第二章 6 香澄邸
そして木曜日。
明日はさよならのパーティを控えたこの日の放課後、やってきたのは香澄邸である。
繁華街からはやや離れた邸宅街。標高が高くなればなるほど敷地面積が広く豪奢になるこの地域で、栞の家は中腹ほどに存在した。黒い外観のデザイナーズハウスは奇抜で目を引く外観だ。彼女の父親は新進気鋭の政治家らしく、まだ上があるし、埋もれてはいけない。住まいさえ、そんな主張をしているのだろうか。
「こんにちは、王沢怜君。この度はこちらにお伺いいただき感謝します。栞の父の香澄弦です。よろしく」
栞のお父さんは背が高く、とても爽やかな人だった。元キャスターだとかで滑舌も良く、ツーブロックには清潔感がある。高校生の僕にも腰を低くして握手を求める様は、なるほど政治家とはそういうものなのかもしれないと思わされた。
「実は僕の師匠に溝口先生っていう人がいるんだけど、王沢君のお父様はその人のお師匠様的な存在だったんだ。だから僕は会ったことがないんだけど、王沢先生は本当に尊敬していてね。その息子さんが栞と同じ学校に通っているだなんて、感激さ」
「ちょっとお父様、まず怜様が困っていますよ。まずはお部屋に案内いたしましょう」
「そうだったな! ははは! 玄関で立ち話はよくなかった、早速奥へどうぞ」
通された広く片付いており、よく手入れして住んでいるんだなぁと思わされる。腰掛けた革張りのソファーは柔らか過ぎて、僕は少し居心地が悪かった。棚には数々の賞状やトロフィーが飾られ、住人の栄光がそこに燦然と輝いている。
「おい、早くお茶をお出しして」
「はい、ただいま」
お父さんの呼びかけに呼応して、栞のお母さんと思われる女性がお盆に麦茶と焼き菓子を乗せてやってきた。焼き菓子は高級で知られるデパートのクッキーだ。
栞のお母さんはとても綺麗な人だった。長い黒髪にモデルのようなすらっとした体躯。切れ長の目元には優しそうな笑顔が浮かぶ。きっと栞は成長すれば彼女のようになるのだろう。彼女はテーブルにお茶を並べると、軽く会釈してすぐに奥に引っ込んでしまった。政治家に嫁ぐとそうなるのだろうか。まるで女中のようだ。
一方で、ガラステーブル越しに座るお父さんは、足を広げてソファーに腰掛ける様はこの家の主人という風格があった。
「色々お話ししてみたくてね。よければ、王沢先生はどんな人だったか聞いてもいいかな?」
「残念ですが、僕自身父には会ったことはないんです。ご期待に添えずーー」
「ああ、いいんだいいんだ! ただ、今回のお見合いは王沢先生のご希望だと聞いたのだけれど」
「月夜……彼経由で僕に父からの指示がくるんです。いつもそんな感じで」
傍に立つ月が軽く会釈した。
「お坊っちゃまの付き人の、片側と申します。私は豪一郎様の秘書様からご連絡を受け、氏のご意向をおぼっちゃまに伝えております」
月夜のマスクに虚をつかれたのか、彼はやや顔をしかめた。しかしそれも一瞬で、すぐさまもとのにこやかな表情に戻る。
「君も、豪一郎先生には会ったことはないの?」
「お会いになるなど恐れ多いことです」
「そうか、それは残念だな……」
本当に残念そうな表情が浮かぶ。意外と腹芸のない人なのかもしれない。
「お父様、そんなに豪一郎先生のお話ばかりでは怜様に失礼ですよ。今日いらしたのは怜様なのですからーー」
「黙っていなさい栞。これは大切な話なんだから」
言われ、栞はビクっと肩をちじこませた。
お父さんは続ける。
「会ったことはないとはいえ、怜君は王沢先生の跡取りの候補だと聞いているよ? きっと立派なんだろう。不肖な娘だが、ぜひ仲良くしてやってください」
「いえいえ、栞は僕には勿体無いほど素敵なお嬢さんだと思いますよ」
チラリと栞の方を見ると、彼女は顔を伏せて照れている。
「王沢先生は日本のエネルギーの父だ。彼がいたから日本の産業は成長できたし、焼け野原だった日本は豊かになった。僕も王沢先生のように、日本に影響を与える政治家になるつもりだよ。こんなことをいうのはなんだが、栞と付き合っても絶対に損をさせないと誓おう」
話は常に弦さんのペースだった。彼はその後もいかに王沢豪一郎がすごい政治家で、自分が彼にどう憧れ、彼自身がこれまでにどんなことをしてきたかを話していた。
一時間ほど話したところで、弦さんは話し過ぎてしまったねと立ち上がった。
「このあと会合があるのでね。あとは、栞に任せるから、部屋にでも案内してやりなさい。くれぐれも粗相のないようにな」
「わ、わかっていますよ、お父様」
「ところで、付き人さんは……?」
「部屋についていくような無粋な真似はいたしませんので、ご安心ください」
彼女の部屋に向う途中で栞に尋ねた。
「別にお宅訪問だからと言って、無理に部屋を見せてくれる必要はないんだよ?」
「いいえ、せっかく片付けたのですから! ……お見苦しいところですが、来ていただけると嬉しいです」
彼女のいう通り、それはとても片付いた部屋だった。ベッドと机に本棚以外、特徴的な家具はない。本棚には大学受験の参考書が詰め込まれ、彼女の勤勉性を表していた。カーテンやシーツは薄いブルー系でまとめられており、目にはとても落ち着く部屋だった。ただし、桃のような甘い香りは僕を少しそわそわさせる。
「すみません、椅子がないのでベッドにお座りくださいますか?」
「え、いいの?」
僕は促されるままベッドに腰をおろす。いつも栞が寝ている場所かと思うと少し緊張した。
「すみません、お父様は自分のお話ばかりで」
「いやいやそんなことは」
やんわり否定したが、確かに彼自身の話が多かった。もっとも自分の歩んだ道を語ることができるのは政治家としては正しい気もするが。
栞は僕の横に腰をおろした。別にそれだけなのに、なんだかいけないことをしているような気になってしまう。
「……もう、怜様の中には意中の方がいらっしゃるんでしょうか……?」
不安そうに、栞は呟いた。
「まさか。栞が僕のことをよく知らないように、僕もみんなのことをあまり知らないから」
「知っていただくことが、重要なのでしょうか?」
「そりゃ、最終的に結婚するんだし、知らない人と結婚するわけにはいかないよ」
「じゃあ、怜様は知る努力をなさってくださいますか?」
彼女は緊張したかのように喉を鳴らした。
手が触れた。微かに彼女の手の震えが伝わってきた。指先が冷たくて、僕は思わず彼女の方を見た。彼女は下を向いていた。
それでも、彼女が何かをしようとしていることはわかって。
僕はある意味で、それを利用しようと思ったのだ。彼女は僕に抱きついてきた。
「嫌ですよねこんなこと。わたくしって狡いんですごめんなさい。でも、こんなことをしなくちゃ、きっとわたくしは選んでもらえないから」
言った彼女を、僕は抱き返した。それはもしかしたらとても卑怯なことかもしれないが、僕にはそれが必要な気がした。
僕は彼女に耳元で尋ねた。
「栞なんでそんなこと言ってるの?」
「……え?」
彼女の体の熱を感じる。微かな震えも、その柔らかさも、彼女のすべてを感じることができる。きっと君は、悪い人間ではないのだろう。だからこれは不本意でもある。でも、必要なことだ。
必要なことだと、僕が決めた。
僕の腕の中には栞がいて、彼女の居場所を僕は理解する。とても低く設定されたその場所が僕の中に刻まれ、なんだかすごく苦しくなった。
栞は僕を強く抱き返した。胸が押し付けられる感触がある。それこそが彼女の武器で、だからこそそうやっているのだろう。
でも、違うのだ。狡いのはきっと、僕だ。僕は、彼女を引き離した。彼女の表情が、絶望に歪んだ。
「これは不敬でしょうか? 許されざることでしょうか? わたくしはすでに怜様に見られています。だから私は、もっとできます」
栞はニットの服の裾をたくしあげようとした。僕は咄嗟にその手を掴んで止めた。彼女の表情は文字通り青くなった。違うのに。そうじゃないのに。彼女はきっと、何かに怯えている。
「やはりこれは、怜様にとっては嫌なことだったのですね」
喉がカラカラに乾いている。本当であれば、それを止めたい理由なんて一つもないのだ。ただこれは本当ではないから、止める理由は無限にある。
「ここで何があったかは、後で月夜に話さなきゃならないんだ。だから、いくよ」
「待って……」
後ろ髪を引かれる思いだった。
でも僕はその部屋を後にして、そしてリビングで待っていた月夜と落ち合い、香澄邸を後にした。




