第三章 1 家族
御坊ちゃま。
御坊ちゃまの使う王族の権利は、おそらく豪一郎様譲りなのでしょう。私はおそらく一度だけ豪一郎様にお会いしたことがあり、もしかしたら一度だけそれを使われかもしれません。
私の人生の、覚えている限り最初の記憶。
それは孤児院に王沢豪一郎様がやってきた日のことです。
その日がどんな日だったかとか、いつもどんな風に暮らしていたかなどは覚えておりません。ただ私は老齢の男性に言われたのです。孤児院で言われたので、いま考えればその人はおそらく院長とかそういう人だと思います。
「今日は王沢先生がくるよ。君の保護者になる」
院長は何やら緊張していて、声もソワソワしていました。だから、今この瞬間がとても特別な瞬間なのだとわかりました。
「先生って、新しい先生?」
「……ああ、違うよ。王沢先生は、とても偉い人だから先生って呼ばれてるんだよ。そ、そうじゃなくて、これから王沢先生のお宅に住まわせてもらうんだ。それはとってもすごいことなんだよ」
その人は、若いお兄さんでした。おじいちゃんのような院長が先生と言うので、よほどのおじいちゃんが来るのかと思ったら、ぜんぜんそんなことはありませんでした。が、それ以外の印象は特にありません。私が小さかったのもありますが、彼がどんな顔だったのか今となっては思い出せません。
「可愛いじゃん」
とても綺麗な手が、私の頭を撫でました。そうです。印象に残っているといえばそれです。
「これからお前はうちで暮らすんだ」
「あなたが、パパになるの?」
「そうじゃないが、そう思ってもいいね。お前が決めろ」
父親を自分で決める、と言う感覚が私にはわかりませんでしたから、その言葉を上手く飲み込めません。
「うーん、じゃあ、あとで決めるね」
「へー、そりゃあいいな」
私の言葉は実際投げやりだったと思いますが、豪一郎様はその言葉が気に入ったようで、「あとで決めるか。そりゃあいい」と、何度か独り言のように呟いていました。
もしかすると、彼に対する恐怖が一瞬で消えたのも、あるいは親しみさえ沸いたのも、何らかの能力かもしれません。王族の権利はその使用者によって別物になると聞き及びます。豪一郎様の能力がどういったものかはいまだに知らないわけですが、触れるのは重要なことなのかもしれません。
何せ、御坊ちゃまはそうでしょ?
私は三歳で王沢に引き取られて以来、英才教育を施されました。その成果は凄まじく、勉学、体力ともども三学年上に混ぜても学校で一番になるほどでした。まだ見ぬ王沢の付き人になるため日々研鑽を積み、そして私の主人が決まりました。それが王沢怜御坊ちゃま。豪一郎様の八人目の非嫡出子です。
付き人になることに関して、御坊ちゃまのお母様には事前にお伝えしていました。しかし、御坊ちゃまには上手く伝わっていなかったのか、初めて出会ったときは本当に驚かれました。
月曜日だったと思います。三階建の、やや古びたアパートの二階に御坊ちゃまは住んでおりましたので、登校時間前に私は階段の下で待っておりました。
ランドセルを背負い、学校指定の黄色帽子を被らない生意気そうな少年はすぐに御坊ちゃまだとわかりました。彼と目が合い、私は言いました。
「王沢怜様ですね? 豪一郎様の命により、今日より派遣されました。御坊ちゃまのお目付役になります。片側月夜と申します」
「……誰?」
「名乗った通りなのですが、その頭はお飾りでしょうか」
「いやいや、え? 待って、お目付け役?」
「端的に言えば付き人ですね」
「僕はそんな、付き人がつくような身分じゃないんだけど」
「王沢豪一郎様のお子様はそのような身分なのです」
「何その仮面」
「王沢の付き人は防犯上の理由で常に仮面をつけるよう申しつけられております」
「めっちゃ格好いい」
「それはどうも」
「てゆーか、冗談じゃなかったんだ……」
「冗談?」
「ああ、僕は母さんから『怜は王沢豪一郎の息子なんだよ』っていつも聞かされてたんだよ! しかも他人には言っちゃダメなんだって! そんなの嘘かと思うじゃん⁉︎」
「はぁ、そうですね」
なるほど御坊ちゃまは王沢のご子息とは思えない普通のお子様でした。いったいどれほど偉大な傑物のお世話を私はするのだろうと、柄にない期待を抱いていたものですから御坊ちゃまのご様子は拍子抜けでした。
ただ、相手を見て態度を変えることは王沢の付き人としてよしとされません。私は姿勢を正し、改めて御坊ちゃまに向き直りました。
「これより、御坊ちゃまが王沢の息子だと外部的に知る人も増えていくことになります。そのため、私がお目付け役となることは防犯上の意味が大きいのです。毎日一緒に学校にまいります。よろしくお願いいたします」
「防犯? お前、弱そうなのに?」
少なくともこの時の身長で言えば、私の方が十センチほどは高かったのでその見立ては心外です。
「いえいえ、そんなことは」
「お前さ、そんなに格好いい仮面つけてたら絶対いじめられるよ。まぁいいさ、一緒に学校行こう。何かあったら僕が守ってやるよ」
なんとも偉そうな小学生です。
「ええ、楽しみにしております」
当時から御坊ちゃまは大変偉そうでございました。
常に自分が上で、庇護する側だと短躯の少年が思っていたのだからそれも王沢の血族特有なのかもしれません。
結果として私はいじめられませんでした。確かに私の仮面は衆目を集め奇異の目で見られましたが、確かに御坊ちゃまが助けてくれたのです。
「何その仮面、変なの」「顔ブサイクで隠してるの?」「痛すぎ」
昔懐かしい黒板に名前をかく私は、様々な言葉を投げかけられました。ただし、その流れはたった一つの言葉で軌道を変えたのです。
「はぁー? 明らかに格好いいだろうが」
御坊ちゃまが立ち上がってそういうと、一瞬の静寂に続いて同調者が現れました。
「実は俺もつけてみたいと思った……」「ファッション尖りまくり」「それずっとつけてるのー?」
排除する空気から、受け入れる空気に教室が弛緩しました。教壇を降りて指定された席に向かうと、みんなが興味深げに話しかけてきました。ずっと王沢の施設にいた私は、その反応に困惑しましたが、悪いものではありませんでした。
ただ、学校の集団はクラス内では閉じません。別のクラスや他学年の児童がいて、彼らから見ても私は当然普通ではないのでした。また私は常に御坊ちゃまと一緒にいるわけではございません。私は付き人の前にお目付役であり、御坊ちゃま自身に何かが降りかかり、それを跳ね除けるのは本人の成長にとって重要です。本当に命に関わるようなことがあれば手を貸しますが、そうでない限りはむしろ彼を監視、評価することが私の仕事なのでした。
御坊ちゃまがお友達と帰るとき、私は一人になることがありました。彼を監視こそすれ、束縛するわけではございませんので私は遠くからその後様子を伺うのです。そうすると、私はぱっとみ仕立ての良い執事服を着た一人で歩いている子供です。それは悪い考えをする人に、お金が歩いていると思わせるのでした。
上級生の三人組の少年が、私のところへやってきました。
「お前最近転校してきたやつだろ? 変な仮面」
リーダー格だと思われる、長身で日焼けした男児が言いました。スポーツでもしているのでしょう。こんがり焼けているなぁ、と私は呑気にも思いました。クラスではこの仮面はすでに個性の一つとして捉えられていますが、一歩外に出ればそれに対する言葉は刺々しいものになります。
「すみません、急いでいますので」
「いや、俺たちは急いでないから」
「いえ私が」
「だーかーらー、お前が急いでるかは関係ないの。俺が急いでないわけ。わかる?」
王沢の施設に長くいた私は、とりわけこの会話が理解できずにいました。彼が急いでいないことと、私が急いでいて早く御坊ちゃまの後を追いたいことはまったく関係ありません。意図的かそうでないかは分かりませんが、話が通じないというのは思いの外ストレスになるものです。
「急いでますので」
「仮面つけるなんて調子乗ってるよなぁ? なに? すげぇブサイクなの?」
こんがり君がそう言うのが早いか、私の背後に手下二人が回り込んでいました。それは元々そういう計画を持って近づいてきたということでしょう。別にそれはなんということはありません。私が本気を出せば上の学年とはいえ小学生三人ほどに遅れをとることはないのです。
降りかかる火の粉を還付なきまでに消し去るために、多少の実力行使も仕方ないと考えました。しかし、そんな考えはすぐさま不要になりました。
「おい月夜ー! 何やってんの!」
「ああ、なんだよお前」
御坊ちゃまが戻ってきたのです。
「いや学校に忘れものしちゃってさ、月夜さー、一緒に取りに行こうぜ」
「待てよ、取り込み中だぞ」
「なに、月夜なんかしたの?」
「お前にはカンケーねーだろ」
取り巻きの一人が、御坊ちゃまを突き飛ばしました。御坊ちゃまは三人組よりも二回りは小さいので、それだけでよろよろと後退しました。
しかし、御坊ちゃまは挫かれませんでした。
「月夜がなんかされてんの?」
「ああ、俺たちはそいつと仲良くしてやろうと思ってたとこなんだ。だからお前は関係ない」
「……おまえら、なんか偉そうだな」
私は耳を疑いました。それは上級生たちも同じでした。
「……はぁ? なんだって?」
「僕の名字、王沢って言うんだけど、実は王沢豪一郎の息子なんだ。知ってる? 王沢豪一郎。ニュースみてれば名前聞いたことくらいあるよね? 政治とかする人なんだ。だから、そんなに偉そうだと、あとで大変なことになるとーー」
パチン、と御坊ちゃまは頬を叩かれていました。
「偉そう、だ? おまえこそ上級生を敬えよ」
そう言いたくなる気持ちも分かります。親の威光を盾に年下からそんな態度を取られれば、普通に考えて頭に血が上るものでしょう。それにしても御坊ちゃま。まだ会ったこともない自分の父親の傘にこうも簡単に納まれるものでしょうか! 豪一郎様が自分の父親だとわかったのも最近のはずです! なんと厚かましいのでしょうか!
さらに御坊ちゃまは言いました。
「とにかくさ、そいつより僕の方がよっぽどすごいんだ。見損なってもらっちゃ困る」
ああ。ああ。
浅はかな私はそこまで聞いてやっと理解できたのです。御坊ちゃまは、私から自分に注意を向けるために、別に使いたくもない父親の名前をだしたのだと。
ふと御坊ちゃまと目が合いました。御坊ちゃまは目線で「行け」と合図しました。正直にいえば、そんなことをしてもらわずとも私は自分一人で対処できます。一方で、御坊ちゃまはそうではないでしょう。彼は私よりも小柄で、特別な訓練を受けたわけでもないのです。
私は孤児で、豪一郎様に拾われた身です。だから、人からの善意に慣れることが不安に感じることがありました。厳しい修練を課されるとはいえ、いつも温かいお風呂と柔らかいマットレスで寝ることができるのです。父母はいません。豪一郎様は彼自身を私の父親にするかどうか決めていいとおっしゃいましたが、私はそうしないことに決めました。理知的な何かより、感覚の問題でした。それがしっくりきたからです。親子関係とはおそらくそういうことでしょう。
私は豪一郎様を父親ではないと決めたので、父親を含む両親はおりません。まったく寂しくないといえば嘘になります。でも、それはそう決めただけの話なので、それが不満というのはお門違いです。
私は、与えられる善意に不自由を感じておりませんでした。それなのに、目の前にある善意に感動してしまったのです。
御坊ちゃまは小さく、弱い。そんな彼が、大して親しくもない私を守ろうとしているのです。
三人組は御坊ちゃまを囲み始めました。
私は御坊ちゃまを助けたくなりました。でも、すぐに助けるなと言われております。彼に降りかかる幾多の試練が彼を『王沢』にするのです。私は彼らと距離をとり、自販機の陰に隠れました。何かあったら改めてすぐに助ける心構えだけ持ちながら。
こんがり君が言いました。
「おまえ面白いな。おまえの父親が王沢なわけないじゃん。王沢って、よく総理大臣と一緒にニュースになってる人だろ? 狂ってるんじゃねーの」
「いや僕も信じられないんだ。最近はっきりそう聞いたんだよ」
「最近聞いたってなんだよ、もう少し上手い嘘考えろよ」
「嘘じゃないさ」
「だったらさ、いくら持って来れるん?」
「……え?」
「いやだって、王沢の息子だとしたら大金持ちのはずだよなぁ。俺はさ、むかついてるわけ。さっきの奴の仮面をとってどんな顔か拝もうと思ったのに、それが叶わなかったんだよ。だからその慰謝料が必要だよなぁ? 十万でいいよ」
三人に囲まれた御坊ちゃまは、一人ずつねめつけて言いました。
「明日、用意するよ」
用意するんかい。それに呼応して、リーダー格は言いました。
「じゃあ、用意できるまで毎日腹パンな。放課後、校門に集合な」
御坊ちゃまが三人組から別れた後、私はすぐさま駆け寄りました。
「大丈夫でしたか、御坊ちゃま」
「ああ、見てたのかよ意地悪だなー。まぁどーってことないけどなー」
「でも明日までに十万を用意することになってしまったではないですか」
「……まぁなんとかなるだろ。僕は王沢だし」
私は豪一郎様が御坊ちゃま宅に、現在一切支援していないことを知っております。お母様もパート働きのみで、家計に余力がないのは間違いないことでしょう。
「僭越ながらなんとかならないと思います。それに、用意できなかったら、昼食を用意しなければならないんですよね。腹パンと言っておりましたか。腹持ちのいいパンのことでしょうか……」
御坊ちゃまは吹き出しました。
「腹にパンチだよ。月夜はバカだなー!」
「し、失礼な! ちょっと勘違いしただけじゃないですか!」
「いや、腹パンを腹持ちのいいパンとは思わないだろフツー。どんな環境で育ったんだよ」
「そ、そりゃ私は……」
私はおそらく特殊な環境で育っています。なぜ、それを口に出すことが憚られたのかはわかりません。ただただ私は、言葉に詰まってしまいました。
すると、すかさず御坊ちゃまは言いました。
「まぁ、みんないろんな環境で育ってるからそういうこともあるか。僕もボシカテーだし」
御坊ちゃまは一人納得した様子でヘラヘラしておりました。私の心配などまったく関係のない様子で、御坊ちゃまは急にこんなことを言いました。
「そうだ、ウチこいよ。今日お母さんが仕事で遅いんだ」
「どうしてですか?」
「だって付き人なんだろ? 晩御飯作ってよ」
御坊ちゃまの暮らしているのは生活感のあるアパートです。
玄関ドアからリビングまでの途中に扉がなく、おそらく冬はとても寒くなるでしょう。台所は部屋というよりもむしろ廊下で、必要最低限の場所だなぁという感じでした。
冷蔵庫の中身を見ます。
するとたくさんの食材が見て取れました。これならなにかつくれそうです。私はそこからにんじんを一本取り出し、まな板の上に置きました。そして包丁を用意します。
私はそれを大きく振り上げ、にんじんを真っ二つに切りました。にんじんは左右に弾け飛び、床の上ではねました。
「いやちょっと待てよ! なんだよその切り方!」
「え? 何かおかしかったでしょうか……」
「いやにんじんを切るときに頭の上まで包丁を振りかぶるやつはいないから!」
「そ、そうなのですか!」
「ひょっとして、料理やったことない?」
「……お恥ずかしながら」
「じゃあいいよ。僕作るから、その辺で待ってて」
言うと、御坊ちゃまは慣れた手つきで野菜を切り分け、あっという間にカレーの下ごしらえを終えました。
「あとは煮込めば完成だ」
「……すごい。手慣れていますね」
「ボシカテーだからなー」
御坊ちゃまは笑いました。
「それにしてもさ、付き人って料理の勉強はしないのかよ」
「それは王沢の付き人に課せられた使命には入っていませんでしたので」
「不便な付き人だなー。てゆーか生きていくには料理くらいできた方がいいと思うけどな。外食しかできないんじゃ食費がかさむぞ」
「まぁ、やろうと思えばできますけどね。さっきも御坊ちゃまに止められただけで、最後までやらせて貰えば十分美味なカレーが作れたでしょう。そもそも私は、王沢の付き人候補が行う英才教育をトップクラスの成績で潜り抜けたのです。同世代にできて私にできないことなどないですからね」
「おまえプライド高くて、おもろいなー」
「な!」
御坊ちゃまはおかしそうに笑いました。その後少ししてカレーは完成し、振舞われたそれを口にしました。
「どう? うまいだろ」
「普通です」
「な、なんだと!」
「カレールーが市販ですから、大体同じ味になるでしょう」
「そりゃそーだけどさー、普通うまいって言うだろ、食べさせてもらったらさー」
「た、確かに……」
私はなんだか恥ずかしくなりました。先ほど料理をやったことないことを指摘され、少し対抗意識ができていたのかもしれません。それでも、礼を失する理由にはなりませんが。
「まぁいいや。あ、お茶用意してなかったなー」
言うと、御坊ちゃまは私の背後の冷蔵庫の方へと足を運びました。私はその間、もう一度カレーに口をつけました。普通、と言ってしまいましたが、それは美味しいと言う意味です。なぜなら市販のカレールーは大概美味しいのですから、素直にそういえばよかったのだと反省しているときでした。
目の前が涼しくなりました。
そして視界が明るくなりました。なにが起こったかすぐにわかりました。
マスクが、外されたのです。
「え、おまえ、どんなブサイクかと思ったら、女みたいな顔してるんだな。まつ毛ながー!」
「な、なにを!」
不覚にも不意をつかれ、背後の隙を狙われたのです。
「か、返してください!」
「やだよー!」
私はすぐさま狭所戦闘のテクニックを利用して御坊ちゃまの背後に周り、すぐさまマスクを奪い、装着しました。
「なんだよお前はっや!」
「王沢の付き人であれば当然のことです。私の顔は見なかったことにしてください」
「ええー、見ちゃったけど」
「見なかったことにしてください。いいですね」
私は凄みました。王沢の英才教育で習った直伝の威圧です。
「……は、はい」
齢十歳程度の坊やであれば、それに反抗することなどできないのです。二人で席に戻り、改めてカレーを食べました。綺麗に最後まで食べ終わり、ごちそうさまと手を合わせました。私は御坊ちゃまに提案します。
「御坊ちゃま。大変美味しくいただきました」
「それは良かったよ」
「私も料理をしたことがない不見識を恥入りました」
「重いなー」
「御坊ちゃま。少し時間をいただきたく思います。私も研究と練習を重ねれば、きっと美味しいカレーを、いえ、料理全般を作ることが可能でしょう」
「すごそうだなー」
「ぜひ、待っていただければと思います。いずれ、御坊ちゃまのほっぺたを落としてみせます」
「楽しみだなー」
御坊ちゃまは本当に楽しそうに笑いました。その笑顔を見ていると、私はたくさん料理の練習をせねば、と気合が入りました。
さて翌日の放課後、私は勝手に身構えておりましたが御坊ちゃまの身に何かが起こることはありませんでした。放課後になり、御坊ちゃまの帰り道に校門のところで何かが起こるかとそわそわしたものですが、なぜかそこに三人組が現れる様子はありませんでした。当然腹パンされることもありません。それは翌日も、翌々日もそうでした。三日も過ぎると、私は自然とそのことが頭のどこかに追いやられ、次第に意識しなくなっていきました。
もし言い訳を考えるとすれば、私は御坊ちゃまの付き人になってから日が浅く、それがどんな業務かよくわかっていなかったというのもあるかもしれません。だから、起こった問題に進展がなくともそういうこともあるかもしれないと安易に考えてしまったのです。
しかし、当然それは終わっていない事柄でした。
それに気がついたのは事件から十日後の昼休みのこと。クラスみんなで給食を食べ、そして食べ終わった人からグラウンドや図書室など思い思いの場所に遊びに行くのですが、私は食べるのが遅くいつも出遅れていました。また、御坊ちゃまは食べ終わりが早く真っ先に教室から出ていってしまうため、その間どこで何をしているのかわからないのです。
その日、私はたまたま昼食前に職員室に呼ばれておりました。別に大した理由はありません。学年主任の先生に、学校生活はどうかなどの簡単な質問をされたのです。私はご承知の通り仮面をつけておりますので、彼なりに新しい転校生のことを心配してくれたのかもしれません。放課後でなくこの時間であることも配慮なのかもしれません。
大したことない話が終わり、私は教室に戻り一足遅い給食にありつこうと思ったところで教室から出ていく御坊ちゃまを見かけました。基本的に、御坊ちゃまを見かけたらできる限りついていくようにしています。だからこれは癖と言っていいかもしれませんが、私は御坊ちゃまについていくことにしました。
てっきり御坊ちゃまは校庭にでもいくのかと思っていました。しかし、彼が向かったのは上級生のクラスのある上の階でした。しかも、御坊ちゃまは誰もいない空き教室に入っていきました。
なんの用だろう。空き教室には誰もいないようでしたから、後から誰かが来るのでしょうか。
私は掃除用具入れの陰に隠れて見守ることにしました。予感は的中し、数分後に例の上級生三人組が現れ、教室に入っていきました。彼らは和やかな雰囲気で教室に入っていくと、キョロキョロ廊下を見渡した後にドアを閉めるのでした。
私はすかさず近づき、壁につけた耳をそばだてました。
「で、いい加減持ってくる気になった? 怜ちゃーん」
「……いや、もうこの際はっきりいうけどさ、僕お金は持って来ないから」
背筋が凍るような失態です。
考えればわかったかもしれないことを、それをしなかったばかりに間抜けにも偶然の発見に頼ってしまったのです。御坊ちゃまと三人組のやりとりは、今日まで続いていたのです。放課後ではなく、いつの間にか落ち合う時刻を昼休みに変更していたのです。
理由は明白です。私に隠すため。元々私が絡まれて始まった出来事ですから、私に気付かれると余計にややこしくなると思ったのかもしれません。
「へぇ。じゃあ今日も一発づつだなー、いくぜー」
ああなるほど、御坊ちゃまは毎日こうやって殴られていたのです。それがもっとも波風の立たない方法だと決めつけて。それが御坊ちゃまの判断であるならば、私はその選択を尊重しなければなりません。お目付役として、彼が乗り越えられることは彼に任せる必要があります。
ガタン、という音がしました。それは殴られた音というよりは、殴られた拍子に御坊ちゃまが机でも倒してしまった音でしょう。私の中のタガが外れました。
気づくと私は、ドアを開けて飛び出していました。
「御坊ちゃま、何してるんですか」
「あ、お前仮面のやつ!」
「うわ、月夜じゃん! 来なくていいのに!」
あちゃあといった感じで御坊ちゃまは顔を抑えていました。
「そういうわけにはまいりません。私は御坊ちゃまの付き人なのですから!」
啖呵を切った私に、こんがり君は笑いました。
「付き人ってなんだよっ! 何お前、そのゴッコ遊びは寒過ぎだろー! 王沢の息子ごっこ⁉︎」
すると、今度は御坊ちゃまが笑い出したのです。
「はっはっは。本当に、僕もそう思うよ。王沢の息子ごっこが本当だったら寒過ぎるよな。だから、そんなことしないよ」
「何がおかしい」
「だから、お前はもっと考えるべきなんだよ。もしそれが本当だったらどうなるかってことをさ。お前はすでに十日、王沢の息子に腹パンを毎日やったんだ。悪いけど、録音もしてるよ。それは遊びかもしんないけどさ、大人がどう受け取るかはわかんないよね? 少なくとも王沢の関係者は、これを重く見るかもしれないだろ。そうしたらお前ら、どうなるの?」
ふてぶてしく、御坊ちゃまはそう言い切りました。しかし、こんがり君はむしろ表情に苛立ちが混じりました。その言葉を受け入れる雰囲気はありません。
一方で、他の二人は違う受け取り方をしたようです。
「おい、もうやめた方がいいんじゃねーの?」
三人の中で一番小柄な手下君。彼に対して、こんがり君は凄みます。
「はぁ? 何いってんだよ。次はお前の番だよ。なぁ」
「……ああ」
そのやり取りに呼応するように、御坊ちゃまは手下君の前に立ちました。御坊ちゃまは言いました。
「あいつよりお前の方が賢いよ。お前ら三人友達ならさ、あいつのいうこと聞かないでさ、お前がリーダーになれよ」
「早くしろよ」
こんがり君の言葉に、手下君は腕を振り上げました。私は止めようと思いましたが、御坊ちゃまが目で制しました。
御坊ちゃまは避けるためか、ボクシングのように小太りに抱きつきました。いわゆるクリンチです。
「おいおい、それ禁止だぜー、怜ちゃーん。殴らせてくれなきゃよー。この間俺に抱きついたときにいったよなぁ?」
「それを決めるのはお前じゃないよ」
御坊ちゃまは言いました。
「僕は王沢だ。知ってる? 王沢、それは人々を統べる存在だ。だったらさ、お前らの在り方を決めるのも僕なんだよ。これは王沢からの御神託。今命ずる。この三人の中で、指導者はお前だ」
御坊ちゃまは手下君を指差しました。御坊ちゃまには後光が差していました。それが本当に差しているものか、あるいはなんらかのプレッシャーでそう感じたのかは分かりませんでした。
ああ、王沢。だから彼は王沢なんだと、私は意味もわからないまま理解しました。
手下君は頬から汗を垂らし、その言葉に頷きました。
「おい何やってんだよ。早く離れて殴れ……」
最初は威勢のよかったリーダーも、徐々に萎れていくようでした。
「おまえ何いってんだ?」
「……え、あ、ああ」
目の前の光景が理解できません。急激にリーダー格のこんがり君の、手下君を見る表情が怯えを含むものに変わったのです。
「もうやめとくぞ。何が起こるかわかんないし」
自信があるのかないのかもよくわからない手下君の言葉。
「そ、そうだな」
それに、こんがり君は素直に頷いたのでした。
三人組は、あっさりと教室から出ていきました。私はすぐに御坊ちゃまに駆け寄りました。
「大丈夫ですか、御坊ちゃま!」
「ああ、別になんでもないよ」
私は御坊ちゃまのシャツをめくりあげました。お腹には青紫のあざがいくつもできていました。
「どうしてこんなことに……」
「やめろよ恥ずかしい! ……別にいいだろ、結局何事もなく終わったんだ」
「というか、それが理解できないのですが……」
先ほど、私の目には突然三人組の立場が逆転したように思えました。こんがり君が発言力を失い、反対に手下君が上に立ったのです。
「なんだかさ、僕、わかるみたいなんだよ。立場の入れ替え方が。その、立場を変えたいやつを包み込むとさ、それができるようになるんだ。だから、殴られる時に抱きついといたんだ。おかしいかもしれないけど、でも、できたんだ」
「……王族の権利」
「え、いんぺ……何?」
「御坊ちゃまは、きっと祝福を受けたのでしょう。王沢の血筋のものは、代々不思議な能力を使うものが現れると聞きます。それが王族の権利。王沢を特別な地位に至らしめる力です」
「ええ……すげえ。じゃあ僕、本当に王沢なんだな」
御坊ちゃまは両手をグーパーしながら、何やら浸っていました。しかし、そんなことをしている御坊ちゃまが私は信じられませんでした。
「御坊ちゃま。今日で十日です。その素晴らしい力があるのにどうして今日まで使わなかったのですか」
結果として、彼のお腹はアザだらけになっています。ただやられるだけというのは、賢い行いとは思えません。
「いや、だってさ本当にうまくいくかわからなかったし」
「ですが使える予感はあったのでしょう。だから使ったはずです。そんなに殴られるのを耐える意味が、私には分かりません」
「……泣いてるの?」
「ま、まさか!」
言われて、私は自分の目頭が熱くなっていることに気がつきました。
「ひょっとして僕が傷つくと、月夜に罰があるとか?」
「そんなことはないですが」
「じゃあ、どうして」
「どうしてもこうしてもありませんっ!」
私自身、どうして泣いているかが分かりません。私はひとまずマスクを浮かせて目元を拭いました。
「とにかく、です! 今後こういうことがある場合は私に相談してください! 付き人なんですから。私ならいくらでも対処できました」
「嘘だ〜」
「いいえ、私は王沢の付き人になるために特殊な訓練を受けているのです」
「まぁ、月夜がそういうならそうしようかな。あんまり意地張ってもしょうがないよなぁ。兄として」
「……兄?」
不思議な言葉に、私は首を傾げます。
「付き人がつくなんて柄じゃないしさ。でも月夜はいつも僕の後を不安そうに追っかけてくるわけじゃん? それって、弟としか思えんし。まぁ一人っ子だから知らんけどなー!」
私が弟で、彼が兄。
私はその言葉を、とても愛おしく感じました。能力を使われたわけじゃないけれど、まるで能力を使われたかのように、それは私の心に溶け入りました。
御坊ちゃまは私にとって、初めてできた家族なのです。でも、その感動に堪えて言いました。
「なぜ私が弟なのですか! 絶対に兄じゃないですか! 大きいし」
「はぁ? どう考えても僕の方がしっかりしてるだろ! クラスで聞いたらみんな僕が兄だって答えるね!」
「そんなわけないじゃないですか! しっかりしてたら、すぐに能力を使って対処をしていたはずです!」
「僕は……なるべく使いたくないんだ」
御坊ちゃまの言葉が少々弱くなりました。
「なぜです? その能力は王沢の血を引く御坊ちゃまの特権です。別に誰かに咎められることもないでしょう」
「でも、人を変えてしまうんだ。それはもしかすると、とっても嫌なことかもしれないじゃないか」
自分の力が他人からどう思われるのか。十歳の御坊ちゃまは、すでにそこまで思い至っておりました。それは素晴らしく、優しいお人柄。
でも。
でも、それはまだ半ばの考えです。王沢であれば、その能力を使って人を幸せにすることを考えるべきなのです。
たった今、ご自身を救ったように。
「結局使いましたよね?」
「まぁいざとなりゃしょうがないよ」
「御坊ちゃまは王族の権利をもっと使っていくべきなのです。御坊ちゃまはいずれ人を導くリーダーになるのですから、良き使い方を模索すべきなのです」
「そうかなぁ」
今まさに能力を使ったにも関わらず、御坊ちゃまは煮えきりません。私はそんな御坊ちゃまをむず痒く思いました。何せ私は、御坊ちゃまが能力を使ったのが、この場にやってきた私に被害が及ばないようにしてくれたのだと思い至りもしなかったのですから。
あったばかりの、まだ十歳だった私たち。
私はそのときから、この方の本当の家族になれないかなぁと、強く思い続けてきたのです。




