さくらメディカルセンター 3
院長室に入ってきた男のシルエットは逆光のためだけではではなく黒い。
着ているものがすべて黒いのだ。
その黒衣の男が、シューズロングに薄い毛布を掛けられ横たわっている柿本の手前で足を止めた。
「真昼間からこんなに部屋を暗くして、看護師と二人、何をやってるんだ」
看護師は震えながら柿本総理の上半身を自らの背中で覆い隠した。
黒衣の男は構わず続けた。
「おい、柿本をどこに隠した」
さも当たり前のように聞いてきた。
「……入口の女性は殺してしまったのか?」
看護師を両手で脇へ押しやりながら、シューズロングからゆっくりと起き上がったのは、柿本の服を着た中山だった。
起き上がった中山は、若干視線を下げ、黒衣の男の鼻から下を注視した。
眼鏡をしているのか?
見覚えのある眼鏡のフレームが少し見えた。
「ほぅ。面白い奴だな。しっかり恐怖しているのに、魂の揺らぎがない」
「黄島防衛事務次官か」
体型と、見覚えのある口元の笑みと声。
「あぁそうだ。そういう名前だったな、この男」
「誰だ、お前は。黄島事務次官をどうした」
相手をにらみつけたい衝動をぐっと抑え込み、中山はその口元へ問いかけた。
「どうもこうも、私が黄島です」
黄島を名乗る黒衣の男は、中山の中途半端な姿勢の視線に気が付いた。
「あぁ、私の眼、見ても大丈夫ですよ。少しは私のことが分かっているようですね。この眼鏡なるもの、どうやら私の呪いを緩和するみたいです」
黒衣の男は両手の人差し指で眼鏡を指した。
「『ボル』様でいらっしゃいますか。私、アメリカでボーダーファミリーという組織に属しております。どうかお話だけでも聞いてもらえませんか」
看護師姿のレディーが、さっと片膝をつき頭を垂れた。
「いかにも、『ボル』でもある。お前たちのことは知っている。大方専属の殺し屋にでもなってくれというのであろうが、断る。私の力は誰のモノかはすでに決まっておる。それをたかだか人間風情が独占しようなど、片腹痛いわ」
黒衣の男がそう鼻で笑うと、その場の空気が一瞬にして冷気を帯びた様に重く感じた。
「はい、申し訳ありません。仰る通りです。では『ボル』様、我々のもう一つの願いを聞いてください。行方不明中の我らのボス『ジェイ』の行方を知りたいのです。千里眼を持つともいわれるあなた様のお力をお借りできないでしょうか」
さらにレディーは身を低くし畏まった。
数秒の沈黙が続いた。
黒衣の男は笑い顔のまま、レディーの頭に掌を乗せ、何かを思案しているようだった。
レディーは頭に氷を乗せられている感じがし、一瞬ビクリとなったがそれ以降身動ぎしなかった。
「いいだろう。お前たちのネットワーク網を対価に頂く。用はそれだけか、ならばお前は去れ」
そう黒衣の男が答えるや否や、レディーは一目散に扉に向かった。
「マスター逃げろ、本物だ。マスターでも敵いやしない」
直接接触したことで、何かを察したのだろう。清々しいほどの逃げっぷりだ。だが、中山が敵から逃げることはない。
「お前の目的は、やはり柿本総理なのか」
中山は両手を上げながら黒衣の男へ近づいた。
この数秒、この男を観察したが隙だらけだ。
多分今、手を伸ばせばこの男の右腕を絡め捕り、そのまま地面にひれ伏せるだろう。
頭ではそうはっきりとイメージができるのに、なぜか一歩が踏み出せないでいる。
それを知ってか知らずか分からないが、黒衣の男は、悠長に中山の問いに対し大げさな身振りを交えて答えた。
「そうだ。これは神の名のもとの契約である。あの者の命は諦めろ」
黒衣の男は、開いた両腕の手のひらをグッと握って見せた。
「黄島事務次官、聞こえるか。あなたはこのまま総理殺害犯として、汚名を着せられて良いのか?」
中山はまだ黒梟なる化け物を、信じ切れてはいない。
当たり前だ。今の世の中は、どこにいてもインターネットを駆使すれば、全く別の場所、時間、時代の情報を集めることができる。しかし、いくらでも書き換えることもできるのが、そこに溢れる情報だろう。どこの誰の情報かも判らないものを鵜吞みにできるほど、中山は若くはない。自分の目と耳と肌で感じたことでしか、本当の意味では信じない。梶野世代なら、その情報の海の中から正しいと思えるものを、自分の中で整理できるのだろう。だが中山は古い人間なのかもしれない。だから黒衣の男の中にまだ、中山の知っている黄島の人格が居ると思った。
黄島防衛事務次官の姿形をしていれば、黄島本人に間違いがない。変装ではという疑念が残ったが、中山自身の直感で、本人に間違いないと判断した。
ならば、黄島が多重人格者であった可能性が一番高い。
彼のような表向き従順な者ほどストレスは高いだろう。そのはけ口として、別人格を形成していてもおかしくはない。
黄島防衛事務次官が犯人だったとは、彼なら自衛隊を動かすことはできるだろう。
官邸周辺に配備されていたのが自衛隊員なら、あの一体感のある無の気配も納得である。
ならばテロというよりクーデターなのではないか。
中山は混乱した。
捜査や分析は専門外だ。目の前の事象に最善に対処することは得意だが。
ならば対処するしかない。
「黄島さん、負けてはだめだ。自分を取り戻してくれ」
中山は再度説得を試みた。
しかし、それは的外れな行動であった。
「勇ましい老人よ、しかし無駄だ。この体は黄島からすでに私が奪ったものだ。黄島なる者の意思はない」
暗がりでもわかる笑みを絶やさず、黒衣の男が静かに言い放った。
〈我は、人間どもが『ボル』と呼ぶものだ。お前たち日本人には黒梟のほうがなじみ深いか。又は被疑者九六―二九六〇号と呼んでいるのか〉
それが、黄島が発した“声”なのか、直接中山の脳内に響いた音なのか判断がつかなかった。
レディーは勢いよく扉を開け廊下に出た。
視界の端に佐倉女史が倒れているのを認めた。その傍らに三人の男が居る。
中山の仲間か。
「『ボル』だった。マスターを早く逃がせ、柿本はあきらめろ」
それだけを早口で告げると、すぐさま方向転換し、廊下の端にある非常階段の扉へ走り出した。
「班長追いますか」
「いやいい。それより今さんの援護が先だ。あの女、扉にバインダーを挟んで中の様子が分かるようにしてくれている」
確かに扉の取手にバインダーについた紐を引っ掛け、扉と戸当たりの間にバインダーが挟まり完全に閉まり切っていない。内部の様子が廊下からでも覗うことが出来る。
〈タイミングを見て突っ込むぞ〉
薮田は口の動きだけで野尻と新六に指示した。
素早く三人が扉に近づくと中の二人の会話が聞こえてきた。
部屋に遮光カーテンの隙間から入る光はあるようで闇のように暗い人影が手前伸びてきていた。
「ちょうど今さんが奴の気を引いている」
〈どうやって私が人の体を乗っ取るか想像できるか〉
黄島の姿の『ボル』と名乗る者はこれまでと違う自然な笑みを浮かべて聞いてきた。
〈人の魂と肉体はとても強く結ばれている。だから通常時は簡単に乗っ取れる代物ではない。良くて魂の混在が起こる程度で、時間がたてば異物ははじき出される。だが、ある感情に支配されると魂は肉体から少し離れてしまう。それが恐怖だ。一目散にその恐怖から逃れようとして魂は体を忘れその場から離れようとする。恐怖で足がすくむのはその為だ。魂が離れた体は動かないからな。緊張とは、恐怖で魂と肉体の結びつきが緩んでしまった現象のことだ。失敗してはだめだという恐怖、そこから逃げる魂、動かなくなる肉体。恐怖を目の前にすると魂は容易くその体を放棄する。だから私は魂と肉体が少しでも離れたら、その隙間に滑り込むのさ〉
カカカと笑う。
その笑い声は黄島のそれではない。きっとこのモノの地の笑い声なのだ。
中山はようやく目の前の男が黄島防衛事務次官ではなく、黒梟、または『ボル』と呼ばれる暗殺者であると認識した。




