フロント 2
警視庁外事三課の渡辺は、二時間後きっかりに、先ほどの店から二駅先の純喫茶のドアを開けた。
薄暗い店内の真ん中にあるカウンターの奥で、口髭を生やした白髪頭老マスターがHARIOのサイフォンでコーヒーを淹れているところだ。
かすかに漂うコーヒーの香りの中に感じる酸味、たぶんキリマンジャロだろう。
渡辺はマスターに会釈もせず、すたすたと奥まった席まで行くと、椅子を引きそのまま座った。
向かいの席にはフロントがすでに座っていた。
渡辺は、バックからノートと筆記用具を取り出しテーブルに並べた。
マスターが横から現れ、入れたてのコーヒーを差し出した。
「クリスタルマウンテンになります」
容姿に似合わぬ高いキーで喋るマスターが、静かにカップを置くと、そのままカウンターの方へ戻っていった。
(外れたか)
渡辺は心の中でつぶやいた。
香りだけでコーヒーの種類を当てるのが、今渡辺がはまっているささやかな楽しみだ。
「三つのことがわかりました」
フロントは、時間を惜しむように喋りだした。
相変わらずサングラスと手袋を外さない。
コーヒーすら飲ましてもらえないのか。
「一つは日本国内に侵入した構成員です。捕まった二人を含め、七人です」
「七人、意外と少ないですね」
「いや、これくらいでしょう。作戦チームとしては」
「そういうものですかね」
渡辺はノートに七と書きなぐる。
フロントは写真を六枚テーブルに並べた。
「『レディー』と『A』は先ほどご説明しましたね」
レディーとAの写真をススッと横へ外した。
「指揮官は通称『パパ』、ハリー・オブライエン。現アメリカ合衆国国家情報長官の現役時代の部下だった男。捕虜への拷問で除籍されている。ユダヤ系とアイルランド系のダブル。十代のほぼ全てを日本で過ごし、その時に複数の日本武道を習得し日本語が堪能。ゼン?禅をたしなむ」
ガタイの良い黒髪の精悍な目つきの男を指さした。
「サトウ・ブラザーズの弟『B』佐藤ビリーこちらも入国していましたね」
スクエアタイプの眼鏡をかけた色白で、兄の『A』と口元だけ似た男を指さした。
「変装をサポートする『ヒデ』牧内英海、元ハリウッド特殊メイク技師、パトロンを殺害して服役中のはずだが。……特徴は小柄な青髭と、女性的な口調」
短髪に白髪が混じった丸顔のおじさんを指さした。
「ドライバー担当『トラ』文太郎・トライデント、日系アメリカ人四世、主に運び屋としてボーダーに所属している」
細身の伊達男を指さしている。
派手な開襟シャツと素足にローファーの、すぐに女好だとわかる奴だ。
そう思ってから渡辺は、我ながら偏見が過ぎると反省した。
フロントは写真とは別に、四つ折りになったA四用紙を開いた。
「この男、『顔無し』と呼ばれています。写真に写るとどうしてもぼやけてしまう。ぶれてしまうのです。ですので、目撃者の似顔絵の方が分かるようなので、こちらをお持ちしました」
黒髪、細くもなく大きくもない目に黒い瞳、薄い唇、鼻は少し鉤鼻、耳は特徴的で、しわが少なく、顔側面に垂直についている様だ。そのため耳が大きく感じる。
東北地方の一部出身者に多く見られる耳だ。
「この男は、殺害現場でたびたび目撃されて、防犯カメラなどによく映っています。ただそのどれもが正確に男をとらえていないのです。男の姿はしっかりと映っているのに、肝心の顔がどうしてもぶれてしまっているのです」
フロントは、とても残念そうに話した。
そんな人間がいるのか。渡辺は単純に感心した。
「推測ですが、この男が狙撃手で、ボーダーが手配した暗殺者でしょう。彼の目撃情報のある地域では、狙撃による殺人が頻繁に起こっている。ボマーではなくシューターだ」
渡辺は、フロントの報告がひと段落着いたとみて、コーヒーカップに手を伸ばした。
「これらの写真は、成田、羽田、関西国際空港で撮られた最新の防犯カメラからの映像をデジタル処理したものです。つまり現在の彼らに一番近い写真です」
フロントの話は続いた。
「『顔無し』も羽田で確認できました。こちらです。見事にぶれているでしょう」
フロントは新たに数枚の写真をテーブルに出した。
確かに数人が写っている写真の中に、一人だけぼやけて線を引いた顔の男がいる。
アップの写真でもその線は消えない。つまり人相がはっきりしない。
「当初、この羽田の写真から我々は今回のテロの実行犯が『顔無し』と断定しました。ここを見てください、前を歩いているのがパパです」
確かによく見ると数人が写った写真の中に、大柄でしっかりとした体躯の精悍な男がいる。
先ほど確認したパパと指さされた写真と同じシャツの男だ。
しかし、この楽園クラブ、よそ様の国の防犯カメラをこうも堂々とハッキングしているとは、上の人間が知ったら、国際問題になるな。
頭ではそう思いながら、渡辺はやっとコーヒーを啜った。
「うまい」
思わず口に出てしまった。
「いや続けて」
渡辺はフロントに報告を続けさせた。
「第二は、標的が判明しました。日本国首相柿本彦麻呂です。各国の諜報機関のアメリカ支部と、横須賀及び福生米軍基地から得た情報です」
「あっち」
渡辺は口に運んだカップを危うく落としそうになった。
曲がりなりにも同盟国のアメリカが、首相個人を暗殺対象だと。その目的はなんだ。危機管理の引上げだけにしてはやり過ぎだろう。考えろ、渡辺。
「先ほど申し上げた通り、今回のチーム編成にボマー(爆弾魔)は居ません。直接戦闘員のレディーと、パパの他は非戦闘員です。シューター(狙撃手)である『顔無し』が狙うとすれば無差別殺人ではなく、長距離から、限られた個人の殺害でしょう。柿本総理は少し厄介な思想も持ち合わせていると聞きます。そのあたりが原因なのでは」
渡辺は、フロントの、いや、楽園クラブの懸念を察した。
柿本総理のバックボーンは、祖父、叔父が元幕僚長、長男や親類も武官を務めるごりごりのタカ派である。
父は旧華族に婿入りし姓を柿本に代え、政界入りした。
穏健派で鳴らした父の基盤を引き継いだのが、柿本総理である。
父のイメージでハト派の印象が強いが、その本質はタカである。
総理大臣二期目となってから、いよいよその本性が現れてきた様な言動が見受けられるようになった。なるほど、それなら多少考えられるか、いやそれでも同盟国の首相を殺すことはありえないだろう。しかし渡辺は黙ってフロントの話を聞き続けた。
「第三は、柿本総理の命は諦めてください」
フロントは、珍しく躊躇するかのように、一瞬言葉を切った。
「先ほど我々は“当初”と申しました。今までの我々との話はすべて忘れてください」
明らかにフロントの挙動がこれまでと違う。いつもどこか余裕がある佇まいが目に見えて消えてゆく。ここまでこの男が狼狽することとは、何か。
「これはサービスです。我々楽園クラブはしばらく地下に潜ります。なぜなら、『ボル』が目覚めたからです。ヒントは風船の数字でした」
明らかに青ざめたフロントは今口にしたことを後悔しているように、少し苛立ちも見せながら席を立った。
彼が渡辺の横を通り過ぎる時、肩に手を置きながら耳元で、『もしかしたら全く違う事が起きているのかもしれません』彼から聞く、初めての彼本人の言葉だろう。これまでの彼らしさの欠片も無く、自分の発した言葉から逃げるように足早に店を出て行った