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清水美紀 1

 清水美紀の父は、美紀が中学三年の時に亡くなっている。

 交通事故で病院に運ばれた後、容態が急変し亡くなった。

 ただ、父は母に内緒で結構な保険をかけていたため、その後の生活には困らなかった。

 むしろ、父の死後のほうが、豊かな暮らしになった。

 おかげで、有名私立の付属女子学校を進級でき、今はその大学に通えている。

 高校時代はダンス部に所属し、副キャプテンを務めた。

 アイルとはその時出会った。

 新入生の中で、美紀の眼には特に印象的に映ったオリエンタルな容姿にしなやかな動作、アイルのことは、特別目をかけた。

 最初、新しいクラスに馴染めないアイルを心配し、昼休みは昼練と称し、ダンス部で昼食をとるようにさせ、同学年、同クラスの他の部員との距離を詰めさせた。

 すると、クラスにも自然と馴染んでいった。

 ストレッチのパートナーもアイルを指名した。

 またアイルも、そんな美紀のことを学校に出来た頼りになる姉のように感じてくれたようだ。

 美紀が夕飯をだいたいいつも一人で食べていると聞くと、アイルは自宅の夕食に美紀を招いた。

 美紀も母も、自宅で夕食を食べていると、どうしても父を思い出してしまうらしく、父の死後、母は昔の職場に復帰して、帰宅は午後九時をまわることが殆どになっていた。

 美紀も、そんな母の気持ちを理解し、その状況を受け入れていた。

 だから、アイルの申し出には、素直に喜んだ。

 アイルの父が大使館の料理人と聞いて美紀はびっくりしていたが、その異国の料理をおいしそうに食べた。

 久しぶりに味わう、家族団欒の雰囲気に、気持ちがいっぱいになった。

 キータサンカ家全員も美紀を気に入り、その後も良く夕食に招待してくれた。

 ルワンとはそこで出会ったのだ。

 美紀が食事に招かれるのは、大使達はご家族で私的に外食されるときで、キータサンカ家の仕事が無いときであった。

 通訳はルワンではなく、現政権から派遣された者が大使に同行するので、ルワンとそのパートナーの初美も、キータサンカ家の夕食に同席することが多かった。

 どうやらルワンは前政権からの通訳なので、大使の私的な場にはあまり呼ばれないらしい。

 それでも大使館に残っているのは、きっとルワンの腕が良いからなのだろうと、美紀は思った。

 ルワンは博識で、話が面白く、食後に異国の寓話などを話してくれるのが定番になっていた。

 夏には異国の古い怪談話を聞け、冬には王家のラブロマンスなど、海外ドラマのようで続きが気になり、大使館が長期休暇の際には、連日お邪魔したこともあった。

 美紀が特に心に残った二つの話がある。

 一つは、キータサンカ家の夕食後、初めてルワンがしてくれた『王者と王様』という寓話である。


『王者と王様』

 密林に君臨する、二匹の虎兄弟がいました。

 ある夜、弟は兄に聞きました。

「兄者、俺達はこの密林の王者よな。違うか?」

 そう切り出すと、とつとつと語り始めた。

「昨日喰らった者が、可笑しなことを申しておった。角が二本生えている見たことも無い獣がおってな、捕らえて其の喉笛を切り裂こうとしたとき、『私は百獣の王ライオンの家来である、見逃してくれれば、王に家臣の列に加えて貰える様、取計らってやろう』と言うのさ。偉そうに。もちろん、そのまま喰らったさ。だけど、百獣の王とは、俺達より強いのか?」

 前足をぺろぺろ舐めながら、聞きました。

「ライオンか、聞いたことはある。だが、安全な平地の王など、この危険な密林の王者である我等の敵ではないわ」

 興味なさげにそう言うと、兄者はひょいと太い木枝の上に寝そべってしまった。

 弟は、自分達が一番の王者であることが確認でき、安心してその場に眠り込んだ。

 しかし、暫くすると目が覚めて、どうにも自分自身で確かめたくなった。

 百獣の王と呼ばれている獣を。

 そして、其の名は自分達にこそ、相応しいのではないかと、考えるようになった。

「あぁ、我慢できない。この密林の王者こそが、百獣を従える長ではないか」

 弟は、するりと、闇夜に躍り出た。林を抜け、サバンナに到着する頃には、日が高く昇っていた。夜通し駆け抜けたせいで、お腹が空いた弟は、近くに見える、耳の大きく鼻の長い獣の子供に目を付けた。身体を低く、全身をバネの様に撓らせ、今まさに襲い掛かろうとした時であった。

「ウォッホン、其処の酔狂な若者よ。しばし待たれよ」

 葦の陰から不意に、黄金色した、猛々しい獣が現れた。

「象に襲い掛かろうとは、天晴れな武人よ」

 獣は、弟の前まで来ると、腰を下ろした。

 弟は飛び退いて、距離を置いた。

「そう身構えるな、平地は初めてか?」

 後足で耳の裏を掻きながら、獣が聞いてきた。

 大きな顔、その周りには立派な黄金の鬣、……弟はピンと来た。

「お前が、百獣の王ライオンか?」

「この辺の者達は、皆そう呼ぶなぁ」

「俺は、密林の王者と呼ばれている。どちらが本物の王と呼ばれるに相応しいか、知るためにやって来た。さぁ、俺と勝負しろ」

 弟は、そう言うと、一段と低く身構えた。

「確かに、お前さんの方が強そうだの。わしは狩などせぬ。いつも、この辺をぷらぷらしておるぞ」

 ライオンは、うつ伏して片目だけを弟に向けている。

「馬鹿を申せ。狩をせねば、生きてゆけぬでは無いか」

 弟の両目は、ライオンの鬣に覆われた喉仏を凝視している。しかしあまりの毛の多さに的確な場所が把握できない。

「王様とは、狩などしなくとも、食べてゆけるものなのさ」

 まったく戦う気配の見えぬライオンに、調子を狂わされ、弟は動くことが出来ない。

 突然、ライオンがすくり、と立ち上がった。

「お前は、ワニを知っておるか?」

 もう既に、象の群れは移動していて、辺りには他の獣の姿が見えない。

 日はさらに昇り、照りつける日差しは、飲まず食わず駆けてきた弟を、歓迎はしてはいなかった。

「水辺にいる大きな口の奴だろ」

 水。そうだ、水が飲みたい。喉がカラカラだ。急に喉の渇きを覚え、いても立っても居られなくなりました。

「わしが、水中では一目置くワニに、お前さんが勝てば、『百獣の王』の名を譲っても良いぞ」

 不意の申し出に、弟はびっくりした。では、水辺に行けば、『名』も『水』も手に入れることが出来るというのか?いやいや、今は何よりも水が飲みたい。しかし、それを悟られるのは、なにやら癪に障る。

「水辺は何処だ。今すぐ俺がこの爪と牙で、ワニをズタズタに引き裂いてこよう」

 弟は、平静を装いながら言った。

「此方を真っ直ぐ行くと、彼等の憩いの場所がある、わしに附いて参れ。案内いたそう」

 ライオンが、頭を向け歩き出すと、其の横を一目散に駆け出した。


 ライオンが、後からゆっくりと水辺に着いたとき、弟はまだワニを仕留めるどころか、水すら飲めていなかった。

 数十匹のワニが、水辺で休んでいる。六メーターを越す大きなものも居る。

 弟は、水辺に近付くことが出来ず、ただ、ごくり、ごくりと喉を鳴らすだけである。

「なかなか強そうであろう。どうした、行かぬのか?喉も渇いたであろう」

 ワニは丸太のような尻尾を、ビターン、ビターンと地面に打ち付けている。

「ワニはあの大きな口で喰いついて、尻尾の反動で回転をし、食い千切ると言うぞ」

 ライオンは、弟を尻目に一番大きなワニの元に歩み出た。

「久しいの、ワニ殿。今日は珍しい者が、こちらに来てると、聞きつけて参った」

 一番大きなワニがそれに答えた。

「あの者は何がしたいのだ。さっきから怖い顔で此方を見ては、ため息ばかりついて。失礼な奴だ」

「彼こそが、若き密林の王者、虎君である。水中では、わしよりも強いワニ殿を、ズタズタに引き裂くというのでな、考え直すよう言うために、走って追ってきたのだ」

 ライオンが、胸をそらし、ぜーぜーと息を切らしながら語りかける様は、後ろから見ている弟には、威嚇している様に見える。

「すまぬが、水を少し分けてくれぬか、この暑さの中、少し走ったら喉がからからよ」

「おお、それはわざわざ御苦労でしたな。さぁさぁ、どうぞ、此処の水が一番冷たい。たんとお飲みなさい」

「かたじけない。」

 そう言うと、ワニが退いた場所の水をごくごくと飲みました。

 弟には、ライオンがワニの親分をどかして水場を奪ったように見えた。

 暫くすると、ライオンが戻ってきた。弟の肩に手を置きながら言った。

「お先に失礼。さっ、密林の王者はどうするかな」

 肩の手を振り払うと、意を決し、ライオンと話していたワニに向かって歩き出した。

 その途端、ワニ達が一斉に尻尾を打ち鳴らし、牙を向けた。

 弟は、全身の毛を逆立てながら、後退りし、ほうほうの態で密林に逃げ帰って行きました。

 ライオンは、今も百獣の王の座に君臨し、平地を気ままにぷらぷらしているようです。


 ——語り終えるルワンの優しくおどけた声色が、なんとも言えず、かわいらしいお話だなと美紀は思った。

 異国の物語は新鮮でわくわくする。

 と同時に、男性の読み聞かせなんて、幼稚園の時、寝る前にお父さんがしてくれた以来だ。

 いつの間にかに美紀のほほを涙が濡らしていた。

 ルワンはびっくりして美紀に駆け寄ってきた。

「ごめんなさい、何か気に障ること言っちゃたかな?ごめんなさい」

 と平謝りしているので、美紀は可笑しくなり、くすりと笑ってしまった。

「違うの、楽しくて、懐かしくて、本当にありがとう」

 そう言うと、お父さんが亡くなったことや、ルワンの語りがそのお父さんを思い出して、少しおセンチになったこと。

 でも本当に楽しくて、図々しいかもしれないけど、新しい家族が出来たみたいだと打ち明けた。

 キータサンカ一家とルワン夫妻は、諸手を挙げて喜んでくれた。

 そんな関係は、美紀が大学に進学しても続いた。


 美紀が大学二年の初め頃、しばらくキータサンカ家に来なかった。

 六月になってやっと顔を出した。

「どうしたの美紀さん、元気ないね。忙しかったみたいだけど大丈夫?」

 他のみんなには上手く誤魔化せていたけど、ルワンには見破られていた。

 いつもより元気にしゃべり、新入生の話や、来年アイルを待ってるよ。なんて言ってたけど、どこか無理していたのをこの人には気づかれていたのか。

「もし、誰にも知られたくないことや、悩みがあったら、ルワンのスマホに、連絡してね。時間を作って、話を聞くよ。番号わかる?」

 美紀は、こくんと頷いた。


 美紀がその番号に電話をかけたのは、お盆休みにキータサンカ家で夕食を頂いた後、自宅に戻る駅のホームからだった。

 十分後、ルワンが駅の改札まで来てくれた。

 スマートフォンを改札にタッチして美紀が出てきた。

「初美さんが車で待ってる。もしいやだったら初美は帰すけど、居たほうがいいと思って」

 ルワンは、真剣な顔つきで美紀を正面から見据えた。

 その瞳は少し充血していて、鼻先は赤くなぜかルワンの顔も悲しげであった。

 美紀は静かにうなずいた。ありがとう。そう小さくつぶやいた。


 二人は駅の近くに停まっている、ベージュ色の軽自動車に乗り込んだ。

 運転席には、二月にルワンと結婚した初美がハンドルを握っていた。

「品川EX取れたから、そこでいいよね」

「ありがとう」

 ルワンは助手席に座りながらシートベルトを掛け、初美に礼を言った。

 美紀の乗り込んだ後部座席のスライドドアが閉まると、静かに車が動き出した。

 山手線沿いの細い道路を桜通りに突き当たるまで進み、左折、高輪台交差点を右折。

 美紀は車に乗るたびに、運転する人を尊敬する。私ならこんなに沢山選択肢のある交差点で、正しい道に周りの車のタイミングに合わせて、自分の車を進めることが出来そうもない。

 そんなことをぼんやりと考えていると、品川駅近くのホテルの車止めに着いた。

 初美は車のキーをボーイに渡すと、二人を連れてホテルのフロントへ向かった。

 美紀は初めて来るちゃんとしたホテルに戸惑いながら、二人の後をはぐれないように付いていった。

 初美がチェックインを済ませ、三人はエレベーターで三十二階まで上がると、一室のドアにフロントでもらったキーをかざした。

 緑色の小さな光が灯り、カチリと音がしてドアが開いた。

 カードキースイッチにキーを差し込むと部屋に灯りが点いた。

 大きめのベッドの前に、三人がくつろげる空間がある。

 丸い小さなテーブルと、一人掛け用と、二人掛けのソファーが一脚ずつ。

 初美は、冷蔵庫から出した冷たい飲み物を、ルワンがテーブルに用意した三人分のグラスに注いだ。

 三人がソファーに座ると、美紀が語り始めた。


 私のお父さんが、事故で亡くなったのは、前に話したよね。


 あの日は、次の日が大きなダンス大会で、遅くまで練習してたので、お父さんに車で迎えに来てもらったの。

 その一週間ほぼ毎日だった。


「美紀」

 校門前に父の車が停まった。

「チョー助かる。もうへとへと」

 いつものように助手席に乗り込むと、大会でかける音楽を車内でも流してもらった。

「お父さん、美紀のダンス見たらしばらく出張だからね」

「知ってるよ。お土産よろしくお願いします」

「ハハハ、分かった。明日は頑張ってね」

 同じ曲が三周するころ、いつも捉まる信号が青に変わった。

 車が走り出すと、右の視界が急に暗くなった。

 その瞬間、進行方向とは逆に、ものすごい力で空間ごと押し戻されるのを感じた。


 お父さんは、事故の瞬間、助手席に座っていた私を左手で守るように押さえてくれた。

 気が付いた時は、救急車に運ばれる時だった。

 幸い私はムチ打ちとかすり傷程度だったが、お父さんはまだ車の中で、車の前がひしゃげて、ドアが開かず体が挟まっている様だ。

 しかし意識はあり、私に声をかけてきた。

「美紀、美紀、大丈夫か。お父さんは足が挟まって出れないから、もうちょっとかかるかりそうだから、病院で待ってなさい」

 それが、お父さんが私に掛けてくれた、最後の言葉だった。

 病院でお父さんを待っていても、一向に連絡がない。

 心配で、何度も何度も、看護師さんにお父さんの確認をしたが、分からない、連絡はありません。そんなやり取りしている内に、お母さんが姿を現した。

 事故から丸二日はたっていた。

「お母さん、お父さんは」

 お母さんの顔は見たこともないほど、憔悴しきっていた。

 嫌な予感はしていた。

 お母さんが病院に駆けつけてこない理由を、無意識に考えないようにしていた。

 だからこれまでお母さんが居ないことを、気に留めなかった。

 考えれば、すぐに最悪のことを思ってしまうからだ。

「美紀、お父さん、死んじゃった」

 そう言うと、お母さんはその場にへたり込んでしまった。


 翌日、私は退院すると、そのまま別の病院へと向かった。

 お父さんが安置されている病院だ。

 お母さんはあれから一言もしゃべらなかった。

 病院へ着くと、そこの医院長という男が迎えてくれた。

 その男の話では、お父さんは事故の衝撃で、車の運転席側のフロント部分が潰れ、ハンドルと、座席で挟み込まれてしまい、腎臓破裂でほぼ即死だったと言う。

 私が、そんなはずは無い、待ってろと会話したといっても、事故の衝撃で、脳を打って、記憶が書き換えられたのでしょう、よくあることです。そう言うだけだった。

 さらに衝撃を受けたのは、父がドナーカードを携帯していて、父の眼球と膵臓が、誰かに移植されたという。

 ——お父さん。

 怒りと、悲しみと、虚しさと、大きな不安で、自分の感情がぐちゃぐちゃになっていた。

「ご主人は、こちらです」

 通された霊安室には、お父さんが一人、横たわっていた。

「あなた」

 お母さんはそう一言だけ言うのがやっとで、その遺体にしがみつく様にしゃがみ込んだ。

 そのまま、わーと泣き出してしまった。

 私は泣けない。

 いや、すでに先程の感情の嵐で、涙は流れていたが、お父さんの死を悲しんでは泣けない。

 部屋に焚かれた香の薫りが、お父さんの死を誤魔化している気がした。

 全部嘘だ、この医院長も、お父さんの死も、ドナーカードだって? そんなの持っていたなんて聞いたことがない。

 誰も本当のことを教えてくれない。

 嘘つきばかりだ。

 子供だった私には、自分の無力感に押しつぶされないために、蓋をして、記憶の底に埋めた。


 そう思っていたの、今までは。

 美紀はそう語ると、窓の外に視線を逸らした。

 泣くのを我慢しているのだろう。




 五月、新入生も落ち着きを取り戻したころ、私の所属するダンスサークルは、渋谷の道玄坂にある貸しスペース、ハウスMARUYAMAで恒例のダンスバトルを開催していた。

 私は三チームからエントリーしていた。

 交流のある他大学のダンスサークルからも参加者がいて、半地下の会場には百人以上が詰め掛けていた。

 ほとんどは、どこかの会場で見かけたことのあるダンサーか、DJ達だった。

 ただ、サークルの幹部たちの周りに、普段は見かけない男達がいた。

 同じチームの子が、怪訝そうにしているので、誰か知っているの?と聞いてみた。

「あれ、別の大学のイベサーの人達。あんま良い噂聞かないよね」

 女の子達を無理やり飲ませて、酔わせて、ヤッてしまう。

 しかもそれをスマホに撮って、脅したりしてるって。

 これは、あいつらに近づかないように気を付けなくては。

 狭い箱は、爆音とダンサー達の熱気で盛り上がっていた。

 四月に誕生日を迎え二十歳になった私は、みんなからお酒を勧められた。

 チームの出番が終わるまではと、うまく逃げていたが、急にハッピーバースデーソングが流れ、私を含め五人の名前が呼ばれた。

 四月以降二十歳になった者たちを紹介し、それぞれに即興でソロのダンスバトルをするよう促された。

 一番目に私の名前が呼ばれ、鳴り響く重低音のリズムに合わせて前に出ると、DJが音楽を掛ける。

 聞き覚えのあるその曲に合わせ、動きを体の自由に任せる。

 大きな歓声がもらえた。

 自分の出番が終わり、仲間のもとに戻ろうとすると、周りで見ていたダンサー達が寄ってきた。

「カッコ良かったよ」

「ちょーCooL」

「はいカンパーイ」

「ウェーイ、ハッピーバースデー・MIKIちゃん」

「おめでとー」

 肩に腕を回され、私はグラスを持たされ、グラスを煽るよう促された。

 次のバースデーダンサーもこれを見届けてから出ていくようだ。

 一杯くらいなら、このノリを止めるよりマシ。大丈夫。

 そう判断し、グラスを煽った。

「イイェーイ・MIKIちゃん、サンキュー」

 そういわれて肩に回った腕がはがれ、やっと解放された。

「良かったよ。美紀」

「お疲れー」

 仲間の元に戻ると、労いの言葉をもらった。

 自分たちの最後の出番は、この新成人ダンスバトルの終わった後の三組目だから、一時間くらいは空くかな。

「ちょっとトイレに行ってくるね」

 私は仲間にそう言って席を立った。

 人の波をかき分けトイレを目指すと、次第に瞼が落ちてきた。

 ぱちぱちと二回ほど瞬きをすると、左ひざの力が抜けた。

「ウェーイ。MIKIちゃん、大丈夫」

 さっきのチャラ男か。

 私の記憶はそこで切れてしまった。


 私が気付いたのは、ベッドの上だった。

 両手はだらしなく頭上に伸び、目の前は、薄らぼんやりとしている。

 着ていたNBAチームのロゴが透ける光をさえぎっていた。

 シャツが捲し上げられていたからだ。

 咄嗟に動こうとしたが、体は初めてダンスを一晩中踊った次の日のように、鉛のように重かった。筋肉痛の代わりにひどい頭痛がしている。

 やられた。さんざん話では聞いていた悪い噂。

 気を付けてはいた。

 先輩の先輩や、友達の友達の話として、私たちの年頃ならたまに話題になる反吐が出る話だ。

 どうやって逃げるか、これ以上何もされないように、どうすればいいか。

 きっとここは道玄坂のラブホテル。

 場所はそんなに移動していないはず。

 考えろ。考えろ。美紀。

 そう言い聞かせ、痛む頭に意識を集中させると、男達の争う声が聞こえた。

 相手は一人ではない。

 絶望が私を襲う。

「おいチース、それは無いんじゃない」

「そうだぞ、チース。ここまで運んだんだぜ俺ら」

「悪い。今日だけ勘弁してくれ。ほら俺も今日誕生日じゃん」

「俺もってなんだよ」

「なんか今日は獲物を独り占めしたくてさ。埋め合わせはするよ」

「ウェーイ、MIKIちゃんは惜しいけど、チースの埋め合わせの方がおウィシーね。きっと」

 あの軽い男だ。

「ちっしょうがねーな」

「貸しだかんな」

「次行こうぜ、次ぎ」

「動画忘れんなよ」

 何人かが部屋から出ていくのを感じた。

 最悪な事態には変わりはないが、それでも少しだけ希望が持てた。

 チースと呼ばれた男の気配は感じるが、一向に近寄ってはこない。

 しばらく時間がたったころ、男が口を開いた。

「おい、美紀。目が覚めてんだろ」

 少し離れたところに座ってこちらを向いているようだった。

 私は動きづらい体を何とか動かし、シャツを戻しつつ上半身を起こした。

 下はまだ脱がされていなかった。

 少しほっとした。

「おい、お前、清水美紀だろ」

 フルネームで呼んできたチースの顔を見て、私の痛む頭の中に疑問符が沸いてきた。

「誰」

 記憶を刺激して掘り返しても、似た顔すら出てこない。

 チースは上に羽織ったシャツのボタンを留めず、タンクトップから出る艶の良い肌には渦巻きお刺青が左胸から首元まで彫ってあった。

 ボタンを留めればギリ隠れるんだろうな。

 そんな元外れなことを考えている私をよそに、チースは構わず質問を続けた。

「お前の父さん、五年前に亡くなってないか、事故で」

 急の話に、私の頭はついていけない。

「あんた、誰」

 そう強がっていうのが精いっぱいだった。

 突然チースが立ち上がり、上着を脱ぎ棄てた。

 結局、逃げられないのか。

 そうあきらめた時、捲し上げたタンクトップから見える右腰上辺りにある手術痕に眼が留まった。

 チースは右手で傷口を指し示した。

「お前の父さん」

 そういうとチースはストンと腰を落とした。

「俺、五年前に、腎移植を受けて、今生きてんだよね」

 チースは悪びれて頭を下げた。

「つい最近知ったんだ。お前のこと」

 私の頭の中はもう、何も考えられなかった。

 いやいっぺんに考えすぎて真っ白になった。

 ……お父さん?

 交通事故で無くなった父は、ドナー登録をしていたので、角膜と膵臓が誰かに移植された。

 お父さんの一部が、今でもどこかの誰かに中で生き続けている。

 それが救いでもあり、悩みでもある。

 でも今、この男は、〝腎移植〟って言った。

 腎臓は移植されていない。

 出来るはずがないのに。

 だって腎臓は、事故で破裂したって。

 それが死因だって。

 どういうこと。

 思考とは別に、溢れる涙が抑えられない。

 嗚咽と過呼吸で、このまま死んでしまうのか。

 そう思うほどだった。

 チースは慌てて背中をさすったり、冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきたりしてくれた。

「あいつら、俺がお前のこと調べているのを知って、勘違いしやがったんだ。次の獲物だって」

 そのあと、チースが言い訳を始めた。


 元々素行不良で、悪い奴らとつるんでいて、今も罪を犯している。

 ただ、あの手術以後、心から犯罪を楽しめなくなった。

 今までは、人の痛みや苦しみが、自分の中にあるどす黒い得体のしれない何かを、ほんの一瞬すっと消し去ってくれる。その爽快感が快楽になっていたのに、手術後からは、生まれて初めて芽生えた、良心の呵責ってヤツを感じるようになった。

 だからといって、今までの生活をやめることが出来ない。

 その生活を抜けることが意味することを何となく知っているからだ。

 仲間から無事に抜けた奴はいない。

 本職になるか、先輩の会社に入るか、真っ当な親の会社に入っても、裏ではそいつらとの縁は切れない。

 何せ共犯者だらけだから、切りようがない。

 お互いが弱みを握っている。

 更生なんて、考えるだけ無駄なことだ。


 現状に流されながらもがいていたら、先月、クスリに溺れ消えていった先輩から久しぶりに連絡がきた。

 金の無心だった。

 つい先日まで刑務所暮らしだったという。

 道理で見なかった訳だ。

 クスリで死んでしまったなんて噂もあった。

 その場にいない奴の話題は、一瞬の笑いで消費される。泡のように浮かんでは消えて無くなる。

 忘れられた人だった。

 そんな先輩が俺に金の無心だと。

 速攻断りを入れると、慌てた口調で俺の手術の秘密を教える。そう言ってきたんだ。

 刑務所にいたのは、その為だという。

 俺は少し興味がわいた。

 この心に芽生えた厄介な良心に、何か関係があるのか。

 とりあえず、十万ほどポケットに突っ込んで、先輩に会ってみることにした。

 海辺のデッカイ観覧車のある遊園施設の外の橋の真ん中で待ち合わせた。

 先輩からの指定だったが、人ごみの方が安全だと思ったから了解した。

 ミネラルウォーターのペットボトルを片手に現れた先輩は、まるで別人のように目は窪み、唇は乾ききってひび割れていた。

「チース、一人か」

「あぁ、そおっす」

「とりあえず、三万でいい、早くよこせ」

 俺は行きかう人の眼も気にせず、三万を渡した。

 すると先輩はどこかへ電話をし、安堵の表情を浮かべた。

 その後橋の欄干側を向くと、辺りを見回し素早く三万円を手に持ったペットボトルに丸めて入れた。

 そのペットボトルを地面に置くと、こっちにこいと道の反対にある温泉施設の方へ歩き出した。

 先輩の後ろをついていくと赤信号で止まった。

 ドン、後ろから誰かに押された。

「痛ってーな」

 悪態をついて後ろを振り返ったが、びっくり顔のカップルや怯えた親子連れ、全く気にも留めていない内輪の会話に夢中な観光客など、人が多すぎて誰が当たったのか分からなかった。ただ人の波に乗って移動しているので、前など見ていなかったのだろう。

 信号が青に変わり、温泉施設の横を通り過ぎ、海沿いの芝生地帯へ入っていった。

 この辺りになると、人も疎らになり、お互いが何をしゃべっているか、近くに居なければ分からない。海から聞こえる波や汽笛、遊園施設から聞こえる歓声など、音の衝立はいくらでもある。

「チース、上着の右ポケットにあるやつを寄こせ」

 言われたポケットに手を突っ込むと、カサっと知らぬ間に入った小さなビニール袋の感触を指先に感じた。

 人差し指と中指でつまみ引き出した。

 先輩は、ばっとその小袋を奪うと自分のポケットにしまった。

「これだよこれ、チース、サンキューな」

 バンバンと左肩をたたかれた。

「先輩、秘密ってなんすか」

 左肩を払いつつ先輩に聞いた。

 先輩の目つきが一瞬変わりチースの右腹部を指さした。

「それだよ、お前の体に入っているヤツ。俺はそいつを殺したんだよ。お前の親父にそそのかされてな。お前のために」

 それが服役の理由か。

 チースは悟った。この腎臓は、狙い、奪ったものだ。

 親父が、俺を生かそうと思って、他人から。

 そのためにこの薬漬けの先輩を使ってその人を襲わせたのか。

 いや、俺なんかの為ではない。

 きっと親父本人の為だ。

 ずっとあった違和感、親父が俺なんかのために、自分の体の一部を提供なんかしない。

 ——クズが。

 チースはベッと唾を地面に吐くと

「おい、詳しく話せ。もっと薬が欲しいんだろ」

 チースは先輩の胸倉を掴み、ポケットに残っていた一万円札の束を先輩の目の前に突き付けた。


 美紀は、そこまで語ると、目を真っ赤にして、口を噤んでしまった。

 初美はそっと近寄ると、優しく美紀の背中をさすった。

「そう、そんなことがあったのね」

 そう言うと、包み込むように抱きしめてくれた。


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