3話・ヒエラルキーはいつも
「だーかーら。なんで単色で適当に塗っちゃうの」
「こんな小さい葉っぱ一枚一枚の色変えるとか、めんどくせぇ!」
「それをやるのが美術なんだって! なんのために筆が沢山あると思ってんの!?」
思いつきにも近い葵の要望は、週に一度という形でほぼ無理やり叶えられることになった。
バスケ部が休みの金曜日の放課後、葵は美術室を訪れる。
部員数の少ない美術部に、葵という異質な存在が紛れ込んだことを、部員たちは多少驚いた様子を見せた。が、葵の得意な社交性によって、数日もすれば当然のように馴染んでしまう。
「……じゃあ、こうすればよくね?」
葵は、絵の具のついていない筆をとる。そして、水だけをつけて、キャンパスに筆を落とした。
緑一色だった木の葉は、水を含んでグラデーションを描き出す。水分量の差によって滲み方を変え、濃淡を変え、葉っぱ一枚一枚が個性を持ち出した。
「……まあ、これでもいい」
「なんだ、最初からそう言えよ」
「基礎ってのが!」
「はいはい、わかった、俺が悪かった」
僕たちのやりとりを、下級生らがクスクスと笑う。その様子を見て我に返り、気持ちを落ち着かせるための咳払いをする。
「美術の先生より、九条のほうがよっぽど怖ぇよ」
「僕は君の自由さが怖い」
「絵は自由だろ」
「……まあ、そうだけど」
社交的で自由人。感性が鋭いくせに大雑把。多少の几帳面さだけでも持ってくれれば伸びるであろう素質が、僕の語気を常に強くした。
ひと段落したところで、僕は帰り支度を始めた。
「もう帰んの? 珍しくね?」
「用事があるからね」
「じゃあ、俺も帰る」
合わせる必要ある? とは思ったが、葵の行動まで管理するつもりはない。
二人で校門を出たところで、僕は初めて葵の進む方角が自分と同じであるとこに気づいた。
最初は偶然だと思ったが、どれだけ角を曲がっても葵が隣にいる。
「家、こっちなの?」
「いや。俺は電車通学」
「じゃあなんで」
「送ろうかなって」
その考え。僕が徒歩通学だったからいいものの、真逆の電車とかだったらどうしたわけ?
……とは思ったが、葵の性格上、聞いても答えは変わらない気がした。
「帰り道が分からないって言われても知らないよ」
「じゃあ、連絡先交換しようぜ」
流れる勢いで、葵はスマホを僕に向ける。
「いい、けど……」
同級生の連絡先一つなかった僕の通話アプリに、葵の名前が増えた。
画面を眺めては落ち着かない気持ちのやり場を持て余していると、やがては自宅へとたどり着く。
「でっか……」
「こ、ここら辺じゃ普通だよ」
一般的には、高級住宅街と呼ばれる一帯。曲がり角の先にある門構えをみた葵は、愕然とした表情で瞬きを繰り返していた。
そして、何かを考え込んだあと、ハッと僕の方をみる。
「九条……九条って、もしかしてあの九条グループの」
「気のせいだから!」
葵の背中を押し、無理やり帰宅を促す。慌てたせいで送迎の礼も言えないまま、僕達は別れた。
「……ただいま」
玄関に入れば、どこか重苦しい空気が全身にのしかかる。暖房のむせ返る暑さに、外の空気が恋しく思えた。
「裕樹。お父様が帰られているわ。挨拶なさい」
リビングからやってきた母親が、真っ先に指示を出す。
「はい」
返事をしてカバンを召使いに預け、僕はそのまま母親の背中を追った。たどり着いた先は、普段は一切近寄ることのない父の書斎だ。
母に視線で入室を促され、中へと入る。大きな社長椅子に腰掛けた父が目に入った途端、僕の背筋に汗が流れた。
「大きくなったな、裕樹。制服を買い換える必要がありそうだ」
「い、いえ。今のままで充分です」
二年生になってから多少背が伸び始めたとはいえ、窮屈さは感じていない。だが、咄嗟に出た遠慮の言葉に、父の眼光がギラついた。
「裕樹」
「はい」
「私の言葉には「はい」と言えと教えたはずだ」
「……申し訳ありません」
呼吸の仕方を忘れたように、息が浅くなる。どうにか拳を握りしめて、立ち続けることに集中する。
「美希から聞いている。お前……また、試験で二番だったようだな」
期末結果は、すでに母から父へと伝えられているようだ。……満点まで、あと一点足りなかった。単純なケアレスミスに気づけなかった。
「裕樹、お前はいつもそうだな。中学受験にボーダーライン一歩手前で落ちたときから……いや、生まれてからずっとだ。ずっとお前は、私の期待と信頼を裏切り続けている」
父の言葉が鳴り響くたびに、喉が渇いていく。
母を見れば、父と同じように呆れた顔をしていた。
「そうは思わんか、裕樹」
「……はい」
「お前の兄は、常に私の望み以上の結果を持ってくる。一度だって、指導の必要はなかった。お前は、いくら目をかけてやっても雑草以下の価値しか産まん」
「……はい、おっしゃる通りです」
僕の言葉を聞き、父は深く息を吐き出して姿勢を崩した。。
「……スペアでよかった。お前が跡継ぎだったのなら、歴史ある九条グループの恥さらしとなっていたところだった」
スペア。今更、この言葉に僕の感情が揺らぐことはない。
僕は、兄に何かあった時の最悪の保険だ。最低限の体裁と最低限の「九条グループらしさ」さえあればいい。
だがその最低限すらも超えられない僕に、ついに父からの最終決断が下る。
「中学の間に、なんでもいい。一番を取ってこい、裕樹。そうでなければ、お前は“スペア”ですらなくなり、以降この家の門をくぐることを許されないと思え」
「……はい、お父様」
部屋に戻り、ようやく僕は全身の力が抜けた。
過呼吸気味になっている呼吸を自力で押さえ込み、胸の痛みを忘れることに専念する。
「っは……」
冷や汗が気持ち悪い。早く風呂に入って冷やそう。そんな冷静な思考がある反面、体は鉛のように重かった。
「くそっ……」
せめて部屋の電気くらい、と立ち上がりかけたとき、ズボンからスマホが転がり落ちる。床に落ちた衝撃で付いた画面には、一通の通知を知らせていた。
「……葵?」
宛名を見て先ほど連絡先を交換した相手だと知る。アプリを開けば、写真と共に短いメッセージが入っていた。
『でっけぇ公園見つけた!』
近所の公園だ。僕にとっては見慣れた公園だが、写真に写る葵は随分と得意げな顔をしている。
「……馬鹿だなぁ。そっちは駅と逆方向だっての」
思わず口角が上がる。
(教えてやろうか、いや……時間的にもう帰ってそうだな)
今どき、いくらでも地図アプリは存在する。と、連絡先の交換を断る言い訳がいまさら浮かんできた。しばらく悩んで、
『送ってくれてありがとう』
それだけを返し、スマホを閉じる。
「……自由なやつだなぁ」
能天気な笑顔が、頭の中で僕に話しかけてくる。
『絵は自由だろ』
そうだ、自由だ。そしてそれが、僕が常に二番である理由でもある。
持っていない者が持つ者に敵うはずなどないのだ。
「いいなあ……お前は」
ヒエラルキーの上を見上げて嘆く自分の姿がいつも以上に滑稽に思え、僕は鼻を鳴らした。