、強力な封印魔法シーリング・スペルが施されている。

ここは王家の人間と、特別な許可を得た者しか立ち入ることのできない「禁書庫」だ。


「お待ちしておりました、アッシュフォード卿」


闇の中からランプを携えた老人が姿を現した。

書庫の司書長を務めるエリオットだ。

彼の家系もまた、代々王宮の書物を管理し、アッシュフォード家とは古くからの付き合いがあった。


「夜分にすまない、エリオット。急ぎで調べたいものがある」


オリアンがアッシュフォード家の紋章が刻まれた通行証を提示すると、エリオットは恭しく頭を下げ、鍵束から古めかしい鍵を取り出した。


「承知しております。当主様のお役に立てるのなら、いつでも」


彼は扉の鍵穴に鍵を差し込み、古の呪文を唱える。

封印魔法が解け、重い音を立てて扉が開かれた。

中から埃と古い羊皮紙が混じり合った、時間の匂いが流れ出してくる。

禁書庫の中は、王国の光の歴史の裏で葬られた数多の秘密が眠る場所だった。

謀反の記録、禁忌とされた魔法、王族のスキャンダル。

オリアンはランプの灯りを頼りに、父から教えられた特定の紋章が刻まれた書棚を探した。

それは、「王家の影」の活動記録が収められている場所だった。

数時間に及ぶ探索の末、彼はついに目的の一冊を見つけ出した。

黒い革で装丁された、分厚い古文書。

表紙には、アッシュフォード家の紋章である「天秤と影の狼」が銀で刻印されている。

彼は埃を払い、古文書のページを慎重にめくっていった。

歴代の当主たちが記した諜報活動の記録、暗殺した敵国の要人のリスト、そして王家を守るために開発された様々な秘術。

オリアンは、その中から「薬学」に関する項目を探した。

そして、ついに彼はその記述を発見する。

数代前の当主が記したと思われるページに、伝説とされていた「万能解毒薬」の製法が、詳細な図解と共に記されていたのだ。

その名は、『パナケイア』。

あらゆる毒を中和し、呪いによる衰弱さえも癒すとされる、奇跡の薬。

その存在は宮廷の医師たちの間でもおとぎ話として語られていたが、製法は数代前に完全に失われたと思われていた。


「これだ…!」


オリアンの声が、静かな書庫に響いた。

製法は、アッシュフォード家だけが解読できる複雑な暗号で記されていたが、幼い頃からその解読法を叩き込まれてきた彼には、その内容を読み解くことができた。

必要な材料は、月の光を浴びたマンドラゴラ、賢者の石の粉末、そして光竜の涙など、どれも入手困難なものばかりだった。

幸いにも、そのいくつかは「王家の影」としてアッシュフォード家が密かに管理・保管しているものだった。

オリアンは、現在の王家の状況を思い浮かべた。

国王アルフォンスが最も心を痛めている、王妃イザベラの存在。

彼女はもう半年以上も原因不明の病に臥せっており、日に日に衰弱している。

国中の名医が匙を投げ、宮廷では何者かによる緩慢な毒殺ではないかという黒い噂が絶えなかった。

この『パナケイア』こそが、王妃を救う唯一の手段であり、そして、宰相の権力に怯える国王を動かすための、唯一無二の切り札になる。

オリアンは確信した。

彼は古文書を閉じると、決然とした表情で禁書庫を後にした。

残された時間は、あと一日。


オリアンは書庫を出ると、近衛兵の詰所へ向かい、国王アルフォンスへの緊急の単独謁見を申し入れた。

深夜の、それも処刑執行人からの突然の謁見要求に、近衛兵の隊長は明らかに戸惑いの表情を浮かべた。


「アッシュフォード卿、陛下は既にお休みになられている。いかなる理由があろうとも、今お通しすることは…」


「王家の存続に関わる、一刻を争う緊急事態だ」


オリアンは低い声で言った。


「もし、この謁見を阻んだことで王妃殿下の御身に万が一のことがあれば、その責任は卿が負うことになる。それでもいいか?」


「王妃殿下…?」


その言葉に、隊長は顔色を変えた。

オリアンの只ならぬ気迫と、その言葉の持つ意味の重さに、彼はそれ以上拒むことができなかった。


「…承知いたしました。こちらへ」


隊長に案内され、オリアンが謁見の間へと続く長い廊下を進んでいると、その前方に人影が現れた。

宰相グランヴィルだった。

彼は夜着の上にガウンを羽織っただけの姿で、明らかにオリアンの動きを察知して待ち構えていたのだ。


「アッシュフォード卿。このような深夜に陛下を騒がせるとは、一体何のつもりだ」


宰相の声は静かだったが、その瞳の奥には鋭い警戒と怒りが宿っていた。


「処刑執行人が、分をわきまえんか。お前の仕事は、明日の朝、罪人を処刑台に送ることだけのはずだ」


「これは、我がアッシュフォード家が、代々王家にお仕えする者としての務めにて」


オリアンは臆することなく言い返した。


「宰相閣下。あなたに、我が家の忠誠を妨げる権利はございません」


「ほう、忠誠だと?」


宰相は鼻で笑った。


「罪人の女に入れあげ、私事を公の場に持ち込むことが、忠誠だと言うのか。その女が、お前の幼なじみだという噂は、私の耳にも届いているぞ」


宰相は全てを知っていた。

オリアンは内心で舌打ちしたが、表情には一切出さなかった。


「噂は噂にすぎません。私が今から陛下にお伝えすることは、この国の未来に関わる重要案件。どうか、道をお開けいただきたい」


「断る」


二人の間で、目に見えない火花が散る。

一触即発の空気が廊下に張り詰めた、その時。


「そこまでだ、二人とも」


謁見の間の扉が内側から開き、国王アルフォンス自身が姿を現した。

その顔には、深い疲労の色が浮かんでいる。


「騒がしいから来てみれば…。宰相、下がりなさい。アッシュフォード卿の話を聞こう」


「しかし、陛下!」


「私の言葉が聞こえなかったか?」


国王の静かだが、有無を言わさぬ口調に、宰相はぐっと言葉を詰まらせた。

彼は忌々しげにオリアンを睨みつけると、一礼してその場を去っていった。

国王はオリアンを招き入れ、謁見の間の扉は固く閉ざされた。


広大な謁見の間には、国王アルフォンスとオリアンの二人だけがいた。

壁にかけられたいくつもの松明が、二人の影を長く揺らしている。

オリアンは部屋の中央まで進むと、国王の前に深く膝をついた。


「陛下。このような夜分に、謁見の機会を賜り、感謝に堪えません」


「よい。顔を上げよ、アッシュフォード卿」


国王は玉座に腰を下ろしながら言った。


「して、王妃のことに関わる話とは、一体何だ」


その声には、藁にもすがるような響きが混じっていた。

オリアンは立ち上がると、まずイリサの事件について語り始めた。


「陛下。明日、処刑される予定の薬師イリサですが、彼女は無実である可能性が極めて高いと、私は愚考いたします」


彼は、事件が宰相による権力闘争のための陰謀であること、毒に使われた竜殺草がロザリア公爵令嬢の領地でしか採れないという事実を、冷静に、しかし熱を込めて訴えた。

国王は眉をひそめ、腕を組んだ。


「…その話が真実だと証明する、確たる証拠はあるのか、アッシュフォード卿。宰相は我が国の重鎮だ。お前の言う通り、憶測だけで罪に問うことはできぬ。下手をすれば、王国の秩序が乱れることになる」


国王は、宰相の権勢を恐れている。

ここで揺らいでは、全てが水の泡になる。

オリアンは、最後のカードを切る覚悟を決めた。

彼は懐から、禁書庫から書き写してきた『パナケイア』の製法が記された羊皮紙の写しを取り出した。


「証拠は、必ずや私が探し出してみせます。つきましては、陛下に一つ、取引をお願いしたく存じます」


「取引だと?」


国王は訝しげな目を向けた。


「はい」


オリアンは羊皮紙を国王に差し出しながら、真っ直ぐな視線を向けた。


「まず、イリサの処刑を中断し、事件の公正な再調査をお命じください」


そして、彼は続けた。


「その暁には、我がアッシュフォード家に代々極秘に伝えられてきた、失われた秘宝…王妃殿下の病を癒すことができるやもしれぬ、『万能解毒薬』の製法を、陛下に献上いたします」


「万能、解毒薬…?」


その言葉に、国王の目が大きく見開かれた。

彼は玉座から身を乗り出すようにして、オリアンが差し出した羊皮紙を受け取った。

そこに描かれた薬草の図解と、古の文字で記された製法を見て、彼の呼吸が荒くなる。


「これは…本物なのか…?」


「我が一族の名誉にかけて」


愛する王妃を救いたい。

その一心で、国王の心は激しく揺れ動いた。

この薬があれば、イザベラは助かるかもしれない。

しかし、宰相の反発は必至だ。

何の証拠もなく処刑を中断すれば、王の権威は失墜し、宰相に国を乗っ取られる口実を与えかねない。

国王はしばらくの間、羊皮紙とオリアンの顔を交互に見つめ、深く葛藤していた。

やがて、彼は苦渋の決断を下した。


「…分かった。だが、条件がある」


国王は鋭い眼光でオリアンを射抜いた。


「夜が明けるまでに、証拠を。宰相の陰謀を裏付ける、誰もが納得するような決定的な証拠を持ってまいれ。さすれば、お前の取引に乗ろう。だが、もしそれができなければ…処刑は、予定通り執行する」


謁見を終え、王宮を飛び出したオリアンには、もう一刻の猶予も残されていなかった。

夜明けまでは、あと数時間しかない。

その間に、宰相の陰謀の物的証拠を手に入れなければならない。

彼は王宮の裏門から人気のない路地へ駆け込むと、懐から黒い狼の紋章が刻まれた小さな笛を取り出し、夜空に向かって短く、鋭く吹いた。

その音は人間の耳にはほとんど聞こえない、特殊な周波数を発していた。

すると、どこからともなく、闇に溶け込むような黒装束をまとった数人の男女が、音もなくオリアンの前に姿を現した。

彼らこそ、公の歴史には決して名を残すことのない、アッシュフォード家に仕える諜報部隊「王家の影」の実働部隊エージェントだった。


「当主」


彼らは一斉に膝をついた。

オリアンは、彼らに向かって簡潔に、しかし力強く命じた。


「総員に告ぐ。今から夜明けまでに、宰相グランヴィルと令嬢ロザリアが『竜殺草』を入手した経路を突き止め、物的証拠を確保する」


彼は、イリサから聞いた竜殺草の情報を部下たちに共有した。


「ロザリアの領地から王都へ、どのようにして毒草が運ばれたのか。闇商人を使ったのか、あるいは信頼できる使用人に運ばせたのか。金の流れ、人の動き、どんな些細な情報も見逃すな。これは、国王陛下より直接下された、最重要任務である」


「御意!」


影たちは一斉に答えると、再び闇の中へと溶けるように散っていった。


オリアン自身もまた、王都の裏社会へと駆け出していった。

彼には一つ、心当たりがあった。

王都の闇市場で、希少な薬草や毒物を専門に扱っている貪欲な闇商人の存在だ。

もし、ロザリアが外部の者を使って竜殺草を入手したとすれば、その男が関わっている可能性が最も高い。

夜明けが、刻一刻と迫っていた。




* * *




処刑当日の朝。

夜の闇が白み始め東の空が灰色に染まる頃、王都の中央広場は既に日の出を待つ群衆の熱気で埋め尽くされていた。

王太子を毒殺しようとした大罪人の処刑を一目見ようと、人々は固唾をのんでその時を待っていた。

野次や罵声が波のように広場を行き交っている。


やがて重々しい太鼓の音と共に、広場に面した城門が開かれた。

武装した兵士たちに両脇を固められイリサが姿を現す。

一晩でさらに痩せこけ顔色は土気色だったが、その足取りに乱れはなかった。

彼女の翠色の瞳は不思議なほど穏やかに澄み渡っていた。

オリアンが「必ず助ける」と言ってくれた。

その言葉だけを胸に、彼女はどんな運命も受け入れる覚悟を決めていたのだ。


イリサは群衆の視線と罵声を一身に浴びながら、広場の中央にそびえ立つ火刑台へと一歩一歩静かに進んでいく。

乾いた薪が高く積み上げられた処刑台の上で、彼女は太い柱に背中を預け手足を荒縄で固く縛り付けられた。

彼女の目の前に処刑執行人が立った。

銀色の仮面をつけたオリアン。


彼は仮面の下で固く唇を噛みしめていた。

彼の内心は焦燥と、そしてある一つの確信が入り混じった嵐のような状態だった。

夜明けの鐘が鳴る直前、彼は「王家の影」の総力を結集しついに決定的な証拠を手に入れていたのだ。

今はただ国王の決断と、その使者が間に合うことを祈るしかなかった。


貴賓席では宰相グランヴィルと娘のロザリアが満足げな表情で眼下の光景を見下ろしていた。

邪魔な平民の娘が自分たちの計画通りに始末される。

彼らの野望の達成は目前に迫っていた。


荘厳な鐘の音が処刑の開始を告げる。

広場を埋め尽くしていた喧騒がぴたりと止んだ。

神官が震える声でイリサの罪状を読み上げ始める。

その声が静まり返った広場に空しく響き渡った。

儀式は誰にも止められることなく粛々と進んでいく。


神官による罪状の読み上げが終わり、最後の祈りが捧げられた。

いよいよ執行の時が来た。


オリアンは助手が差し出した燃え盛る松明をゆっくりと手に取った。

彼の動作は一分の隙もなく冷静沈着そのものだった。

その姿に群衆も、そしてイリサでさえも、もはやこれまでかと息をのむ。

運命は変えられなかったのか。


オリアンは燃え盛る松明を、イリサの足元にうず高く積まれた薪へとゆっくりと近づけていく。

炎の熱がイリサの足元を炙る。

あと数センチで薪に火が燃え移る。

ロザリアが扇の陰で勝ち誇った笑みを浮かべた、まさにその瞬間だった。


「待たれよ!」


凛としたよく通る声が広場全体に響き渡った。


群衆が一斉に声のした方へ振り向くと、そこには一頭の白馬を駆り王宮騎士団の旗を掲げた騎士団長の姿があった。

彼は馬を広場の中央まで進めると高らかに宣言した。


「国王陛下の御名において、刑の執行を中断する! 全員、その場で動くな!」


広場は水を打ったように静まり返った後、次の瞬間大きなどよめきに包まれた。

何が起きたのか誰にも理解できない。

貴賓席にいた宰相は血相を変えて立ち上がった。


「き、騎士団長! いったい何事だ! これは、陛下がお認めになった神聖な処刑であるぞ! 御意志に背くというのか!」


宰相の怒声に対し、騎士団長は馬の上から彼らを冷たく見下ろし一枚の羊皮紙を掲げてみせた。

そこには国王の署名と王家の印璽がはっきりと押されている。


「これは、国王陛下より下された、絶対の勅命である!」


騎士団長の号令と共に、広場の四方を囲むように配置されていた兵士たちが一斉に槍を構えた。

彼らは処刑の警備兵ではなく、騎士団長が率いてきた精鋭王直属の近衛騎士団だったのだ。

彼らはあっという間に広場を包囲し退路を断った。

騎士団長はその羊皮紙を読み上げた。


「宰相グランヴィル、並びにその娘ロザリア公爵令嬢を、王太子殿下毒殺未遂、及び王妃殿下への毒殺未遂、国家反逆罪の容疑で、ただちに拘束する!」


「な…っ!」

宰相とロザリアは言葉を失い顔面を蒼白にさせた。

騎士団長の合図で武装した騎士たちが貴賓席へと殺到する。


「無礼者! 私を誰だと思っている!」


宰相は抵抗しようと剣に手をかけたが屈強な騎士たちにたちまち取り押さえられた。

ロザリアは甲高い悲鳴を上げその場にへたり込んだ。


何が起きたのか理解できず呆然と柱に縛られたままのイリサ。

その彼女の前にオリアンが進み出た。

彼は手にしていた松明を地面に投げ捨てると、腰のナイフを抜きイリサを縛り付けていた荒縄を素早く断ち切った。


そして彼はゆっくりと顔を覆っていた銀色の仮面を外した。

仮面の下から現れた苦悩と安堵が入り混じった表情。

それは紛れもなくイリサが知る幼なじみの顔だった。


「オリアン…!」


イリサの瞳からこらえていた涙がとめどなく溢れ出した。


「約束しただろう」


オリアンは崩れ落ちそうになるイリサの体を力強く支えた。


広場の混乱の中、騎士団長が事の経緯を群衆に向かって説明し始めた。

昨夜、オリアンと彼が率いる「王家の影」は夜を徹した捜査の末、ロザリアが「竜殺草」を秘密裏に購入した闇商人を探し出しその身柄を確保することに成功した。

決定的な証拠となったのはその闇商人が隠し持っていた裏帳簿だった。

そこにはロザリアの直筆の署名と共に「竜殺草」の取引が詳細に記されていた。

さらにその代金として、宰相家の金庫から多額の金貨が支払われたことを示す金の流れも完全に裏付けが取れたのだ。

夜明け前、オリアンがそれらの動かぬ証拠を国王に突きつけたことで、国王はついに宰相を断罪する決意を固めたのだった。

さらに捕らえられた闇商人の証言から、宰相一派が別のルートから入手していた王妃を衰弱させていた遅効性の毒の存在も明らかになった。

宰相の目的はまず邪魔なイリサを排除しロザリアを王太子妃として王家に送り込む。

そして病弱な王妃を毒殺し生まれた孫を次の国王に据えることで、この国を完全に掌握することだったのだ。

全ての陰謀が白日の下に晒された。

先ほどまでイリサに向けられていた群衆の罵声は今や、連行されていく宰相とロザリアへの怒りの声となって叩きつけられていた。


無罪放免となったイリサはオリアンの腕の中で安堵の涙を流し続けた。


「ありがとう…、オリアン。信じてた…。でも、本当に怖かった…」

「もう大丈夫だ。俺がそばにいる」


オリアンは震える彼女の体を優しく抱きしめた。


後日オリアンは国王に、約束通り「万能解毒薬『パナケイア』」の製法を献上した。

イリサも薬師としての知識を総動員してその調合を手伝った。

完成した薬を飲んだ王妃イザベラは数日のうちに奇跡的な回復を遂げ王宮は喜びに包まれた。

国王アルフォンスはオリアンの功績を最大限に称え、彼を代々続いてきた処刑執行人と「王家の影」という日陰の任から解き放った。

そして代わりに王直属の近衛騎士団長という誰もが羨む名誉ある地位を与えようとした。

しかしオリアンはその申し出を、丁重にしかしきっぱりと辞退した。


「陛下。私がお受けするわけにはまいりません。私はただ、守りたい一人の女性を守っただけです。これからは、アッシュフォード家の宿命や、全てのしがらみから解放され、一人の人間として、彼女と共に静かに生きていきたいのです」


国王は彼の真っ直ぐな瞳を見てその願いを快く聞き入れた。

そして褒賞として、王都からほど近い緑豊かな土地を彼に与えた。


季節が一つ巡り春が訪れた。

かつて火刑台が置かれていた王都の中央広場は、あの事件の後市民たちの手によって美しい花畑へと作り変えられていた。

悲劇の場所を希望の場所に変えたいという人々の願いが込められていた。

その花畑の中心でオリアンとイリサは、多くの人々の祝福を受けながらささやかな結婚式を挙げた。

回復した王妃と王太子、そして国王もその姿を城のバルコニーから温かく見守っている。


「綺麗だ、イリサ」


純白のドレスに身を包んだイリサを見てオリアンは心からの言葉を贈った。


「あなたのおかげよ、オリアン。あなたが、私の未来を救ってくれた」


イリサは幸せそうに微笑んだ。


二人は国王から与えられた領地で新しい生活を始めた。

広大な土地に様々な薬草を育てるための薬草園を作り穏やかな日々を送っている。

オリアンは剣を置き鍬を手に土を耕し、イリサは薬草を育て近隣の村人たちのための薬を作った。


かつて悲劇の舞台となりかけた場所は、二人の愛と人々の善意によって、未来への希望と幸福を象徴する場所へと確かに生まれ変わったのだった。

引き裂かれた二つの運命は長い時を経てようやく一つに結ばれた。

これは絶望の淵から愛と正義を取り戻した逆転の物語の始まりに過ぎない。

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