2話・葵という男
期末テストが終わり、あとは冬休みを待つばかり。テスト期間の張り詰めた空気が緩和され、学校全体がのんびりとした空気に包まれていた。
それは教師も同じようで、いつもならば冬のマラソンと称して外を走らせる体育教師も、今日ばかりは室内球技を生徒に自由にやらせていた。
広々とした体育館は三つの仕切りで分けられ、バスケ・バレー・バトミントンが行われている。合同授業ともあってか参加は自由で、所謂“陽キャ組”が交流の場として体育館を独占していた。
僕は寒さをしのげる場所で、体育座りをしてそんな光景を眺める。周囲には似たような思考の人物も多くいて、まるで見学組の集会所のようになっていた。
「葵! シュート!」
目の前のコートでは、男子生徒らがバスケに勤しむ。見学席からでも、葵がその輪の中心人物になっていることが確認できた。
仲間からの掛け声とともに飛んできたボールを片手で受け止め、焦って寄ってきたディフェンスを華麗に躱す。そのままシュートラインよりずっと離れた場所から、葵は見事にゴールを決めていた。
女子の歓声が、耳を塞ぎたくなるくらいに響き渡る。
(そりゃ、人気で当たり前か)
汗一つかかず、笑顔で仲間らと交流する姿に嫌悪感を抱く者などいないだろう。
先生の笛と共に、試合終了の合図が流れる。得点板を見れば、葵たちのチームが大差をつけて勝利していた。
「おい、五組! 葵を出してくんのはズリィだろ!」
「いつも三組のほうがサッカーボロ勝ちしてるからいいだろ!」
そんな仲間内のやりとりに、葵はケラケラと笑っている。まるで、前々から同級生だったかのような仕草だ。
「よし、チームを入れ替えるぞー。見学組、お前らのことだぞー」
先生の声に、ギクっとしてどうにか人ごみに隠れようと尻を動かす。
だが結局、先生が選んだ無作為なチームメンバーの一人に命じられてしまった。
スポーツなんて苦手です、って人間の集まりだ。当然、試合は両チームとも不格好に進んでいく。先ほどとは打って変わって盛り上がりに欠け、ボールの音だけが響く静かな空間に早変わりしてしまった。
(……やだなぁ)
どうして先生とかいう生き物は、わざわざ生徒側の空気感を変えることをするのだろう。葵たちがやり続けていた方が、よっぽどおさまりがいいのに。
どうにかパスが回ってこないように、と空気に徹する。しかし、誰かの手から零れたボールは、無情にも僕の前に転がってくる。
ついでに、葵とかいう存在に認知されてしまっていたのも運の尽きだった。
「九条! シュートできるぞ!」
外野に交じっていたはずの葵が、僕に向かって大きな声を上げる。葵の囲いは「知り合い?」と言いたげな顔を明らかにしているし、陽キャからの掛け声に、チームメンバーも固まって動かなくなってしまった。
恥ずかしさがこみ上げる。
(アイツ……余計なこと言うなよ!)
とにかく、早くこの場を脱したい。その想いで、急いでボールを拾って、僕はゴールすら視認せずにボールを投げた。
当然、入るわけもなし。
「惜しい! ナイスファイト!」
葵のフォローの声が、虚しくて情けなくて恥ずかしくて仕方がなかった。
………
……
…
「あのさ。これからああいうこと、やめてくれる?」
後日。バスケ部が休みになったからと美術室を訪れた葵に、僕は詰まった声で苦言を呈する。
「ああいうことって?」
「学校内で話しかけること」
机に頭を乗せたまま、上目遣いで「なんで」と言いたげな葵の視線が刺さる。
「友達に声かけんのは普通だろ」
「僕にとっては普通じゃない」
小学生のときならば気にしなかったかもしれないが、この世の中にはヒエラルキーというものが存在する。法則に乗っ取って、ヒエラルキーの階層が違う者同士が交流を図るのは、傍から見れば異変そのものだ。
僕はその異質に踏み込んで、注目を浴びたいと思っていなかった。
「スポーツは苦手なんだ。できないことに対して、わざわざ注目を浴びたくない」
本音は、葵と接点があるということで注目を浴びたくない。けれど、それをストレートに伝えるほど、僕の人間性は崩壊していない。
「教えようか?バスケ」
「断る」
楽しいのに、と葵が残念そうな声を上げる。
葵の強引さに巻き込まれるような気配を察知したとき、都合よく美術室に顧問が戻ってきた。
「九条。コンテストに出てた作品が戻ってきたぞ」
「ありがとうございます」
筆を置いて、立ち上がる。すでに表彰や副賞の授与は済んでいたので、とくに大きな興奮などは訪れなかった。
額縁に入った一回り大きな絵を受け取り、顧問に礼を言う。
すると、真後ろから葵が大袈裟なリアクションをあげた。
「すっげぇ!優秀賞じゃん!」
額縁の上に貼られているリボンには、彼が言う通り「優秀賞」との記載がある。
「もっと喜べよ、九条!」
「ひょ、表彰式の時に充分喜んだよ……」
「俺、見てない!」
「君が転校してくる前の話だからね」
近くにあったキャンパススタンドに額縁を載せれば、葵はわざわざ椅子を持ってきてその絵の前に座り込んだ。
「まじで綺麗……」
夜の湖面に映る星を眺める、一人の旅人が描かれた絵だ。
葵があまりにもうっとりと絵を眺めるので、その様子を僕も思わず見つめてしまう。
「コイツ、何を見てんだ?」
葵はふと、首を傾げながら僕を見上げた。
ああ。やはり、美術的感性の高いやつだ、と感じる。普通であれば、見てのまま「男が湖面に映る星々を見ている」と口にするのが大半だ。
たが葵は、旅人がそのような俯瞰的な目線ではなく、何か一つに注目しているのに気づいてくれた。
「ポラリス」
「ポラリス?」
「北極星、って言った方が一般的かも。旅人を導く星って言われてるんだ」
へぇ、と葵は相槌を打って、再び視線を絵に戻す。
しばらくして、葵は少し声のトーンを落として言葉を紡ぐ。
「……俺、この旅人が下を向いてんのが好きだわ」
葵は額縁に入った絵に指をさし、そっと湖面を撫でる。
「旅人を導くってんなら、空の上に直接光るポラリスを見るのが普通だろ?」
「そうだね」
「どっちも動かないってにしろ、空と湖面じゃ意味が違う」
そうだね、と僕はまた頷く。
「コイツ、導かれたいのに導いてくれない方を見てんだぜ?……誰か待ってんのかなぁって。コイツ自身が導かれたいんじゃなくて、今から空見上げて歩いてくるやつを楽しみに待ってるみたいに見える」
「君のその感性、小説家とか向いてそうだね」
至って冷静に答えつつも、僕の口角は上がっていた。決してそのような意図でこの絵を描いたわけではないが、葵ならではの汲み取り方が嬉しかった。
ヒエラルキーが違うはずなのに。人間性も真逆であるはずなのに。何か一つに対して、対等に語り合えることが嬉しかった。
「優秀賞って、相当凄いんだろ?」
「二番ってことだよ」
「すげぇじゃん」
「……一番が欲しいよ」
流れるように零れた一言が、心に影を作り出す。
読書、勉強、絵。スポーツはできなくても、僕にも多少得意なことがいくつかある。
でも、何においても未だに一等賞をもらったことはなかった。
『裕樹。どうして一番を取れないの。お兄ちゃんは満点だったのに』
頭の中に流れたノイズは、目を閉じても離れてくれそうになかった。
(一番。一番じゃなきゃ、なんの意味も……)
「順位って、そんなに大事か?」
憂鬱になりかけた思考は、葵の声によって遮断された。
「お前のことを、誰かが評価してる。それだけで、凄くないか? 自信持てよ!」
「……うるさいなぁ」
熱くなりかけた頬を誤魔化すように、僕はその場を離れる。
「おい、俺なりにお前を褒めてて……」
「分かってるってば。僕は次のコンクールの絵を描くから、君はもう帰りなよ」
葵のしつこさを流そうとしたのに。
「なあ、九条。俺も美術部に入りたい。お前が描くところ、もっと見たい」
「え、バスケ辞めるの?」
「兼部しようかなって。だめ?」
「それは……個人の自由だけど……」
予測のつかない葵の言動に、僕はまた囚われてしまった。