薮田班 3
無人のはずの旧損害保険ビル内は電気が通っていた。
奥から二基目だけ最上階で停止していてあとは一階に停止している。
首相官邸と、このビルの間を通る首都高速都心環状線C1の喧騒がうっすらと聞こえる空間は、外壁は工事用パネルに囲まれ直射日光は遮られているが、エントランスはガラス面が大きく、パネルに反射する光や隙間明りで十分室内を見わたせる。
照明は消えていたが、少し奥にあるエレベーターの表示灯と、暗がりの非常口の案内灯だけが人工の光を放っていた。
五基あるエレベーターの表示灯は全て点いていた。
薮田、野尻、新六、中山の四人は周囲を窺いながらエレベーター前まで進んだ。
がさっ。
背後で物音がし、振り返ると渋谷と新六くらいの若い警官が立っていた。
『今さんすいません。遅くなりました』
渋谷は声をひそめながら、片手で空を軽く二回切った。
「渋谷さん、我々も今到着しました。でも渋谷さん、あなた越境捜査になりますが大丈夫ですか」
中山は、品川署の渋谷が千代田区で黙って捜査をすると後々面倒なことになることを心配した。
「大丈夫です。こいつは麹町に勤務する俺の甥です。合同捜査です」
「渋谷隼人警部補です」
隼人警部補は、略式敬礼をし、すぐに周囲を見わたした。
この若さで麹町警察署勤務、警部補ということは、キャリア組でかつその中でもエリートか。
それでも叔父の渋谷巡査部長には頭が上がらないらしいな。
薮田班はそう推測した。
「エレベーターが一基最上階まで登っている。この建物の屋上から首相官邸ホワイエに向かっては最短の射線が引ける。多分そこにテロリストが居ると思われる」
「階段ですか」
野尻がエレベーター脇の非常階段の扉に顔を向けた。
「階段ですね」
薮田が頷いて中山に目配せし、渋谷巡査部長へ命じた。
「渋谷警部補、渋谷巡査部長両名は、ここで待機してください。異変があったらすぐに知らせてください。ただし無理せず簡潔に」
キャリア組で研修中の若者に違法捜査の片棒を担がせている訳にはいかない。また十階以上を高齢の渋谷巡査部長に階段で登れと、薮田は言えなかった。
もちろん自分たちの後方安全確保が主な目的だ。
「今さんも階段で登られるのですか。代わりに隼人が行きますよ」
渋谷は慌てて甥を差し出そうとした。
「渋谷さん、今さんはあの大江戸線六本木駅も階段で登る人ですよ。しかも休みの日は、好き好んで東京タワーへ重り入りリュックを背負って階段を登りに行くんですよ。だから気にしない気にしない」
新六は中山の超人ぶりを自分のことのように自慢した。
「はー左様ですか」
渋谷巡査部長は、隼人警部補の腰を掴んだ左手と、肩に置いた右手を離した。
「では」
そんなやり取りの間に、野尻が素早く非常階段の鉄の扉を丁寧に開けていた。
開いた扉を三人が素早く通り抜け、野尻も中に入り静かにまた扉を閉めた。
残された渋谷達は、薮田班の足音を聞こうと耳をそばだてたが、聞こえるのは外の車の走行音だけだった。
「今さん凄いっすね。あの歳なのにしゅって扉の向こうへ消えたよ」
隼人警部補は、子供が憧れのヒーローを商業施設内で見つけた時のように目を輝かせていた。
「だろ。あの人は凄いんだ」
渋谷巡査部長は、自分が褒められたように嬉しかった。
自分の子供たちは、警官にならなかった。
甥の隼人だけは、小さい時からいつも『今さん』の話を聞かせろとせがんできたので、特別に可愛がっていた。
その隼人が国家試験を受け、警察庁に採用されたと聞いたときは度肝を抜かれた。
その隼人に今さんの現場を見せたかった。
隼人もきっと最後まで同行したかったろう。
薮田が隼人もここに残したのは、隼人のキャリアを傷つけない為であるのは理解している。
でも残念だ。
きっと今さんの最後の大きなヤマになる。
「二階から反対側に通常階段あります」
梶野から建物のナビゲーションが入る。
「野尻と新六は通常階段へ」
薮田が駆け上がりながら指示を出す。
「了解」
野尻と新六はそう答えると、新六は薮田と中山を先に行かせ、野尻は次の扉の前で止まり、内部を確認し素早くフロアに飛び出し、物陰から物陰へ移動しつつ反対側の通常階段まで駆け抜けた。新六はその後をまるで野尻の影のように付いていった。
「渋谷さん、あんな優秀な甥っ子がいたんですね」
「あぁ、あと数年したら、口もきけなくなるかもな」
「うへっ、しっかり挨拶しとけばよかった」
新六と野尻は薄暗い階段を駆け上がりながら軽口を叩いた。
二人の階段を駆け上がる足音はしない。
多少の衣擦れはするが、気になるものではない。
一方、非常階段の薮田と中山は音を気にせず駆け上がった。
狭い非常階段では音が反響し、どんなに抑えても階段を駆け上がる音を消すことは出来ない。
そこで自分たちに注意が引くようにわざと消音はせず駆け上っているのだ。
「今さん、あと三階で屋上です。どうですか」
「二人、さっきから影がちらつく。見張りだろう。だいぶ緊張してるようですね。」
二人は出来るだけ壁沿いに駆け上がった。
案の定、あと一階で屋上というところで声がかかった。
「止まれ、ここは立ち入り禁止だ。何者か知らんが引き返せ」
それでも数段登った中山と薮田は驚いた。
敵との遭遇を警戒していたが、半階上の踊り場には制服警官が二名立っていたからだ。
「このエリアは規制区域になっていただろう」
威圧的な面構えをし、一人は警棒を出し、一人が拳銃に手をかけている。
「待て、我々は警備部警護課薮田班だ。同じ警察だ」
薮田が警察手帳を階下から呈示した。
制服警官の二人に動揺が走るのが感じる。
その隙を中山は見逃さなかった。
素早く床を蹴ると、十四段の階段を三歩で駆け上り、二人の真横に移動した。
非常階段を十階駆け上った五十九歳の動きではない。
彼らが警察官なら、薮田班と聞いて、現れた年寄りは『今さん』であろうとは推察しただろう。
そしてもうすぐ引退するロートルだと。
噂程度の武勇伝も、尾ひれの付いた風評だと高をくくっていた。
警官でなければ、オジサンが十階をわざわざ階段で登ってきたとして、息も絶え絶えで、すぐには動けるはずがないと思ったであろう。
しかしどうだ。今そのロートルは、自分たちの真横に瞬間移動して来た。
慌てた一人はたまらず、手をかけていた拳銃を引き抜こうとした。
中山はその警官に、左肩から軽く当身をすると、反転し、右手で背中をトンと押した。
階段に放り出された警官を、薮田は数段下で捕まえると、まだホルスターから抜き出せない拳銃にかかった手を押さえ、優しく威嚇した。
「薮田班だ。索敵中故、邪魔は無用」
屋上へ続く扉の前に残った警官は目が泳いでいる。
「わっ我々もここへは誰も入れるなと、指示を受けましたので」
先ほどとは打って変わって、最敬礼の姿勢で答えた。
「なら許せ」
中山は、手刀で敬礼する警察官の顎を薙ぎ払った。
崩れ落ちる警官を、中山は丁寧に抱え、壁際に横たえた。
「君たちは後で薮田班に急襲されたと報告すればよい。その代わり邪魔はするな」
薮田に押さえられた警官は、コクコクと頷き、両手を上げた。
中山は梶野に連絡を入れた。
「梶野、中山だ。野尻たちはどうだ」
「野尻さんたちは屋上手前で待機中です。あちらの扉にも二人見張りが居て、タイミングを計っています」
「よし、これから班長と扉を開け屋上に出る。二人にはそれに合わせてその二人を制圧するように」
野尻と新六は、屋上に出る扉の外の人影が警察官だと分かったとき驚きはしたが、上層部が何かしている疑いがあるなら、彼等はそれに巻き込まれているかもしれない。
しかし、今は一刻を争う。関係各所へ連絡確認している暇はない。
彼らが後ろを、反対側の非常階段を気にしている。きっと班長たちが動き出したようだ。
そこへ梶野から連絡が入った。
「非常階段側制圧完了。今、班長たち屋上に出ます」
それと同時に野尻は飛び出して、外にいた二人の警察官の背後から二人の襟をつかんだ。
今まさに、非常階段側に駆け寄ろうとしていた二人は、不意に首根っこを掴まれ、中吊りになり尻からしこたま叩き落された。
目から星が出るとは、多分こんな感じだと二人は思ったに違いない。
新六が二人の前に来てしゃがみこんだ。
「薮田班です。任務中故、ご容赦」
中山は屋上に出ると野尻を目の端に留め、構わず梶野から聞いた北面の射撃ポイントを探した。
見わたすと首相官邸側の手摺に黒いリボンが結んであった。
梶野の指摘したポイントと符合する。
奴らは本物の警察官だったのか。そう疑問符が脳裏をかすめたが、中山は逡巡することはなく、音を立てずリボンの結んである手摺に近づいた。
手摺の下は空調機器の室外機などが置けるスペースがあり、そこに一人の男が身動ぎせず周囲と同化してライフルを構え、タイミングを計っているようであった。
相当集中をしているため、先ほどのこちらの騒動には気が付いていない。
遥か下方には、車がゆっくりと連なり流れているのが見え、高所恐怖症の者なら身が竦む景色だろう。
その向こう、ガラス張りの四角い首相官邸が見える。
周囲に植えられた樹木によって、うまく射線が遮られているように感じるが、実際にはビルの屋上に登れば丸見えだ。
腕のいい射撃手なら、スコープで覗けば建屋の中でも窓際に立つ者のスマートフォンの機種名まで分かるだろう。
野外の庭など撃ってくださいと言っているもんだ。
その野外の池の向こうに人だかりが見える。
射撃手の体にぐっと力が入った。
中山は、ふわりと手摺を飛び越えて、狙撃手の背後に急降下した。
「タンッ」
着地と同時に乾いた射撃音が響いた。
しかし銃口は北東側を向いていた。
首相官邸方向から悲鳴らしきものは上がらなかった。
中山は着地の瞬間に射撃手の背中に覆いかぶさっていた。
右腕と左肩をねじるように銃口を右に、北東へずらしたのだ。
続いて野尻も飛び降りてくる。
池の前の人だかりは何事もないように人だかりのままだ。
「確保」
野尻は射撃手の腕に手錠をはめた。
「お前、楢崎じゃないか」
屋上の薮田が手摺から身を乗り出して叫んだ。
中山と野尻が狙撃手の顔を覗き込むと、見知った顔であった。
射撃で五輪代表の楢崎のことは、同じ警察官として誇りに思っていた。
薮田の同期というのもあり、班でもその時期になれば話題に上がる。
「楢崎、この状況を説明しろ」
背中に張り付いた中山が聞いた。
「上からの命令です。クッション弾で、殺傷力はほぼありません」
観念したのか、元々乗り気ではなかっただろう楢崎は、素直に答えた。
上層部が首相を狙撃、——クーデター。その五文字が薮田班の脳裏に浮かんだ。




