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月が、揺れた。
逃げてと叫んだ彼女の母親は、その少し前にそう漏らした。突然、月が揺れたのだと。意味もわからないうちに、空を見上げるとそこには雲ほどの大きさの物体が浮かんでいた。
誰かが言う。攻めてきていると。月の前に突然現れたものが、攻めてきているのだと。
それは、別の宇宙からこの地球を攻めてきたのだ、と。
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目が覚めた時、オウリは目を開けた事に気がつくことが遅れた。やけに自分の呼吸音をうるさく感じるのは、空間が狭いからだろう。視界はほぼ、ゼロだ。今オウリの体は、それがすっぽりと入るほどの棺のような空間に入れられ、真っ暗の中に横たわっていた。息は出来ている。つまりここには空気があるのだ。
あの月の前に現れたものを見た後からの記憶があやふやだった。ひどく強い光が見えたと思った次には、誰かに右腕を掴まれた気がする。そこで記憶は途絶えていた。
ここはいったいどこで、自分はどうなったのだろうか。悪いことばかりが頭をよぎり、体が震えだす。息が苦しいと思った時には、オウリは過呼吸になっていた。これではいつか気を失ってしまう。
「ーーーーー助けて!」
どん、と内側を叩いた。拳の小指側がひやりとする。寒さは感じていないのに、彼女はこの内側をとても冷たく感じた。足も同様に動く範囲を思い切り蹴る。そしてまたオウリは気がついた。素足がその内側に当たっている事に。そうして恐る恐る自分の体に手で触れ、今自分が、何も服を身につけていないと言う事を知ると、思わず息を止めてしまった。
体を覆うものが何もない。そう思うと、胃の辺りがグッと縮こまるような不快感に襲われた。この恐怖と混乱が続くだけで、発狂しそうになる。いやもしかしたら、すでにどこか自分はおかしくなっているのかもしれないとさえ、思った。
目からポロポロと涙が溢れ出る。
「誰か…!!助けて!!!」
自分の声が耳に響いた。呼吸音と、叫ぶような声。オウリはそれが自分の声だとはとても思えなかった。
「……………っ…!」
そして次の瞬間、ふわりと、彼女は浮遊感に襲われたのだ。視界が明るくなったと思った時には、彼女の体は落下をしていた。背に当たっていたものが消えたのだ。もしかしたら、箱のように下が開いたのかもしれないがそれを確認する術はない。
叫び声が出そうになった時、彼女の体は何かに受け止められた。
暖かな感触。目に映る姿に安堵すべきなのかも理解できない状況で、オウリはその感触に助けを求めるように、縋りついた。
彼女の体は、一人の男に横抱きに、抱きかかえられていたのだ。
「ーーーーー、ーーーー?」
男は何か言葉を口にしたがオウリには何を言っているのかわからず、その顔を凝視してしまう。するとそのままゆっくりと彼女の体は床に下ろされ座らされた。すると、男は自分が羽織っていた裾の長い服を彼女にかけ、目の前で膝をついた。視線が同じ位置となり、慌ててそれを手繰り寄せると、オウリは体を小さくする。
「ーーーー………?」
男はまた何かを言ったが、やはりオウリにはわからず、ただ眉を寄せる。どこか、他国の言葉に似ている気もしたが、やはり知らない言語だ。
「では、この言葉はわかるか?」
はっきりとそう聞き取る事ができ、思わず目を見開くと、それだけで男は理解をしたようだった。ゆっくりとした所作で立ち上がると、オウリは男から見下ろされる。
男の低い声がした。
「お前は、『その人』か?」
「ーーーーーーッ!」
そう問われ、思わず彼女は体を強張らせた。何故、知っているのか。そもそもこの男は誰なのか。どうしてオウリを助けたのか。
「力を与えられた者、か?」
再び投げかけられた問いに、彼女は口を開く事ができなかった。だがその表情で男は察し、ゆっくりと頷くと、
「一緒に来てもらう」
そう言ったのだ。
その時、オウリは理解をした。今彼女たちがいる場所は、白い壁に囲まれた何もない部屋だった。頭の上には、棺のような形の箱が浮いている。そう、浮いているのだ。それは恐らく、先程彼女が入っていた場所だろう。窓も何もない扉もない、不可思議な空間。ここは、彼女たちが暮らしている地球の環境下ではない、と。
この男はオウリを助けたのではない。あの月の前にあらわれ、彼女を攫ったのだ。あの時、誰かが助けてくれるタイミングなどなかったはずだ。唐突に、自分が攫われた事を確実に理解すると、オウリの頭は恐怖を残すものの、一気に回りだす。もともと、頭の回転は早い方だ。彼女は攫われてここに来た。そしてその相手はオウリの事を知っているのだ。自分がすべき事は、自分の身を自分で守る以外に、ない。
だがここにあるものは、非常に少なかった。ものが、あまりにも無いのだ。しかも裾の長い服一枚を与えられただけで、裸も同然。オウリの力を発揮するには不十分だった。
「逃げようとしても、無駄だ」
男は彼女の思考を読み取ったかのようにそう言う。確かに無駄かもしれない。だが、何もせずに諦める事はできなかった。
「あなたは、誰?」
「……………」
男は何も言わない。ただ冷ややかに彼女を見下ろしていた。言葉がわかったところで、彼女には少しだけ余裕が生まれた。こうして改めて見てみると、男はとても均整のとれた見た目をしていた。かなりの長身だ。先程からこちらを見下ろす双眸はエメラルドグリーンだ。金色の髪はクセがあるようだが長く肩の辺りまであり、かんばせは彫りが深い。その容姿は他国のそれによく似ていた。だがその服装は彼女の知るものではなかった。そしてその身につけているものに、ぞくっとする。男はまるで太古の刀のようなものを、腰に下げていたのだ。
オウリはその形を認識すると、男を睨んだ。
「あなたたちは、誰…?」
すっと、男が刀に手をかける。そこまでは予想済みだ。その刀が彼女に向けられる。白い空間に、銀色の刀が光った。だが、その刀が動く前に、
「ーーーーーー答えてやらないのか?」
突然、そんな声が降ってきた。
オウリは声の方へと顔を向ける。そこには、似たような服を着た男がいた。だが、今目の前にいる男とは違い、にこやかな笑みを浮かべている。
「ちゃんと答えてあげないと、彼女もこちらには応えてくれないだろ」
口調はかなり柔らかい。見た目もそうだ。同じ色の髪は短く整えられ、深い青の瞳はやや垂れている。
その男はオウリに向けられた刀を手で制すと、彼女に向かってにっこりと笑った。
「この男は少し、人見知りなんだ。怖い思いをさせたね」
「ーーーーーー………」
「まずは着替えないと。そんな格好じゃ寒いだろう?」
私たちは外にいるから、と言い残すと、突然白い壁に現れた扉から出て行ってしまった。刀を手にしていた男は不機嫌そうな目つきでこちらを見ていたが、踵を返すと、その扉に続いた。
残されたのは唐突な静寂と、衣服。だがオウリは今羽織っている裾の長い服の胸元を合わせると、2人が消えた扉を見た。
まだ、扉はそこにある。恐らく、外に2人はいるのだろう。簡単に逃げ出す事はできないと思うが、まずこの部屋から出るにはその扉をくぐるしかない。
彼女は警戒しながら扉に近付いた。
手が届きそうな距離までくると、その扉は自動的に開いてしまったのだ。驚きに後退りしたものの、扉の向こうは廊下のようであった。窓はない白い壁が見える。そして、人影はない。今しかない、と思った。部屋からは容易に出る事が出来た。出た先はやはり廊下のように長い通路だ。白い壁に囲まれ、窓はない。左右とも外側にカーブをしており、奥まで見通す事は出来なかったが、共にカーブをしていることから、この通路は円形である可能性がある。
右か、左か。
最悪、どちらに行ってもまたここに戻ってくるだろう。だが、右か左か迷った時はいつも左を選ぶようにしていた。彼女は足音を立てないよう、左の通路を進んだ。
ここがどこであるのか、全く予測できない。外の景色が見えない事もあるが、地球ではない事は確かだろう。しかしそれならば、何故彼らはオウリと同じ言語を話したのか。そもそも彼らは人間なのだろうか。何故、彼らはーーーーーーオウリの事を知っているのか。
「…っ、なに、これ?!」
次の瞬間、彼女の思考が止まった。左の通路を静かに歩き続けていた彼女が右足を踏み出した時、突風に襲われたのだ。思わず目を瞑り、開けた時には周りの景色が草原になっていた。青い空に太陽の光、そして足元には無限にも思える草原。
だがオウリは物の形や空間の形を捉える能力に特化していた。ここがまだ、先ほどの廊下である事はすぐにわかる。つまり、目に映る景色だけがかわったのだ。まるで、壁の全てに映像を投影したように。
そして足音に気がつき後ろを振り向くと、そこには先ほどのエメラルドグリーンの瞳を持つ男がいた。その手には、刀が握られている。
全く気配を感じなかった。オウリは右手を強く握る。その刀を受け止める準備はできていた。形も色も、重さも。男の持つ所作で把握をしたからだ。
男が歩くたび、緩いクセのある長い髪が揺れる。その双眸は熱を持たず、すぐそばまで来ると彼女を見下ろした。
優雅な所作ではあるが、刀を向けられてはそれに見惚れる者などいないだろう。
「……大人しくしろ」
低い声がそう言う。
刀の形は把握した。ならば、オウリが大人しくしている理由はない。その切れ長の瞳を睨み返すと、その刀が振り上げられる。やるならば、それが下ろされたその瞬間しかない。
オウリが振り下ろされる刀に触れようと手を伸ばしたその時、突如として彼女の前に大きな影が現れた。
「ーーーーーーっ!」
ガッ、と金属がぶつかり合うような音と共に僅かな風が吹き抜ける。それは確かに、刀と刀がぶつかる音だった。突然現れた人影は、オウリを守るように男の前に立ちはだかり、そして振り下ろされた刀を、刀で受け止めたのだ。
それは男だった。
刀を受け止めた男が、オウリを振り返り、そして片方の手を差し出してきた。
「来い!」
そう叫ばれる。
だが次には、銃声のような音が草原に響きわたった。
「……その人を掻っ攫う気かな?」
声の主は先ほどのもう1人の男だった。にこやかな笑みを携えたまま男は楽しげに少しだけ首を傾げる。その右手にはやはり銃を構えていた。
「彼女は渡さないよ」
ちらりと、こちらに視線を送られる。オウリはその爽やかにも見える笑みに、悪寒を感じた。
「ーーーーーーお前たちに渡すくらいなら、世界を滅ぼした方がマシだな」
オウリを背に庇っている男はそう言い鼻を鳴らす。その間にも、ぶつかり合った刀が細かく揺れる音がしていた。
「君たちに攫われるくらいなら、私は彼女を撃つ」
微笑みを絶やさない男の瞳がすっと、細められる。その銃口がオウリに向けられた。
彼女の選択肢はついに絞られた。目の前にいる男の姿をじっと見る。背は高い。黒い髪は短く、前髪の間からは切れ長の瞳が見えていた。瞳の色は黒。とても整った顔をしているが、他の2人とは違いどちらかといえば、オウリと同じような地域に住む人種に思えた。男が手にしているのは刀。そしてもう一方の手は、2人からオウリを庇うように広げられている。声は低めで、やや鼻にかかっている。服装は彼ら3人とも似ていた。
形、色、全てを頭の中に叩き込む。出来る、と思った時、オウリはその男の手を取った。
「ーーーー飛べ」
そう口にした瞬間、いつもの感覚がオウリの身体中を駆け巡った。
手を取られた男はオウリを見て、驚いたようにその目を見開いている。しっかりと目が合い、オウリはこの選択が間違っていなかった事を心の底から望むしかなかった。
果たしてーーーー。
オウリと黒髪の男の姿は、その場から忽然と消えたのであった。
了