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中山四郎

 その老人は、真新しい籐で編みこまれた椅子に座りながら、眼鏡を掛けた青年へ向け静かに語り出した。

 施設のロゴが胸元に刺繍された黒エプロンをした青年は、この施設のスッタフだろう。独り語る老人に車椅子を運んできてくれている様だ。


 元警視庁警備部警護課、中山四郎。白髪もだいぶ薄く、全身の皺が深く、皮膚は乾燥している。だが、二つの奥まった窪みの底には、何か凄みを感じる眼光が鈍く揺らめいている。

「私は二度、人を撃ったことがある」

 中山は、肘掛から両腕を引き寄せ、目の前に着いた車椅子に手を掛けながら、重い口を開いた。


「ほんの四、五年前の事だ。大きな事件だったが、一般人には知られていない」

 老人は周囲を見渡し、青年にだけ聞こえるように囁いた。

「なぜなら、極秘事案、トップシークレットというやつだ。国家機密と言って良いだろう」

 中山の口元は少し開き、しばらくすると閉じまた開く。その続きをどうやら言い兼ねているようだようだ。しかしやがて一呼吸するとその表情が変わった。

「当時の首相の命を暗殺者から私たちは守った。……今も引き金を引く感触と、硝煙の香りが忘れられない」

 そう言うと中山は、大きなガラス窓の向こうに広がるビル群の後ろに沸き立つ入道雲を見つめ、記憶を手繰り寄せるようにゆっくりと話をつづけた。

「……あれはテロだったのか、それともクーデターであったか定かではない。  真相は未だ闇の中だ」


 プライバシーの観点より、名称を〈呼称〉表記する者もいます。

 ご了承ください。


 暑い日だった。

 中山は定年を控え、現場に出ることはほとんど無くなっていた。

 しかし、その観察眼や、若者に負けない体力、胆力、そしてもはや名人芸とさえ称される逮捕術は、他の追随を許さない。

 いまだに年老いた要人から指名が掛かる。

 拳銃を使わず、素手で犯人を捕縛することに生きがいを見出しているようで、度々過去の武勇伝を新任警護官たちにせがまれ、雑談としながら聞かせる。

「心持ちですよ」

 そう中山は言う。

 世界でも稀にみる平穏な現代日本では、むやみやたらに拳銃を撃つことは慎むべきだと中山は考える。それでも非常時には仕方がないのかもしれないが、万が一犯人から逸れれば、一般人に危害を及ぶかもしれない。

 中山が警護する対象者には、常に記者や取り巻き、支持者、反支持者が周囲に居る。


 凶器は、より大きな凶器を引き出す。

 ナイフを出せば、警棒。警棒なら拳銃。拳銃に拳銃、それならショットガン、または手榴弾。

 といったように、常に相手の上を取ろうとする。きりが無い。

 相手には、得物の優位性を認識させることで、より深刻な被害にならぬように、あえて下の装備で立ち向かう。

 その差を埋めるのが、優れた逮捕術である。

 相手が素手なら、いつでも刺せる撃てる、と認識させることで相手の油断を誘う。

 下手な刺激はかえって犯人の衝動的な暴発につながる恐れがある。

 無手でもこちらが有利と、堂々と構えれば良い。

 中山が若かりし頃、一度痛い目にあっている。実体験からの忠告でもある。


 中山は過去に警察功労章を受けている。それが彼の業績を物語る。

 退官時には、警察功績章を頂けるのは間違いない。もしかすると警察勲功章もありうるのではないかなどと噂する者もいるが、かなりの要人護衛時の殉職で頂けるかどうかであろう。

 本人は警察功労章を受賞した時、その時の班の代表として頂けた物で、個人の手柄では無いと謙虚に語っていた。

 身長一六九cm警護課にしては小柄である、現在なら書類審査ではじかれてしまう。

 しかし、その身体能力は抜群で、オリンピックを目指せば金メダルも取れたであろうと噂された時期もあった。

 無手で相手にそろりと近づき、瞬時に組み伏す様は、今三四郎の異名を持つ。

 仲間内は中山のことを、畏敬の念を込め「今さん」と呼んでいる。

 自分のデスクで新任警護官の書類に目を通しながら、その新米に『心持ち』を訓示していた時、班長の〈薮田〉が厳しい表情で入ってきた。


「みんな集まってくれ」

 左手にタブレット端末を携え画面の資料を見ながらである。中山的には紙ベースの資料の方が頭に入るが、時代には付いてゆかねばならぬ。

「まだ極秘ではあるが、都内で大掛かりなテロ計画が進行中と、信頼度の高い情報が入ってきた」

「ついに我が国にもテロですか」

 三十代の〈野尻〉が、抑揚の無い声で言った。この班の現エースである。

 警護課の中でも三本の指に入る男だ。

 身長一九二cm、分厚い胸板と引き締まった腰回り、隆起した大腿筋は体躯に似合わず俊敏性を感じさせる。中山にみっちりと逮捕術を仕込まれ、かつ銃撃の腕前もかなりのものだ。

「国会が攻撃対象となっている」

「国会が」

「次の国会は、確か九月二十六日より十一月三十日の六十六日間です」

 新任の三橋〈新六〉が手帳を開きながら言った。

「長いな」

「一週間後からか、私も現場に出ないとな」

「もちろん。長丁場になる、今さんの力を借りるよ」

 班長は中山に目配せをしてから、班員全体を見回した。

「現在、外事第三課と国テロ対策課が捜査展開中との事だが、我々警護課に『今』情報が降りてきたとなると、開会までには解決しそうも無いな」

「テロリストか。若い頃、本当に駆け出しの頃、諸先輩方から何度となく聞かされた以来な」


「日本赤軍ですか」

「あぁ、だが今回は時代のうねりを、世の中の熱気とでもいうのかな、それを感じない。新興宗教無差別殺人事件の時とも違う感じがするな」

「犯人達の目的は何なんですかね」

「それは第三係か外事の仕事だ。俺たちは対象者の安全・生命を守ることに専念すればよい」

 警護第一係薮田班の任務は内閣総理大臣担当、つまり総理の身辺警護が任務である。

 柿本彦麻呂その人である。六十四歳。最年少で神奈川県知事に当選したが、任期途中で辞任し、与野党逆転選挙の時に当時の与党最大派閥より国政に打って出たが、当選と同時に野党を経験し、そこからのし上がってきた。防衛省に太いパイプを個人的に持っていて、華族との縁も有る。


「本日のマルタイは、九:〇〇総理大臣官邸で経済財政諮問会議、一一:三〇総理大臣官邸でベトナム国首相と首脳会談及び昼食、一四:四五 ナキ王国大使館を弔問、一六:〇〇総理大臣官邸で原子力防災会議、一九:一五 銀座『凪』にて財務大臣大川氏と会合、二一:三〇帰宅」

 柿本総理の一日の動きを説明した〈梶野〉は、情報の管理、解析、連絡をこなす〈薮田〉班の後方支援担当。

「本日は宮地班がマルタイ警護、我々薮田班は、ナキ王国大使館で先着警護を展開、マルタイ大使館出立後、銀座『凪』で先着警護を展開、マルタイ出店後解散、以上」

「ハッ」


「今さん、そういえばナキ国王の死因はなんだったんですかね?」

 新六が運転しながら聞いてきた。

「病死と聞いている、先年よりお体を患っていらしたからな」

「でも、一時は回復に向かっていたって、ニュースでやってましたよ」

「私は医者じゃ無いし、判らないな」

「ナキ国王亡くなったから、あの国揉めるだろうな」

 ―ピーッガッ―

「新六、前見て運転しろ。今さんも新六のおしゃべりに付き合うことありませんよ、こいつはほんとにお喋りだから」

 梶野が無線で割って入ってきた。

「だって今さんと一緒に現場に出るのは久しぶりだし、あと何回一緒に出れるか分からないじゃないですか」

 無線に向かって新六が口を尖らせた。

「よくこいつがウチの班に入れましたね」

「一応首席で、薮田班を逆指名させて頂きました」

「お前が首席って、今年は不作かー」

「梶野、お前がお喋りしてどうする。だが、俺はこいつを買ってますよ。 今さんは、どうですか」

 助手席から、大きな体の上半身だけ器用にひねり、後部座席の中山に問いかける。

「野尻の見立ては正しいと思うよ。私も新六には期待している」

 新六が得意げにまた喋りだす。

「ナキ王国は一年前の軍事クーデターで政権が交代してますよね。当時の首相率いる反政府勢力と、現軍事政権がいまだに争い国家分断の危機でしたよね」

「それを、先日亡くなったナキ国王の存在だけで、辛うじて国家として保たれていたわけだが、その王が亡くなられたのでは内戦にいつ突入してもおかしくないな」

 野尻の言う通りナキ国は近々内戦になるだろう。

「なんか、反政府勢力が、近隣のテロ組織とコンタクトを取ったとか、取ってないとか?きな臭い噂があったじゃないですか」

 新六は、緩やかにステアリングを切りながらしゃべり続けた。

「我が国と、ナキ王国は一年前まで自由貿易協定を結ぶ直前まで話が進んでいたし、官民合わせて経済援助を行っていて、皇室と王室のつながりも長く良好だったんでしょう。本国がテロリストと係わりがあれば、大使館側からリークがありそうだけど」

「現ナキ王国駐日大使が、どちらサイドなのかにもよるかな?スタッフだって、片方だけとは限らないじな」

「確かに。一年より前に派遣されたスタッフが残っていれば、旧政府側の人間かも」

 野尻と新六の会話を黙って聞いていた中山が助手席に手をかけ梶野に指示を出す。

「梶野、大至急 大使館スタッフの細かい資料を探ってくれ、旧政府側とつながりがありそうな人間を教えてくれ」

「了解です」


 ナキ王国駐日大使館では、すでに所轄の警備担当が周囲の索敵を展開していた。

「お疲れ様です。薮田警部は先ほど先着され、中で大使と打ち合わせ中です」

 声をかけてきたのは、所轄古参の刑事渋谷だった。

 要人の立ち寄る場所は割と限られているので、警護課と所轄署員は、自然と顔見知りになる。

「公安さんは、相変わらず無言展開してますよ」

 渋谷は、苦虫を噛み潰したような顔で物陰に潜む公安員たちに目線を振った。

 その顔が、中山の顔を見つけると急に明るくなった。

「今さん!今日は現場ですか」

「久しぶり、渋谷巡査部長。相変わらず元気そうですね。私も、たまには新六に良い所を見せようと思ってね」

「新六巡査部長、良かったなー。今さんの所作を今のうちに目に焼き付けとけよ。本当に勉強になる。野尻みたいになるなよ」

 渋谷は意地悪く笑った。

「渋谷さん、俺だって今じゃ警護課のエースの一人ですよ」

「悪い、悪い」

 へらへら笑いながら渋谷は悪びれもせず片手を上げた。

「何か変わったことはないか」

 中山は、周囲を見回しながら聞いた。

「周辺には特に異常なし、館内も異常なしと聞きました」

「そうか」

「皆さんも大変ですね、さっき聞きましたよ、テロがあるかもしれないと。いつもより気が張ってしんどいですね」

「渋谷さんたちも随分忙しそうじゃないですか」

 野尻がこの老刑事の前だと、少し緊張が解けてしまうようだ。

「おぅそうよ。先日管轄内の廃ビルで、ヤクザと半グレの大抗争があったし、今しがた、近くの病院で、救急車による交通事故死があったみたいで、交通課の連中、すっ飛んでいったよ」

 やれやれと、両掌を横に開き困り顔をした。

 建屋の扉が開く音がすると、渋谷は視線を向け姿勢を正し、まじめな顔を作り敬礼をした。

 薮田警部が正面玄関から出てきたのだ。


「さすがにテロリストがいたとしても、ここでは不敬を働かないでもらいたいですね。故ナキ国王を偲ぶための弔問なんだから」

 新六がまじめな顔して言うと、野尻がそれを諌めた。

「こちらの都合で考えるのはやめておけ。両国の関係が悪化するのを望む者が居ないとは限らないぞ」

 わかってますよ。ただそうであったらいいなと思っただけ。そう言いたかったが、新六は口をぐっと結んで頷いた。

「館内の見取り図は頭に入っているな」

 薮田は手元のタブレットを指差しながら、班全員の顔を見渡した。

「ハイ。それと、梶野から、大使館職員の中に数名、旧政権から引き続き赴任している者のリストが来ました」

「続けろ」

「料理人のキータサンカの家族四人と、通訳ルワン・プラーモート一人、合わせて全五名です」

 薮田は軽く頷くと、その後を続けるよう目配せをした。

「通訳のルワンは、日本人の妻を娶り、先月我が国へ帰化申請を出してます。料理人の家族構成は、四十代夫婦と二十代の息子が料理人資格を持ち、娘は都内の高校に通っています」

「ルワンは日本の政財界に太いパイプを持ち、英語、フランス語、中国語も話せ、政治、経済の専門用語から、JK言語までを日本語で話せる大変優秀な職員とのこと」

「JK言語って、それはすごいな。日本人の俺でも分からんのに」

 渋谷がつい口を挟んでから、首をすぼめ視線をそらした。

「料理人一家は、現駐日大使と同郷同族で、そのまま残ることが許されたそうです」

「どちらかに絞るなら通訳のルワンだが、テロリストから脅されて犯行を犯す場合もある」

「渋谷巡査部長、所轄の署員にキータサンカ一家とルワン一家の所在確認をしてもらってもいいですか」

 中山が右の眉毛を人差し指と中指でこすりながら、渋谷にお願いした。

 渋谷は無線を持つ部下にすぐさま六人の所在確認要請をさせた。

「今さん、何か気になるのですか」

 渋谷は部下に指示したあと、中山に近づき聞いた。

「何か、ピリッとしてる空気が感じられる」

 そう言うと中山は視線を右から左へと水平に動かし、右斜め上へと上げて止まった。

 黄色い風船が一個風に流されていて、さらに上空へと舞い上がる。

「新六、付いて来い。班長、少し気になりますので、周囲索敵します」

「分かった、頼む」

 薮田はこの老警護官の感を疑うことはなかった。

 中山は無言で頷き、渋谷に目配せをし、足早に、さっきくぐったもんから飛び出していった。その後を子犬が散歩に連れ出されたかのように元気よく新六が付き従う。


 官邸を出て右に曲がり、大通り方面へ進む。

 そこまで来て中山は足を緩めた。

 息切れどころか汗一つかいていない。

 風船が放たれた場所をあの一瞬で推測し、中山はその場所へ歩を進めた。

「今さん、どうしたんですか?さっきの風船がそんなに気になりますか」

「はは、老婆心かもしれないが、気になったのでね」

「ふーん。それが刑事の第六感ってやつですね」

「警護官な」

 新六は、にやけるのを我慢した。今さんの警護官へのこだわりは、尋常では無い。誇りを持って職務に当たっている。自分にとっては目標とする大先輩であり、訓練生時代に聞いた逸話は、まさに伝説といっても過言ではなかった。その生ける伝説的大先輩と行動を供にできるのは、きっと自分が最後なのだろう。つまり、自分が最後の弟子になる。

 最高に名誉である。

 いつかはきっと自分も大手柄を立てて、同列に並びたい。

 その為にも、今回はいい機会であり、逐一今さんの行動、言動を学び、盗もう。


 二人は大通りから一本外れた道の先に、ビルの窪みと歩道の隙間に机を出し、何かのキャンペーンをしている三人組を見つけた。

 白地に緑の挿し色のミニスカートに、同色の上着を羽織った女性が二人。一人の手には色とりどりの風船が握られている。

 黒地のスーツの男が一人、風船にガスボンベからガスを注入し膨らましている。

 会議で使う折りたたみ式の長机に、前と横に化粧板を張り、机の横にはのぼりが立っている。

 机の上にはノートパソコンと、大小の箱が数個、これも白地に緑の包装紙である。

 あとは駄菓子とポケットティッシュがきれいに並んでいた。


「こんにちは、暑いのに大変ですね」

 中山はキャンペーンガールに話しかけた。

「いらっしゃいませー、くじ引きよろしかったらどうぞ。はずれは無いですよ」

「ははは、何屋さんなんだい?」

「はい。新しい通信会社、ジェイ・ピー・エヌです。今までのスマホ代より安く・回線の繋がりも早く・利用できるパケット量も多い、最高で最新のキャリア、ジェイ・ピー・エヌです」

「ああそうかい、ご苦労様。-しかしここ暑くないのかい?」

「めっちゃ暑い。でも足元にファンがあるから大丈夫」

 風船を持っていない方の娘が対応してくれた。まだ十代くらいの若い娘で、決められたマニュアルの台詞と、話し言葉にギャップがあって面白い。

「お客様、どうしました」

 先ほどまで風船を膨らましていた男が、色とりどりの風船に白マジックで、何かのキャラクターらしい目や口を書き込んでいた。

 その男が手を休め、額の汗を拭いながらこちらに話しかけてきた。

「いや、警察でね。見回り中」

 中山は警察手帳をさりげなく掲げた。

「あっそうでしたか。ご苦労様です。何か事件ですか?」

「いやいや、若いの連れてパトロール。これも仕事なんでね」

 親指で〈新六〉を指して言った。

「一応、身分証とかあるかな?見せてもらってもいいかな」

 手帳をしまいながら中山が聞いた。

「はいもちろん。免許書でいいですか。あっマイナンバーカードのほうがいいですか?」

「どちらでも結構ですよ」

「三人とも?」

「あれば助かるねぇ」


 中山達は、二枚の免許書と一枚のマイナンバーカードに目を通した。

「はい、OKです。まっ形だけだからね。ありがとう」

 中山はすまなそうに言った。

「ちなみに、道路使用許可書はあるよね」

「あっもちろん、あります。出しますか?」

「あぁ、お願い」

 男は机の横に掲げてあるのぼりの下に置いてあった鞄から、書類を探し出し中山に渡した。

「ホイ、ちゃんとあるね。許可番号、第二八五四号。良―し」

 中山はさっと書類に目を通し、納得したように書類を男に返した。

「三人だけかい?」

「はい、三人です。夕方女の子が入れ替わりますが、基本三人です」

「この通りじゃお客さんも少なくないかね」

「そうなんですよ、許可申請のとき通りを一本間違えてしまったようで」

 男は片膝をついて、許可書を先ほどの鞄にしまいながら言った。

 確かに、かろうじて二台車が通れるが道幅は狭く、人通りも全く無いと言って差し支えない。

 あるのは古くからの米屋のようで「新米あります」の張り紙が張られたシャッターは閉まっている。

「それなら、所轄には私から言っとくから、大通りに移っていいよ」

 中山が大通りを指差した。

「いやー、でも大通りは人も居るけど、車が結構通るから排ガスはちょっと嫌だなと」

 男は、女の子の方を向いた。

「ここならゆっくり接客が出来るので、ちょうどいいんですよ。おじいちゃん」

「そうかい」

「こら、美紀ちゃん。すみません刑事さん」

 男はぺこぺこと頭を下げた。

 中山は手を振り気にしないと伝えた。

「じゃ、がんばって」

 そう言うと、中山は三人に背を向けて歩き出した。

 新六が後を追う。


「今さん、どうですか」

「クロだ」

 中山は押し殺し囁いた。

 三人に話していた好々爺然とした口調から一変した。

「あの許可証は偽物、パソコンの画面は男だけが確認できる角度。おそらくどこかのカメラからの映像を見ていると思われる。風船を持った一言もしゃべらない女は、多分武術経験者だ。あのミニスカートには不釣合いな、厚底だが機能性のある靴を履いている。よくしゃべる若いのは、――多分無関係なただのバイトだ。厄介だぞ。協力者が日本人だとすると」

 そこまで、一気に自分の推測を小声で語った。その口と足がぴたりと止まり、おもむろに中山は踵を返すと、頭を掻きながら三人の元へ戻っていったた。

 机の前に置き忘れた中山の鞄を指差して。

「いやー、年取ると忘れ物が多くてね」

 中山はポケットからハンカチを取り出し、額から首筋に伝う汗をぬぐった。

 ついでに両手も拭きながら三人に近づいた。

 美紀ちゃんと呼ばれた娘が、前に出て鞄を拾い上げてくれていた。

「ああ、どうもどうも。ありがとね」

 中山はすまなそうに美紀のもとに鞄を受け取りに行った。

 刹那、中山の手は美紀ではないもう一人の女の手に握られた風船を奪い去った。

 一瞬の早業である。

 美紀は鞄を渡そうとした相手がくるりと反転したため、バランスを崩し、とととと、前のめりになりながら転んだ。

 中山は奪った風船の紐を一つにまとめ、その先に素早くハンカチを括り付けた。

 それは、風船を奪われた女の繰り出す手刀を掻い潜りながらである。

 スーツの男は白い風船を取り出し、ガスボンベのバルブを全開にした。

 バルブを閉めることなく、膨らんだ風船を空に飛ばした。

 ドカッ。

 新六が、スーツの男の右腿を踏み台に、左肩に駆け上がり、空中を飛んだ。

 白い風船を両手でつかみ、 落下した。

 中山は、ハンカチの錘で飛ばなくなった風船を投げ捨てた。

 空いた両手で机を乗り越え、着地に合わせて繰り出してきた女の蹴りを躱した。

「こんな狭い場所で、良い蹴りだな」

 女の右手には、いつの間にかナイフが握られていた。

 しかし中山は躊躇せず一気に女に詰め寄って鳩尾に一撃を打ち込むと、苦悶で体がくの字になった女の顎に、掌の根元を掠めるように打ち込んだ。

 このような場合、中山には迷いがない。

 女は肢体の情報伝達を遮断され、黒く長い髪をはためかせ、崩れ落ちた。


「動くな!この女がどうなってもいいのか」

 振り向くと、男が美紀の首に腕を廻し、右わき腹に銃を突き立てていた。

 新六は白い風船を抱えて立ち上がり、二人の正面へ移動した。

「待て、こんなところで発砲したら、それこそ警官が大挙してくるぞ」

 新六は説得を試みた。

「関係ねーよ。それよりその白い風船を空に放て。今すぐだ!」

 男は拳銃を新六に向けた。

「まて待てまて。今いま今。ちょっと待て」

 新六は風船を男のほうへ突き出し、傍から見るとそれで拳銃から体を守ろうとしているようだった。

 男が新六に気を向けた時、中山が男の背後に音も無く忍び寄っていた。

 中山は素早く男の両肘を親指と人差し指で挟み締め上げた。

 面白いことに、男の両腕はダウジング棒が開くように外に開いた。

 ばふん。

 流れるような動きで、今度は軽く握った拳を男の両肩甲骨へ打ち込んだ。

 だらりと男の肩が一段下がった。

 いや、両腕の骨が根元から、肩から外れてしまったのだ。

 男の腕にはもう力が入っていない。

 中山は素早く拳銃を握っていた腕の肘を抑えると、その手首をひねり拳銃を落とし、もう片方の手で受け止めて、安全装置をかけ地面に置いた。

 それはまるで、決まった動作を流れるように舞う演武のようだ。

 美紀と男の間に体を入れて、後ろ手で美紀に離れるように指示を出した。

 男は体を大きく振り、中山の手から逃れようともがいた。

 中山の手が男から離れると、今度は男の右足に中山が飛びつき、そのまま男は地面に倒された。腕が使えない男は、なす術もなく地面にしこたま打ち付けられた。

 男の足首と膝の関節は、中山によって完全に極められていた。


 何処かで待機していたのか、すぐに所轄署員が駆けつけてきた。

 渋谷が部下に二人を尾行させ、逐一状況連絡させていたのだ。


「お嬢ちゃん。――あぁ確か、美紀ちゃんかな。痛かったね、怖かったね、ごめんね」

 中山は美紀に向かって頭を下げた。

「なにこれ、撮影? 私、どっきりかけられたの? あたたた、痛っ。でもおじいちゃん、凄いね。ビュっとなってクルって、そんでドンって」

 ひざを治療されながら美紀が言った。

「おじいちゃんのカバン、重かったね。何が入っているの。おかげで私バランス崩しちゃったよ」

「ははは。君から見れば、私はおじいちゃんだね。残念だけど、この鞄の中身は秘密なんだよ」

 中山は周囲に目を配らせながら、美紀に言った。

「彼らは犯罪者だ、まだ他に仲間が居るかもしれない。君は彼らの仲間かい」

 美紀はぶんぶんと首を振る。

「だろうね。でも少し署のほうで話を聞かせてもらうよ。それから、もしかすると君にもまた彼らの仲間が接触してくる恐れがあるから、しばらくは警護をつける。悪く思わないでくれ」

「えっ私VIPってこと。SPが付くの? 超―かっこいいんですけど」

 中山は呆れてしまった。

 事の重大さがまるで分かっていない。身の危険をこれっぽっちも疑っていない。これが若さか。

「何かあったら、担当警護官か、品川警察署の渋谷巡査部長に言うといい」

「品川で渋谷って、ウケるんですけど」

 屈託なく笑っている美紀を見て、中山は安心した。

 メモ帳に、渋谷巡査部長の名前と電話番号を書き記し、ちぎって渡した。

 紙のメモを手渡された美紀は、なぜかまた笑っていた。

 そこへ、新六が奪った白い風船を抱きかかえ、覗き込みながら中山に近寄ってきた。

「すみません、今さん。ここに何か書いてありますけど、“096Z―96„ってありますけど何なんすかね」

「解らないな。所轄さんに渡して、調べてもらえ」

 続々と集まるパトカーに親指を向け、降りてくる警官に新六が風船を渡し終えると、中山達は急ぎ官邸に戻った。


「今さん、お疲れ様。大活躍ですね」

 大使館に戻ると、野尻が声をかけてきた。

「あぁ、その後こちらは異常ないのか」

「はい、通訳と料理人それぞれの家族全員、居場所が把握でき、周囲に刑事を配備しました」

「まだ相手の目を一つ潰したに過ぎない。でも確実に居る。それだけは確かだ」

 これまでとは違う明確な敵の存在に〈薮田〉班は緊張感を一段と引き上げる必要を感じた。



 柿本総理は故ナキ王との思い出話を大使と話した後、無事に首相官邸へ戻っていった。

 薮田班は、警備強化のためそのまま大使館警護に残っていた。

 首相一行を見送ると、新六が中山へ駆け寄ってきた。

「あれからは、何もなかったですね」

「あぁ、奴らも作戦の練り直しだろう」

「今さんが捕まえた男は、その界隈では名のあるハッカーで、女の方はシリア内戦に外人部隊で参戦した経歴の持ち主でした」

「傭兵だったのか」

 中山は一人頷いた。

「解析班、今回は仕事が早いね。この三十分でもうそこまで分かったのか」

「今回は、上も相当本気のようですね」

「国境戦線という多国籍傭兵組織に属していたみたいで、テロリストにも雇われているそうですよ」

「厄介だな。テロリストは同胞の解放を口実に、新たなテロを仕掛けてくる」

「いよいよ我が国も、国際基準の安全維持法案が可決されますかね」

 移動の準備が出来たのか、野尻も会話に加わった。

 そこへ薮田警部が少し険しい顔で合流した。

「ご苦労様です。マルタイの予定が変更になりました。一九:一五が二〇:一〇横浜『せいちや』に変更」

「総理の地元ですね」

 薮田警部は顔だけ中山に向けた。

「先ほど今さんが逮捕した男、佐藤はルワンの顔見知りでした」

 一同が一瞬、互いの顔を見て頷いた。そうであろう、意味なくあの場にテロリストが居るはずも無い。

「ルワンが良く行く銭湯の客だそうです」

「ルワンさん銭湯に行くんですね」

「銭湯好きな外国人は多いよ」

 梶野が無線の向こうから入ってきた。

「また、アルバイトの少女の方もルワンの知り合いでした」

 中山は、ただの学生である美紀があの場でアルバイトをしていたことに納得した。

「キータサンカの娘、アイルの先輩でした。佐藤は銭湯でルワンに接触し、アルバイトを捜していると話を持ちかけ、ルワンがそれをアイルに話したところ、先輩の美紀が来たとそうです」

 梶野が補足説明をした。

「本当はアイルをアルバイトに欲しかったんだと思います」

「恐らくそうだろう。それと、新六が押さえた白い風船。白ペンで殴り書きされた“096Z‐96„は、 目下暗号班が解析中だが、もうしばらく時間がかかるだろう。私からは以上だ」

 薮田がそう締めくり、班は次の警護先横浜へ移動を始めた。


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