渡辺
警視庁外事三課の渡辺は、上司である部長に、暗号が実は『ボル』のことであり、今回の一件は、アメリカが日本に総理の警護をさせるために打った芝居であると伝えたが、この数日間の動きから上層部はそれを誤報と判断したと認識していた。
渡辺がそう思うのも無理はない。警護課では何も動きがなかったからだ。
少し虚無感を渡辺は感じていた。
そんな渡辺が、初めて国家公安委員会委員長の石ノ森に呼ばれたのは国会開会日の前日であった。
「渡辺、良い情報源を掴んでいるな。そのまま精進しろ」
「はっ」
石ノ森は黒革のチェアに深く腰掛けたまま、両手を顎の前で組んで渡辺に語り掛けた。
この人の前では、緊張が勝ってしまい、「はっ」しか言えない。
渡辺にとって、石ノ森は雲の上の存在である。
目の前にいるのは、若くして公安のトップまで上り詰め、さらにその上の内閣府に引き抜かれた男だ。得体のしれない溢れ出る自然圧で、自分みたいな小物をナチュラルに威嚇しているに違いない。
「しかし、随分と古い亡霊を出してきたな。被疑者九六―二九六〇号、通称『黒梟』 大戦前の作り話を」
「はっ、申し訳ございません」
やはり、信じてもらえてなかったのか。当たり前といえば、当たり前か。
「いや、責めているのではない。別ルートからも同じような報告が上がっている。驚きはあったが、我々は今、古い概念を改める必要があるのかもしれない。奴は国際的に『ボル』と呼ばれて、各国で警戒しているようだな。この日本が遅れているのだ。それに今気づけて良かった」
石ノ森の表情はどこか柔和を帯び、諦観しているようだった。
しかし、石ノ森国家公安委員会委員長はどこまでも石ノ森国家公安委員会委員長であった。
「『ボル』に柿本を任せることにした」
その言葉は一切の感情がない。
渡辺は一瞬返事が遅れた。
「——はっ」
つまり、総理を見殺しにすると今この人は言ったのか。
「彼は、そう、柿本彦麻呂は、元々彼の父の代からクーデターを企んでいた疑いが持たれていた。長い年月をかけ下準備を進めてきたのだろう。私が潜入捜査を始めた時には、ほぼ彼等の計画は出来上がっていた。より良いタイミングを見計らっていたようだ。そこへ柿本自身を対象としたテロの噂だ。彼はここだと思ったのだろうな。だがそのタイミングは誤りであった」
「はっ」
変わらぬ返事の裏で、渡辺の素人格は突っ込みまくった。
クーデター! この日本で。
待てよ、石ノ森さん。
あんた、その役職なのに潜入捜査官って嘘だろ。
俺たち公安は、どんなに偉くなっても、いつまでも公僕なのか。
「明日、柿本が事を起こすために、都内に配備される予定だった第一師団は、厚木駐屯所に待機させる。代わりに第四機動隊を都内に展開させる。官邸周辺の警護及び各メディア掌握は“我々”の公機捜が受け持つ。柿本が小細工した病院へはSATをギリギリまで遅らせて到着させる」
「はっ」
「柿本は明日、自らが用意した狙撃者によって撃たれ、混乱を生じさせるつもりだ。つまり、自作自演だ」
「はっ」
「だがその隙に、『ボル』は絶対に柿本を殺す。それをサポートし、かつ自衛隊の名に傷はつけさせないのが今回の我々の任務だ」
「はっ」
「国内の情報戦において一枚岩の公安と、ころころ変わる素人大臣という頭を持つ自衛隊とでは、すでに勝負はついている。どんなに優秀な組織でも舵取が素人では我々の敵ではない」
「はっ」
「防衛事務次官の黄島さんには悪いが、彼のスマートフォンを細工させてもらった。彼への連絡は、全て公安が押さえている」
「はっ」
えげつない。
本当なら、さぞかし黄島さんはイイとばっちりであろう。
つまりこうだ。
黄島にかかってくる特定の相手、つまり親族等親しい相手以外からの電話やメールなどは、一度公安の黄島(偽)が受ける。
それを、今度はその内容のまま、又は情報操作して、黄島本人に連絡者(偽)として公安から連絡を入れる。
黄島からの連絡もしかり。
黄島がどこに連絡をしても、監視され、疑いのある対象者の場合は受けるのは公安だ。
それを本当の連絡先に、公安が黄島を装って連絡。
我々のいつものやり口だ。それを防衛事務次官にまで。
この人はやっぱり恐ろしい。
「渡辺、お前に何でここまで話したと思う」
先程柿本へ死刑宣告した時と同じ、感情のない声色だ。
「はっ。私が余計な詮索をしないためであります」
渡辺は、脊椎を伝う冷汗が仙骨部の辺りで決壊したように下着に染みが出てきたのを感じた。返答次第では俺も消される。そんな凄みが石ノ森の言にはあった。
「よし。ではこのまま『ボル』の情報収集に当たれ」
「はっ」
「多少、騒がしくなる。しかしまた平穏な日々を我々公安が取り戻す」
「はっ」
どうやら答えは合っていたようだ。




